想えば私は、常に公園のそばに住んできた。12月の寒い曇り日、近くのサンセット公園を散歩しながらそんなことを考えた。

私の少ないこだわりの中の唯一のこだわり。どんな所にも住める。貧しい所、異文化の街、きたない所、ちょっと危ない地区、暑い国、寒い国、あ、いや極寒の地だけは勘弁だが。
衣食にこだわりがなく、住にも基本的にこだわりないが、必ず公園近くに住んできた。腰痛持ちで、予防ため、運動できるところが必要で、こんなことになったようだ。
初めてぎっくり腰が出たのは、サンフランシスコ近郊バークレーで学生生活を送っていた頃。保育園のボランティアをやって腰が痛くなった。20代半ばだった。学生協同組合運営の寮に住んでいたが、ジョッギングできるところを探すのに苦労はなかった。近くの大学キャンパスが公園のようなもので、朝早く行くと、ほとんど人がおらず、自由に走れた。

その後、サンフランシスコのゴールデンゲート公園北側に住んだ。日系のパーマ屋さんが、防犯を兼ね、夜間だれもいなくなる店の裏部屋を格安で貸してくれた。ゴールデンゲート公園は日比谷公園の25倍もあり、広くて申し分ない。霧のたちこめた緑の芝生を存分に走らせてもらった。

半年くらい日本に帰った時は、吉祥寺(東京)の井之頭公園近くに住んだ。アパートは木賃6畳一間だったが、公園は情緒があり、季節が美しく移り変わる中をジョッギングできた。
再びアメリカに帰って今度はサンフランシスコのサンセット地区。ゴールデンゲートパーク公園を挟んで反対側になる。また緑の芝生でたっぷり運動したが、お前のような痩せたやつがジョッギングする必要はまったくない、食え、と言われたのを思い出す。
大学を卒業して、世界1周して日本に帰り、今度は小金井公園の近くに住んだ。三多摩地区にある東京にしては珍しいくらい広い公園。また、東小金井というのは中央線沿いの穴場で、過密でなく、私たちのアパートも農家果樹園の中にあった。子どもが生まれて、遊ばせるにはいい環境だった。貧乏でも広い小金井公園に育まれた子どもは幸せだった(はず)。
いや、何だか昔の思い出話になってきた。これだから年寄りは困る、と言われそうだが、これが年寄りの特技なのだから仕方ない。思い出だけはいっぱいある。その記憶と生活の知恵で社会の役に立つ、と普通は理屈が進むのだが。
そこから、今度は永住権(グリーンカード)を取ってまたアメリカに。今度は家族4人だ。住んだのはやはりサンフランシスコ。ゴールデンゲート公園北側のリッチモンド地区だ。その公園も近かったが、金門橋に通じるプレシディオ公園(の中のマウンテンレイク公園)がもっと近く、1ブロックで池のある広い芝生に出られた。長距離を走るとそのまま金門橋に出られ、海にそそり立つ絶壁を走れた。日本からの大気汚染も広い太平洋ですっかり浄化されているだろうな、と思いながら、新鮮な空気をたっぷり吸いこんだ。


そこに9年住んで、また日本へ。今度は名古屋。興正寺というお寺の近くだった。江戸時代からの立派な五重塔があるのが気に入った。そしてもちろん、寺院の森があって、ジョッギング・スペースには事欠かない。さらにその先には八事霊園という広い公営墓地があり、そこも味のあるジョッギングコースとなった。夜などは、死者たちに引っ張り込まれるのを恐れながら走ったが、幸い引っ張り込まれずに生きながらえた。
何だ、私の個人情報満載だな。ま、いいか。ブログというのは自分をさらけ出して書いていくものだから。プロフィール欄の別バージョンということで読んでもらおう。
そのうちカミさんが、近くに、眺めのいい高台にしては格安のマンションを見つけてくれて、そっちに移った。天白川渓谷の住宅街がよく見渡せる。近くには児童公園があるだけだが、ちょっと走れば、天白川の堤防がよいジョッギングコースで、それに沿い大小の公園がいろいろあった。
ま、今もそこに住所を置いているのだが、一か所に収まり切れない私は、退職後さらに各地をさまよう。ベトナムのハノイに2年3か月居たときには、トンニャット(統一)公園というこれまたハノイで指折りの大きな公園の近くに住み毎晩ジョッギングに出かけた。夜、ゲートが閉まってからも秘密ゲートを通じて入り、池で夜釣りする人たちを横目に走った。

アジアの旅の途中、江南の運河の街、蘇州に1カ月住んだときは、道教寺院「玄妙観」がある観前街近くに住んだ(『アジア奥の細道』(アマゾン電子出版、2017年)第2章(1)参照)。安宿がたくさんあった。観前街は庶民の商店街。歩行者天国のスペースがたくさんあり、夜が更けると人通りがほとんどなくなるので、そこが格好のジョッギングの場所となった。

上海に1カ月住んだときは、同じく運河の街・七宝に住んだ。上海中心部は家賃が高いが、ちょっと郊外部でかつ(意外だが)観光地の方に安めの宿がある。競争が激しくなるからだろう。 もちろんこの運河沿いの道を走ったが、南方向に約1キロ行くと広大な閔行体育公園があり、運動には最適だった。バスケコートも4つあり、自由に使えた。

そしてモンゴル、ニューギニア、南米といろいろ回って、今、ニューヨーク・ブルックリン。安アパートから2ブロックでこのサンセットパーク公園に出られる(おお、やっと現実に戻ってきたぞ)。近くにブルックリン中華街があって、この公園を「落日公園」と記しているのに最近気づき感動した。すてきな名前だ。
運動するため公園の近くに住むようになったが、別にスポーツしなくてもよい。用がない時でもぶらっと出かけると気持ちが洗われる。快晴の目の覚めるようなマンハッタンの遠景を、子どもたちが遊ぶ緑の芝生を、若者たちがサッカーで激しくぶつかり合うコートを見ながら、そして、きょうのように枯れた高木の間をゆっくり歩きながら、物思いにふける。近くの公園は、私の心の一部のような気がする。それがないと息が詰まる。心の一角に余剰スペースが確保され、性格や人間性が形成される。
