ライブラリアンは不要に?

ライブラリアンは過去の遺物?

「グーグル時代にライブラリアンは過去の遺物に」というショッキングな見出しでライブラリアン自身が、彼らの職業の未来を否定的に論じた(Steve Barker, “In Age of Google, Librarians Get Shelved“, Wall Street Jounal, January 11, 2016)。

ライブラリアン(司書)は、アメリカでは尊敬される専門職だ。公共図書館だけで、大学院修士課程で専門教育を受けた計3万3000人初め計4万9000人のライブラリアンが勤務する(Institute of Museum and Library Services, Public Libraries Survey Fiscal Year 2016: Supplementary Tables, Table 19)。学術図書館、学校図書館、その他すべてのライブラリアンを含めると17万人に上る(ライブラリアン以外の図書館スタッフをすべて含めると37万人。American Library Association, “ALA Library Fact Sheet 2: Number Employed in Libraries”)。これら職業的専門意識に支えられた人々によるアメリカ図書館協会(ALA)が絶大な政治力を発揮し、米国の進んだ図書館制度の屋台骨を支えている。

日本ではライブラリアン(司書)が専門職として確立しているとは言い難いという(例えば山本貴子「アメリカの公共図書館における専門職制度の総合的研究」大谷大学真宗総合研究所研究紀要、第30号)。日本では、伝統的に自治体職員が配置転換で図書館に回ってくるだけのことが多く、最近では、司書職の非正規化が進み、図書館職員の6割が非常勤になっている(例えば舞田敏彦「全国の図書館職員は、今や半分以上が非正規」『ニューズウィーク日本版』2017年5月10日参照)。

以前、アメリカの図書館取材の際、名刺に「〇〇図書館ライブラリアン」とあるので、現場の司書の方だと思って話を聞いていたら、実は「図書館長」であることがわかった、などということもあった。「ライブラリアン」は時に威厳ある役職名ともなるので注意が必要だ。(もっとも、米国では日本の「〇〇省大臣」にあたる「長官」も「セクレタリー」と言われるが)

ライブラリアンは図書館で本を書架に並べる(shelveする)仕事もするが、グーグル時代には彼ら自身が書架に並べられる、つまり過去の遺物として陳列されてしまう、という機知を効かせた上記ウォールストリートジャーナルの記事名だった。

著者バーカーさんは、彼らの専門教育を回顧し、「我々、図書館学大学院に学んだ者たちは、大学図書館を埋める各種参考図書、研究ツールを使って徹底的に教育され、情報を探し出す課題に追われたものだ」と記す。しかし、インターネットがすべてを変えた。「かつてライブラリアンに頼った図書館利用者は今、グーグル検索するだけで瞬時に、ライブラリアンが何時間もかかって探し出すより多くのデータにたどり着ける。」

確かに書籍の時代には、多くの参考資料を駆使して情報のありかを詮索し、薄暗い書架の森を這いずり回って図書を探さなくてはならなかった。それにはかなりの知識とノウハウが必要で、ライブラリアンはその魔法を使える高い専門性を持った人として尊敬された。だが、今はグーグルの一突きで何でも出てくる。ライブラリアンの使命、必要性はいったいどこにあるというのか。

多くの人が感じていることだろう。しかし、ライブラリアンたちは、デジタルとインターネットの時代に新しい図書館とライブラリアンの役割があるはずだと賢明な模索を続けている。私たちの時代は終わったと簡単に言えるものではない。言いたくない。なのに、ここで当のライブラリアンが、ウォールストリート・ジャーナルという著名な新聞に、あからさまな自己否定告白をしてしまった。

ライブラリアンからの反論

多くのライブラリアンから批判の声があがったのは言うまでもない。「ライブラリアンは今、ネット時代の情報専門家としても訓練を受けている」「学術研究には一般的なネット情報でなく専門誌データベースを使う必要があり、ライブラリアンはその面で指南役を果たしている」「ネット時代にこそ、情報源の信頼性を評価できる専門家が必要」「情報技術をもった若い世代とライブラリアンが協力して新しい時代の図書館の可能性が広がっている」などの意見がウォールストリート・ジャーナルの読者欄紙面をにぎわせた。そしてサリー・フェルドマンALA会長(当時)からも直々の投稿。「情報が過剰に氾濫し、デジタル富者とデジタル貧者の溝が深まる時代に、ダイナミックに対応するライブラリアンの役割は益々大きくなっている。」(以上、”Letters to the Editor: Librarians’ Role Changes as Information Does”, Wall Street Jounal, January 19, 2016))

ライブラリアンの微妙な立場

いずれももっともな反論だと思うが、私は、20~30年前にサンフランシスコに住んでいた時代、近くの図書館分館に席を構えていた中年女性ライブラリアンのことを思い出した。分館だからあまり大きくない参考資料コーナーの前に大きな机を構え、そこを独り占めしていた。私はよくそのコーナーの中に割り込んでいろいろ調べようとする。するとそのライブラリアンが嫌な顔をするのだ。「彼女の参考図書」を駆使して利用者からの質問に答えていくのが彼女の仕事だと自負していたようだ。しかし、私は自分で調べたい。ちょっと聞いて答えてもらえるような調べものでないことが多い。

彼女の立場も考えてもう少し友好的な関係を築けばよかったと今少し反省している。特に分館なので子どもたちへの的確な回答や指導を行うのが彼女に求められていた仕事だったろう。しかし、私には、自分のコーナーと自分の職業的立場を死守しようとする浅ましい姿に見えた。今、「グーグルの一突き」で通常の調べ物にはいくらでも答えが出るようになり、ライブラリアンはさらに微妙な立場に置かれているのではないか。

新しい図書館に向けた模索

米国では図書館職員も「市職員」や「公務員」として採用されるのではない。その図書館の特定の仕事を行うポジションに、ライブラリアンとして採用される。その仕事が不要になれば、他の市業務に配置転換されるのでなくてクビになる。そういう米国の就労構造もあって、彼らも生き残りをかけて必死になる。まちがっていたら指摘してほしいが、日本では、配置転換で図書館に来てまた去っていく自治体職員(正規職員)にとって、新しい時代に図書館がどうなるかなどについて、一般的な関心はあっても、自分の職業的アイデンティティーや雇用上の危機感とからめて真剣に考えることはないのではないか。図書館がなくなれば次は総務課か…、云々。

日本でライブラリアンとしての職業的使命は今や非正規の職員に多く担われているのだが、彼(女)らにしても厳しい労働条件下で、図書館の未来について考える余裕や権能は奪われているだろう。非正規図書館司書の聞き取り調査を行った廣森直子によると、「大きな意味での(図書館)サービス向上」や「自治体や地域のなかでの図書館の地位や必要性の認識をたかめていくこと」に関して、「そこまで『司書の仕事』を社会の中で位置づけ、その価値を高めていくにはどうすればよいかという視野をもつ人は十分に育っていない」との証言を記録している。そして、「非正規雇用で働く人の多くは有期雇用であり、自らの仕事を継続できるかどうかという不安を常に抱えつつ仕事をするなかでは、<集団としての専門性>や社会のなかの図書館の位置づけなどについて考えていく余裕が充分あるとはいいがたい」と分析している(廣森直子「『専門職』 の非正規化によるキャリア形成の課題− 図書館司書を事例に−」『青森県立保健大学雑誌』 2016、p.42)

米国のライブラリアンたちは必至だ。その職業的な誇りとアイデンティティーにかけて、また職業的生命の危機にも駆られて、新しい図書館の在り方について様々な模索をする。デジタル時代の図書館の課題についてとりくむ気迫が違うように感じる。このブログで紹介したような記事データベースやe-bookの導入、それを読む電子機器の貸出し、映画ストリーミングのオンライン提供、館内での無料Wi-Fi提供、家にパソコンやネット接続のない人のためのパソコンセンター機能設置、子どもや地域の人々に読書体験を広めるための各種行事、プログラムの開催、小ビジネス支援や求職者支援のプログラム、所蔵資料のデジタル化とそのオンライン提供、そして図書館自体を、書籍の保存場所というより、若い人がデートにでも訪れそうな開放的な空間として建設する動き、などなど。

私はあくまで図書館利用者の立場からそれを見ているだけなのだが、ライブラリアンたちがいたずらに過去の権益や仕事にしがみつくのでなく、積極的に新しい役割を模索していくならば、その中に利用者、一般市民の利益と共通する方向が見いだせるように思う。アメリカの図書館とライブラリアンたちの果敢な試みに大いに声援を送る。