1967年ニューアークの反乱

クレジットカードの旅行保険が切れたので、自転車に乗るのは控え、2日間家で静かにしていた(^^;)。しかし、やはり家にじっとしているは苦痛だ。自転車にさえ乗らなければ外出してもいいだろう。

「反乱」から50

7月12日のニューヨークタイムズに、ニューアーク暴動から50年たつという記事が出ていた。1967年7月12日~17日までの6日間。そうかこういう暑い季節に暴動は起こったのだな。「長く暑い夏」と言われたあの年、全米で計159の黒人暴動が起こり、その中でもニューアークは26人の死者を出し最悪の一つとなった。よしここに行ってみよう。

(ちなみに、この年の暴動で最も死者数が多かったのはデトロイト暴動の43人でニューアークは2番目。それ以後、1992年のロサンゼルス暴動が63人の死者を出し記録を塗り替えている。)

ニューアークはニュージャージー州最大の都市だが(人口28万人)、あまりなじみがない。ニューヨークの空港の一つがあるので知っているくらいだ。

いや、そもそも、ニュージャージー州が日陰の存在だ。マンハッタンからハドソン川をはさんだすぐの都市地帯がニュージャージー州なのに、ニュージャージーといってもどこか遠い田舎のように感じる。その南のペンシルバニア州にはもう一つの大都市、フィラデルフィアがあるが、そこでもデラウェア川をはさんだすぐ隣がニュージャージー州のカムデン市になっている。フィラデルフィア大都市圏の一部なのだが、やはり陰に隠れて目立たない。

そのニュージャージー州の最大都市ニューアークが、1960年代に大規模暴動(反乱)が起こった街だ、ということでついに私のレーダーに入ってきた。

行きはバス、帰りは電車

7月13日(木)、行きはマンハッタンのポートオーソリティ・バスターミナルからNJトランジットのバスで、帰りは同じくNJトランジットの鉄道でペン・ステーションに帰ってきた。いずれもシニア割引で3ドル以下だった。

108番のバスに乗り、ハドソン川をリンカーン・トンネルで越え、ユニオン・シティを越えてさらに西へ。ニュージャージー・ターンパイクに出る。ターンパイクとは西海岸ではあまり聞かないが有料道路のこと。植民地時代、道路の所有者がPike(遮断棒)で道をふさぎ、金を払った人だけにそれをまわして(Turn)開けたことからきた言葉だという。ここでサイモン&ガーファンクルを思い出したのだが、それは後述。

殺風景な平原・湿原地帯に、やや高いビル群が見えてきて、ニューアークに着いた。こぎれいな公園(ミリタリーパーク)の近くで降りると、観光案内所があり、市街地図をもらえた。係の聡明そうな黒人青年に「どこに行きたいのですか」と聞かれて一瞬狼狽した。「黒人暴動」に関心があって…となぜ言えなかったのか。「いや、ちょっとぶらぶらしてみようかと思って」とごまかした。

雑然としたニューアークのマーケット通り。
市の中心部下町、マーケット通り。若干雑然としている。昔居たサンフランシスコのマーケット通りに雰囲気が似ている。
ニューアークの下町、マーケット通りとブロード通りの交差点付近。
マーケット通りとブロード通りの交差点付近。

街には確かに黒人の姿が多い。2010年の統計では、黒人52%、中南米系34%、白人12%、アジア系1.6%という数字が出ている。1950年に17%だった黒人人口は1970年までに54%に増えた。特に中心部のセントラル区は1990年までに93%が黒人となった。白人はどんどん郊外に出ていき、このニューヨーク郊外にしてニュージャージー州最大都市ニューアークの総人口が1930年の42万人から2016年の28万人まで3割以上減少している。

アジア系はほとんどおらず、私が街を歩いていると浮き上がっているように感じる。写真を撮っていたら、中南米系の男に「フィリピンから来たのか」と聞かれた。ふふふ、どこの何者かわからないだろう。

大学街でもある

ダウンタウンはそれなりに混とんとしているが、きれいな場所もあり、現在では暴動が起こりそうな街には見えない。それより意外と大学が多いのに驚いた。名門のニュージャージー工科大学が、ほぼ市中心部(ユニバシティー・ハイツ地区)にあった。それに隣接して、1766年からの歴史をもつラトガース大学(正式名称ニュージャージー州立大学)も。日本人の友人K氏もこの大学を卒業していたことを思い出した。人種問題に取り組んでいた。黒人暴動の街ということで何か考えるところがあったのだろうか。

二つの名門大学を中心に、ニュージャージー医科歯科大学(現在はラトガース大学に吸収)、エセックス郡立大学、セトン法律大学院、など複数の大学が集まり、この地域だけで4万人の学生が学ぶ。ほとんどが公立で、貧しい移民の子弟やマイノリティーの学生が多いという。

今でこそニュージャージーは隠れた存在になっているが、19世紀末にエジソンがメンロパーク(ニューアークの南)に研究所を置いて以来、この地域はイノベーションの拠点になっていた。20世紀初頭には電話発明者グラハム・ベルの流れをくむベル研究所が同州各地に設立された(最大拠点はニューアーク西のマレーヒル)。ここで育ったショックレーがカリフォルニア州マウンテンビューに移って半導体企業ショクレー・セミコンダクター社を設立したことがシリコンバレーの起点となったことはよく知られる。ニュージャージーは、一昔前のシリコンバレーだったかも知れない。

ニューアーク市の中心ビジネス街。
市の中心ビジネス街。
ニューアーク市の中心ビジネス街。後方にプルーデンシャルの本社。左手の緑はミリタリーパーク。
中心ビジネス街。後方にプルーデンシャルの本社。生命保険などで世界最大級の金融サービス会社がニューアークに本社を置く。左手の緑はミリタリーパーク。
ニュージャージー工科大学の古い校舎。
ニュージャージー工科大学の古い校舎。
ラトガース大学。
州立のラトガース大学。同大はいろんな学部を統合して拡大している。

 

ユニバーシティ・ハイツ地区から見たニューアーク市中心部。
大学が集中するユニバーシティ・ハイツ地区から市中心部を望む。大学がほとんど市の中心部にあると言ってもいい。
ニューアーク市役所。
ニューアーク市役所。
地下を走るニューアーク市の市電。
市電はすべて地下に移行した。

 

ニューアークのペン・ステーションからパサイック川の鉄橋へ。
ニューアークのペン・ステーションからニューヨーク方面に向かう線路がパサイック川を渡る。河岸までは出ていけなかった。

ニューアークの鉄道駅ペン・ステーションの裏手にパサイック川が流れているので、河岸公園にでも出てみようとしたが、それらしいものはない。工場や倉庫ばかりで近づけない。駐車場を横切って川に出ようとしたら管理人に呼び止められ追い返された。

NJトランジットのニューヨーク行電車がホームに入る。
NJトランジットのニューヨーク行電車。30分でマンハッタンに着いた。

「ペン・ステーション」はペンシルバニア鉄道駅の意味。ペンシルバニア鉄道はかつて米国最大の鉄道会社だった。ニューヨークの鉄道駅を始め、この辺の駅の多くがそう呼ばれている。

サイモン&ガーファンクル

実は、サイモン&ガーファンクルのポール・サイモンがニューアーク出身だ。バスで来るとき、ニュージャージー・ターンパイクを通った。その時、彼らのAmericaという曲を思い出した。そこにこのニュージャージー・ターンパイクが出てくる。I’m empty and aching and I don’t know why. Counting the cars on the New Jersey Turnpike. They’ve all gone to look for America. 深く知らずにカラオケでこの下りを歌っていたが、実際にこのターンパイクを見てよくわかった。恋人と漠とした「アメリカ」を探し求める旅に出たという歌。ニュージャージー・ターンパイクはマンハッタンのジョージ・ワシントン橋からニュージャージー州を横切って、ペンシルバニア州やデラウェア州に出る幹線路だ(現在片側6車線)。ニューヨークから全米に向かう車はまずここを通る。「皆アメリカを探し求めて走って行く」と歌うにはぴったりの高速道路だ。

ニュージャージー・ターンパイク。
ニュージャージー・ターンパイク。Photograph by Mr. Matté, distributed under a CC BY-SA 3.0 license.

ニュージャージー・ターンパイクはニューアーク市域を縦断する。つまり、このターンパイクはサイモンの「地元」の風景だったのだ。

一方のアート・ガーファンクルはニューヨークのクイーンズ出身。繊細なガーファンクルから見るとポール・サイモンはやや粗野で、合わなかったようだ。しかし、作曲・作詞の才能はサイモンの方が上だった。彼は、グループ解散後、レゲエやアフリカ音楽など多様な音楽活動に入っていった。そこには、この黒人の街ニューアークで得た文化的影響があったのではないか。