AI時代の人の心得

10~20年で半分の職がなくなる

AIとロボットが今後人間の職業を次々うばっていくのではないか、との予測がいろいろ出されている。多くは、2013年のオクスフォード大学研究者の論文(Carl Benedikt Frey and Michael A. Osborne, The Future Of Employment: How Susceptible Are Jobs to Computerisation? Oxford Martin Programme on Technology and Employment, Oxford University, September 17, 2013)を主な情報源にしている。今後10~20年で米国の職の47%が人工知能やロボットで代替可能という。日本に関しては、同論文著者の協力で、2015年に野村総合研究所が、労働人口の49%が代替可能との試算を出した(野村総合研究所「News Release: 日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に」)。

両者はいずれも、2016年に囲碁、将棋で「人類」がAIに完敗する前の予測。敗北以後は、予測がより悲観的なものにならざるを得ないだろう。ビッグデータでの学習能力を身に着けたAIは、より高度な知能を発揮する可能性が出てきた。

機械翻訳

例えば翻訳。かつて英語を機械翻訳で日本語に訳しても何を言っているかわからない訳文が出てきたものだ。単語を見れば、例えば「エレクトロニクス関連だな」とか「観光案内文書だな」とか、だいたい《何について書いてあるか》はわかる。しかし、そこで《何を言っているか》《何を主張しているか》はわからない。事柄について肯定なのか否定なのかさえ判然としない状態だった。しかし、最近のグーグル翻訳などを見るに、所々間違った日本語だが、少なくとも《何を主張しているか》はわかるようになった。これを特定分野に絞りトライ&エラーで人間が仕込めば、ある程度サマになる翻訳になるようだ。依然として不自然な日本語だが、一応用はたせる。例えばWindowsなどのサポート情報で機械翻訳のままの文章が出てくることがあるが、これはそのレベルだろう。

かつてハノイに居た頃、ベトナム語がわからないので、よくネット上の機械翻訳を使った。日本語に訳すと何が何だかわからないが、英語に訳するとある程度わかる、ということをしばしば経験した。使用人口が多い英語だと翻訳の質が磨かれているのか、あるいは「主語・動詞・目的語」と並ぶベトナム語は英語に近く、機械翻訳しやすいのか。韓国語と日本語の翻訳だとある程度わかる機械翻訳ができるようだから、後者の理由だったかも知れない。

いずれにしても、AIによる機械翻訳は確実にレベルアップしている。昔のように「だめだこりゃ」「しばらくは翻訳者の仕事はなくならないな」と思える時代は終わりつつある。翻訳者の仕事は危うくなってきている。仕上げの段階でこなれた訳にする役割は当分残るだろうが、出番は全体的に減るだろう。

機械が自然言語処理をうまくできるようになれば、それによって奪われる知的労働の職はがぜん広がる。前記オクスフォード大調査で翻訳家は消滅・残存いずれのカテゴリーにも入っていないが、打撃を受けることは間違いないだろう。

AIで消滅が予測される仕事は、単純な知的労働(と技能労働、サービス労働)が中心だ。しかし、専門性が高い知的労働の分野も安泰ではない。以下では、特にそういうものを中心に、AIによって打撃を受ける知的労働を探ってみる。

メディア記者

前記オクスフォード大調査では、放送記者などがAIに代替されにくい職業に挙げられている。しかし、どうか。鋭い調査報道をする記者や特ダネ連発の文春記者などの仕事は確かに今後も必要とされるだろうが、記者の仕事には定型的な作業も多い。企業やお役所のプレスリリースをまとめて記事にする。これはAIがかなりできそうだ。あるいはGDP統計や貿易統計、企業の収支決算など発表された数字を記事化する。これもAIが迅速に、かつ数字間違いなどなしにやってくれるだろう。いや、AIが株取引をするようになれば、生データをネットなどで自動取得して判断するようになるから、いちいち人間様のために自然言語の記事にしなくてよいかも知れない。

2017年1月、日本経済新聞社が企業の決算発表のサマリー記事を書くAI「決算サマリー」をベータ公開し、データを入れればものの数分で記事にしてくれるようになったという(「日経のAI記者が始動、1日30本の決算サマリーを量産」)。気象予報のニュース原稿などもすでに実用化段階に入っているようだ(毛芝雄己「AIが書くお天気原稿」『日経産業新聞』2017年5月15日)。米オートメイテッドインサイト社のサイトでは、データから見事な決算記事、スポーツ記事、天気記事などに仕上げてくれるデモを見られる。

フリーライター

私のようなフリーライターもうかうかしていらねない。グーグルではAIに大量の書籍情報を読ませ、詩をつくらせるような研究を続けているという。和歌、俳句などは一番最初にAIが有効利用される分野ではないか。あるいは、私のよく書く紀行文。例えばAIがウェブ上などでその土地の自然条件、歴史、社会・経済状況、観光資源などのデータを取得し、さらにその日の天候や出来事ニュース、ウェブ上の諸情報、他の紀行文、古典なども参照して何か書いてくれるかも知れない。例えば、「きょうは天気がよくなかったが、小雨煙る○○寺は趣があり、芭蕉の○○○○という句を彷彿とさせた。お盆の帰郷ラッシュの影響もまだ軽微で、ゆっくりした時間がすごせ、○○に舌鼓を打つこともできた」とか。

私のような者が書くひねた紀行文ではなく、その土地の観光資源をまんべんなく網羅したくせのない良質な紀行文を書いてくれる。「一般観光バージョン」「バックパッカー・バージョン」「歴史好きバージョン」「グルメ・バージョン」など求めに応じて多様な紀行文を出力してくれるだろう。私だったら、「ひねた」「社会派の」「バックパッカー」バージョンにすれば、まるで私が書いたかのようなくせのある紀行文を瞬時につくりあげてくれる。

そうやって私は今、最新AIソフトを使い、ニューヨーク・ブルックリン版のブログを書いているわけだ(ウソですよ)。

学者・研究者

もちろん、外国の文献を翻訳して継ぎはぎするだけの学者は消滅せざるを得ないだろう。でなくても、学者として食っていくためには、継続的に論文を発表していかなければならない。いわゆるPublish or perish(「論文を学術誌に出せ、さもなければ滅びよ」)だ。本当に新しい発見、革新的な議論を出せるかが問われ、それが書けないようだと、AIに駆逐される。

2013年に、でたらめ論文をオンライン学術誌に投稿して受け付けられるかどうか「おとり実験」をした人がいた(John Bohannon, “Who’s Afraid of Peer Review?” Science 04 Oct 2013: Vol. 342, Issue 6154)。読めばすぐわかる間違い満載の薬学関連論文を、査読付きとされる304誌に投稿。157誌が受け付け、却下したのは98誌だけだったという。査読した形跡があったのは106誌だけで、そうした雑誌でも7割が結局大きな変更なしに受け入れた。36誌は正当にも「内容に問題あり」との査読意見を付けてきた。しかし、それでもうち16誌は編集者の判断で原稿を受け付けた。日本でも、関西のある有力国立大学紀要が、このニセ論文を受け付けたことが報告されている。(原稿は受理された段階ですべて辞退したので、実際には掲載されていない。)

でたらめ論文でそうなのだ。AIが大量のデータを基にそれらしい口調で論文を書き始めたら、見破るのは難しくなる。このレベルで対抗できない学者は淘汰されることになる。いや、逆か。こうした執筆ソフトの活用法を身に着けた学者は末長く存続できるようになるか。

2017年11月に、AIが論文草稿を書いてくれるソフトが導入されたとのニュースが流れた。研究データを入力すれば、ウェブ上の他の論文なども参照して、基本的な論点を構成してくれるという。さすがに、本論部分は、研究者の「スタイル、考え方に大きく依拠する最も創造的かつオリジナルな箇所」として残して下さるようだ。

音楽家

若い頃、1980年代だったが、出回ったばかりの音楽機能付きパソコンで初歩的なプログラム遊びをやっていたことがある。いろんな音程をランダムに発生させるBASICプログラムを書くと、なかなか奇妙な音楽をパソコンが奏でてくれた。まったくランダムだと奇妙すぎるので、音程にある程度の連続性をもたせるなどいろいろ工夫したのをなつかしく思い出す。

30年前のお遊びパソコンでもそうなのだ。今やAIは、自然言語の処理とともに、音や自然音声の処理も高度に発達させている。膨大な既存音楽のデータを処理して、人間に感動をもたらすパターンを割り出し、気の利いた音楽を作曲してくれるだろう。クラシック風、ロック風、フォークソング風、演歌風と自在に調節でき、しかも、既存曲にはない新しいメロディーをつくってくれる。音楽メロディーというのは多様性の幅に限りがあり、新曲が昔の曲と似ているなどコピー問題がよく起こる。こういうのはAIが厳しくチェックし、間違いなくオリジナルの曲にしてくれだろう。

こうしてつくられたAI名曲を集めてくれたサイトがある。実際にAI利用の作曲をしてくれるサイトも。早々と、AI作曲の音楽の著作権がどうなるか検討してくれた方も居て感心した。

画家

自然言語・音声とともに、画像・映像の処理能力も急速に高まっている。これまでに描かれた大量の絵を記憶し分析し、人を感動させる絵を自動的に描いてくれるだろう。わけの分からない絵も描くかもしれない。しかし、現在でも我々は、美術館で、「これが名画だ!」と言われるものを、訳もわからずありがたく見ている。AIが描いた絵だって「名画だ」と言われればありがたく見るだろう。

2016年、米Microsoft、オランダのデルフト工科大学などがレンブラント(17世紀のオランダ画家)の画風を機械学習や顔認識で分析し、3Dプリンタを使って「レンブラント風」の新しい絵を描くプロジェクトに成功したという。簡単な素描を描けば、立派な絵に仕上げてくれるソフトはいろいろあるし、グーグルの写真から絵をつくりだすAIはゴッホ顔負けのすさまじい芸術性を発揮しているようだ。

牧師・宗教家

牧師をAIロボットが努めたらどうなるか。聖書などの宗教原典、教団の各種書籍、そして現時点の世相や社会問題を入力すると、その日に教会で行う適切な講話をAIが自動作成してくれる。あるいはロボット自ら聴衆の前で講話してくれる。多少、人間味に欠けても、もともと相手は非人間の神様だ。現在の世相をキリストなら、あるいはお釈迦様ならどんな風に切るか、という興味から、むしろAIの言葉を聞いてみたいと思う人もいるのではないか。

葬儀で僧侶の代わりに読経してくれるロボットはAIとまで言えないだろう。ルターの宗教改革500年を記念して2017年夏、ドイツ・ヴィッテンベルク市に祝福を与えるロボットが登場したという。聖書から選ばれた言葉を人々に施して祝福する。AIが選べば神の御意思に近いか。神を現世的利益に利用する勢力が歴史上後をたたなかったことを考えると、ロボット牧師の導入はむしろ好ましいかも知れない。ルターが16世紀のニューメディア・印刷技術の活用で聖書を普及させたように、現代の宗教改革も何らかの革新技術が伴うだろう。

医者・弁護士

患者の諸情報、検査データを入力すると、AIが膨大な医療データから、どんな病気にかかっているか割り出してくれる。医者の判断より正しい場合もあるだろう。弁護士の場合も、現実に行われた行為の詳細を入力すると、膨大な法律データベースに照らして、合法・違法を判断してくれる。医者や弁護士は、医師法や弁護士法などで既得権を守られているが、実際の機能はかなりの程度AIが果たすことになるだろう。法律の縛りのない、例えば企業がいろいろアドバイスを受けるための顧問弁護士などは、AIで代替しやすいだろう。

高度な知的労働ほど打倒されたときの衝撃が大きい

当分の間人間はAIに負けることがない、と言われていた囲碁や将棋で、あっけなく敗北したように、こうした専門的で人間しかできないと思われている「高度な知的労働」でも、AIは次々に常識を崩していくだろう。いや、そうした「高度な知的労働」の方こそむしろAIと競合しやすく、追い詰められる可能性が高い。そして、打倒されたときの衝撃も大きい。営業、客引き、接待など生身の人間相手の職業の方が耐久力があるだろう。

人類敗北後の身の処し方

囲碁や将棋がAIに負けた後、人間の役割はどうなるのか。ここ1~2年でAIとの勝負がついた。今後は、さらに差が開く一方で、AIにまったく勝てなくなっていくだろう。実際、2017年10に発表されたAlphaGo新バージョンは機械内部で自己対決して強くなり、イ・セドルを破った旧バージョーンさえ100対0で圧倒したという。大人と赤子の差になる。そこで、プロ棋士のアイデンティティはどうなるのか。

世界一になったと言っても機械よりは弱い。所詮、AIにはかなわないんだろ。そういう目で回りが見るし、自分も見る。それでも囲碁、将棋を職業としてやる気になるか。どういう論理で自分への誇りを維持するだろうか。

100メートル走で人間が機械(自動車など)に負けても、人間同士の100メートル走の魅力は変わらない、との主張もされる。しかし、ちょっと違うのではないか。人間のアイデンティティは速く走れることではない。動物の方がはるかに早く走れるのを知っているし、機械がもっと速く走れるのは当然だ。しかし、頭脳活動だけは人間独自のもので、そこにこそ人間のアイデンティがある。他すべてで負けてもこれが最後の砦だ。それがAIに包囲されつつある。今のところは、ボードゲームではだめでも他の創造的活動は人間しかできない、と希望をつないでいる。しかし、時間の問題ではないのか。今後どんどん他の知的活動分野で人間の「最後の砦」が崩されていき、囲碁、将棋はそのほんの始まりだったことがわかるだろう。棋士たちが今体験している苦悩は、今後多様な分野の知識人、芸術家、専門職の人々のものになる。

「2番ではだめですか」

私は将棋に夢中になる方だが、圧倒的な差が出ると、指す気がうせる。絶対勝てない強い相手だとあきらめがつく。しかし、伯仲した実力差だと、何時間でも何度でも勝負を願い出る。止められなくなる。逆に、圧倒的に勝った場合も、いい気分で適当なところで切り上げたくなる。人類に勝ったAlphaGoも名人をやぶった将棋ソフトPonanzaも、圧倒的に勝って引退、あるいはもうこういう対戦はいいでしょう、となった。

残された人間はどうなるのか。機械は強すぎますね、じゃあ人間だけで、となるのか。AIはいろいろ自己鍛錬用に使わせてもらい、人間同士の戦いに備える、という形で「共存」が始まるのか。それで本当にいいのか。最強の勝負はAI間で行われ、ずっと下位レベルで人間の試合が行われる。ファンは、前と同じ興奮で人間の最終トーナメントを観戦できるか。プロはやる気を維持できるか。プロであればあるほどプライドがあり、アイデンティティ危機に迫られながら、今後の立ち位置を探し、もがくだろう。

かつてスーパーコンピュータの開発競争に関して「2番ではだめなんですか」と聞いた人がいた。そういう気構えではだめだ、と批判されたが、今後人間は、コンピュータに対しこの生き方が必要かも知れない。AIがあらゆる分野で人間を超え、人類は「2番」で満足する。「1番」と共存する生き方を学び、それに慣れていく…うーむ、初夢は苦しい夢になった。