虫とのたたかい

昨夜食べた即席ラーメンのどんぶりをテーブルの上に置いていたら、その残り汁に数匹の微小なゴキブリが溺死していた。ほう、ドンブリ残り汁は、有効なゴキブリ取り器になるのか。

私がどれほど優雅な食生活をしているか、これで想像して頂けるだろう。だが、今回はその食の話ではない。後者、虫の話だ。

温厚な私の顔が、鬼の形相に変わった。机の上に現れるアリを次から次にティッシューで生け捕り、丸めてごみ箱に捨てる。人は危機でパニックになるとこれほどまでに残酷になれるのか。

7月。夏の「虫とのたたかい」がはじまった。アリは外から来る。したがって窓に面した机の面が、侵略者に対するたたかいの最前線となる。次から次と前線を突破する敵を攻撃し、数日後、私はほぼ勝利宣言を出せる段階に達した。

しかし、それは長い戦いの始まりでしかなかった。これは昨年の夏の話だ。隣の移民家族が引っ越して隣室が空っぽになった後、長期の所帯生活に住みついていたゴキブリどもが大挙して私の部屋に移動してきた。最初はなすすべを知らなかった。ゴキブリは小さなアリと違って、ティッシューで簡単に生け捕りにできる侵入者ではない。殺虫剤をまき散らして自分も窒息するような愚は犯したくない。粘性のマットで捕らえる罠を近くの雑貨屋で買ってきて取り付けるが、あまり効果がない。そのうち、寝ている私の顔や手足にまで這い上がってきて、飛び起きて振り払う事態にまでなった。このまま虫とのたたかいは敗北に終わるのか。

なぜか彼らは私が起きているうちはあまり出てこない。外出して帰ってくると、ドアを開けたとたん、床やテーブルから大小様々な虫たちが四散していく。打つ手はないのか。

で、どんぶり残り汁にゴキブリの死骸が浮かぶのを見たのだ。思えばこれがヒントを与えられる最初の機会だった。さらに、飲料用の煮沸水を鍋に入れておくと、夜の間にそこにゴキブリが入り、やはり溺れ死んでいるのも目撃するようになった。ふたをしていても小さいゴキブリが隙間から入り込んで水分をなめまわすらしい。そしてそのうち落下する。落下すればあの垂直のアルミ鍋側面は這い上がれない。

そこから、私はある重要な結論を出す。そうか、ゴキブリは水を求めているのだ。甘いものや養分に富む残飯小片を置いておいても、なかなか罠にかからない。しかし、虫も生物である以上、水が必要で、台所と違って水回りのないこの寝室部屋では水分欠乏になるのだ。何のうまみもない真水に群がる虫たちを見てこの鋭い洞察にたどり着いた。

まな板をおとりとし、その上に100%「非」果汁の甘いジュースを垂らし、粘着トラップを置いておく。すると翌朝、ある程度の虫がそのトラップにかかっている。平面の粘着板より、箱型のトラップの方が効率的なこともわかった。彼らは、平原の真ん中を這うのでなく、囲われた空間に入り込む習性がある。入り込めるような空洞式の罠を使えばよい。

さらに、ティッシューの代わりに、粘着力の強いガムテープを使って彼らを生け捕りにする兵器も開発した。アリと違い紙では彼らを捕まえるのは難しいが、粘着テープだと捕獲できる。大きいのは難しいが、それでも、うまく彼らの背中を接着させれば、足でもがいても逃げられなくなる。

こうして相当の虫を粘着テープで排除した。特に、朝起きた時が狩りの時間だ。夜、私が寝ている間に彼らは部屋の中いっぱいに活動の場を広げている。まだ、昼の隠棲モードに入らないうちに彼らを狩る。逃げ惑うやつらを次々と貼り付ける時の私の表情はまさに殺戮者のそれであろう。しかし、止むを得ない。

瞬時にテープをかざす必要がある。躊躇していると逃げられる。粘着テープを小片にして何枚も周囲に用意しておく。見つけたら間髪をおかずそれを取り彼らに覆いかぶせる。

時には、箱の下、古新聞紙の下などを暴いてチェックすることが必要だ。そこに大量に隠遁していることがある。一斉に逃げ散る虫たちをテープで一網打尽にする。冷蔵庫の上など暖かいところに置いていた紙袋の中などに彼らが巣くっている場合もある。そういう時にはテープ攻撃をしている余裕はない。紙袋ごと一挙にまるめて屑かごに入れ、ゴミ袋口をきつく縛って逃げられないようする。そして、ゴミ出しコンテナにポイ。

「人道上」の観点から、テープで生け捕りにした彼らを握りつぶしたりはしない。「優しく」丸めてゴミ箱に捨てるだけ。彼らは、密封された静寂の中でゆっくり餓死していくだけだ。それを「人道的」というのはこちらの身勝手で、実際は苦しい断末魔をより長く経験させているだけかも知れないが。

(以上昨年7月)

その後の経過

ニューヨークにはゴキブリが多い。全般に古くなったアパートに暖房だけは完備し、彼らに住みやすい環境を提供しているようだ。結構高級なマンションにお邪魔しても、ゴキブリで苦労しているという話を聞く。私は、ゴキブリが出るということを恥じて、この話をブログに書かないでいたのだが、仲良くして頂くようになったアパート隣人から、この部屋はゴキブリの巣窟として以前から有名だったという話を聞いた。どうやら特に私が汚い生活をしているからではないらしい。新しい入居希望の女性を大家がこの部屋に案内すると、大量のゴキブリが中を徘徊していて、その女性はショックのあまり即刻契約を取り消しホテルに戻ってしまったそうだ。私でなく、この部屋がそういう特別なところであったというなら、私も恥じることなくこの話を出してよいだろう。

前記は昨年(1年目)の夏の話だった。以後の経過を報告する。

秋になっても、私のたたかいは続いた。毎日相当数のゴキブリを貼りつけ丸めゴミ箱投棄、を繰り返すのだが、なかなか減らない。この作業が永遠に日課のごとく続くのかと次第に厭戦感が漂ってきた。

情け無用、と鬼の形相で駆除するのだが、時に良心が痛むこともなくはない。ある時、仲良く連れ立って闊歩する2匹のゴキブリを捕獲・排除したことがあった。何だったのだあれは、恋人同士のデートか。友達か兄弟同士遊んでいたのか。良心がうずいた。

そんな時だ、いくつかゴキブリ退治薬を試した大家が、「これは強力だから」と言って別の殺虫剤を持ってやってきた。彼も、この部屋が札付きの巣窟であることを十分に認知していて、いろいろ対策を練ってくれていた。しばらく外に出ている間に部屋の隅々に噴射し、一晩明けると、ゴキブリが居なくなっていた。見事なばかりに見なくなり、その後ほとんど出なくなった。

どういう殺虫剤だったのか知らない。いや、あるいは、ちょうど寒くなってきた季節だったので、ゴキブリが消える時期だったのかも知れない。

ゴキブリは、冬の間ほとんど出ず、そして翌年(今年)の春。数は以前より少なかったが、やはりゴキブリが出始めた。さてどうするか。取りあえず近くの雑貨屋に虫取りトラップを買いに行った。するとその中国系雑貨屋に日本製の「ゴキブリホイホイ」が置いてあった。ちょっと高かったが試しに買った。そして部屋の中に置いた。

そしたら掛かるわ掛かるわ。粘着面の外はじ付近に楕円形黄金の虫たちが列をなして貼り付いている。その整然と並んだ列に美しささえ感じるほどだ。彼らは仲間が囚われになっても、危険だとは思わないようだ。むしろ、仲間が居ればオレも、と次々にやってくるようで、皆囚われてしまう。

感心した。これほど獲れるなら、わざわざ粘着テープで狩猟しなくてもよい。ほっといても、それ以上のやからがホイホイと掛かってくれる、と思い、傍観するようになった。

昨年使っていた現地製(中国製?)のゴキブリ取りとは雲泥の差だ。さすが日本製はすばらしい、とまずは思ったが、単にこちらのゴキブリが日本製に慣れてないだけかも知れない。こちらで出回っているトラップはゴキブリたちが慣れてしまって掛からない。進化論的に正しく言うと、現地のゴキブリ取りに引っかかる虫は当然ながらすべて囚われて死に、ひっかからない性質をもった虫だけが子孫を残すので、そういうDNAが彼らの間で支配的になった。

日本製トラップも広く使われればやがてそれに適応したゴキブリが支配的になり効力を失うのかも知れない。しかし、今の段階では、まだかなり有効だ。

教訓:現地で一般的でないゴキブリ取りを使え。

あるいはまた、私の部屋が2階だから、ゴキブリが少なくなったのかも知れない。もともとこのアパートはベースメント(地下)の部屋が一番ゴキブリが出ていたという。2階はゴキブリが少なかった。私の入った部屋だけが特別だった。そこで各種新兵器により掃討作戦が行われた結果、この部屋に彼らは寄り付かなくなった。従来通り、主にベースメントの部屋に出没する状態に戻った、ということかも知れない。

どれが真相なのかはわからない。しかし、とにかく、再び酷暑の夏が来たが、この部屋でほとんどゴキブリを見ることがなくなった。いや、まったく見ない。不思議なほど。一時期私が幻覚に追い回されていただけで、この地球上にゴキブリなどという生き物は存在しなかった?