ウェブ検索の方がいい論文が見つかる

前にも書いたが、米国では公共図書館のネット上で最大で1万紙誌以上の一般雑誌、学術誌、新聞などの記事が検索して読める。図書館カードの番号をパスワード代わりに入力するとそういう膨大な商業データベースが使い放題になる。

同じくそのブログ記事で書いたが、これだけ素晴らしいデータベースにアクセスできても、私の調べ物は、9割は通常のグーグル検索で間に合わせている。巨大データベースを検索しても膨大な記事が出てきて、魅力的な記事は隠れてしまう傾向がある。いい論文になかなかたどり着けない。やっとたどり着いたと思っても、あらためてグーグル検索すると、一般ネット上にも出ていたりする。

グーグルが優れているのか

何でなのか、長らく考えてきた。一つはグーグル検索の能力によるのだろう。入れたキーワードからAIが適切に判断して、最も合致する記事を探り当ててくれる。外部から貼られたリンク数などを計算し、評価の高いページを優先的に表示する。商業データベースでもいろんな条件を付けて検索を絞り込むことはできるが、どうも絞り切れていない感じがする。

また、グーグル検索では、書籍の中まで検索してその一部を表示してくれることも大きい(Google Books)。これは商業記事データベースではできないことだ。

学術論文の質

二つ目は論文の質の問題だ。だいたい私は学術論文的な記事を探すことが多いのだが、本格的な学術雑誌が入っているはずの商業データベースで出てくる記事には迫力のないものが多い。カネを払えば何でも載せてくれる「ハゲタカ学術ジャーナル」(predatory academic journal)は論外としても、とにかく学者は論文を書かない大学・研究機関でメシが食えない(そこでの就職、職継続、昇進、テニュア獲得、研究費獲得に影響する)ので、とにかく何か論文を書いて「業績」づくりをする。こちらは現代に鋭くメスを入れる鋭敏な論稿を必死で探しているのに、そういうのにめったにお目にかからない。玉石混交で信用できないとされるインターネットの方が中身のある記事が見つかる。

ウェブ上に優れた論文が多い

そういう経験を多くする中で私の頭の中には第3の仮説が首をもたげてきた。学術雑誌に発表するだけでなく、一般のウェブ上にも出するような論文にいいものが多いのではないか。前述の通り、グーグル検索で発見する優れた論文は、実は商業データベースにも入っている。商業データエースで発見したいい論文が実はウェブ上に公開されていて気抜けする。多くの場合、著者本人が自分のウェブページで出している。第3者機関を通じてウェブ公開している場合もある。

昇進や研究費獲得のため、つまり「業績づくり」目的の論文は学術雑誌に出ればそれで目的達成となる。そこで満足せず、一般にも公開して広く世に問いたい、社会に何か訴えたい、という思いが込められた論文がネット上にも出てくる。だからインターネット上にはいい論文が多くなるのではないか。むろん例外はあるだろうが、社会に何らかの関係を持とうとする論文がウェブ上に出るため、一般のネット検索で、いい論文が見つかる可能性が高くなると思われる。

仮説の検証までする気はない。とりあえずそう考えて、私は、ネット上のグーグル検索を大切にしている。

誰にも読まれない学術論文

大学院博士課程修了時に出される「博士論文」(dissertation)は3人にしか読まれない、というジョークが昔からあった。書いた本人と指導教官、そして論文審査をする委員会の委員長。しかし、最近は一般の学術論文でも、半分は本人以外だれにも読まれずに終わっている、というジョークが囁かれているようだ。かつまったく引用・参照されていない論文は9割に上るとする。この数字は実は裏付けのないものだったのだが、信頼できる研究によると、自然科学の分野で27%、社会科学で32%、人文科学で82%の論文が一度も引用・参照されていないという。しかも、「参照文献」リストに出る文献でも、実際には読まれておらず、他人の論文にある文献リストからコピペしたものが多いとの調査もある。同一の文献表記上の誤記が多くの論文に見つかるという。

誰にも読まれない論文がどれだけあるか厳密な調査はないようだが、かなり多いことは以上から容易に想像がつく。全体の「半分」という数字もまんざら遠くないかも知れない。

社会に全く用立てられないような仕事を研究者は行っているのか。もちろんその中には何年後、何十年後かに発見されて、新しい学問展開の契機になっていくものもあろう。ノーベル賞受賞者が現れるたびに出されるコメント「社会に役立たたないと言われる基礎科学の重要性」も確認されなければならない。しかし、それだけでない別の問題、研究者として自省すべき点もあるのではないか。いやいや、浮世絵や漫画、ネット上の議論、その他何等かに確実な成果を出した文化は常に大量のつまらない作品が氾濫する中で初めて生まれる、という原則をここでも確認する必要があるのか。(最後の点を理由に、私もこのブログに好き勝手なことを書かせてもらっているのだが。)