思想は仮説だ。民主主義は科学だ。人はそれぞれ仮説を出し、歴史的社会での実践でそれを検証していく。何が正しいか。それは人々の間の自由な交流と合意の中で決まっていく。多くの場合社会的な多数決で決まる。つまり民主主義だ。集合知だ。民主主義によってその時点の「真理」に到達する。到達してはすぐ欠陥があばかれさらなる仮説が出され、さらなる社会的実践の中で「真理」が求められる。
何が正しいか。思想が求める真実性は、「需要が高ければ価格が上がる」といったような限定的かつ単純なレベルの真実ではなくて、何が人間にとっての、人類にとっての幸福であるか、喜びであるか、あるいはその依拠する基礎としての自然にとって益か、といったレベルの真実なのであって、つまり実験で証明すべき原理自体が遊動する不確定な存在だ。証明すべき原理自体が常に更新されている。証明しようとすべき原理自体にあいまいな人間性が介在し、あくなき追求が運命づけられる。それをその時点時点で、過渡的に証明する方法が、集合知的手段としての民主主義であり、したがってこれが社会科学の科学だ。
あるいは、それが「社会理論」の有効性を検証する方法である、という形で言ってもよい。自然科学の分野で生み出された科学という概念を厳密に社会という対象に援用したとき、それが近似的に妥当するのは「需要が高ければ価格が上がる」といったような限定的かつ単純なレベルでの社会認識である。近代社会での「科学」の威光により、社会理論もまた「社会科学」として求められるようになったが、その場合、その有効性を担保するのは本来的には自然科学とは別の形の検証である。人間の物理認識と集合知的認識は異なる。が、ともに人間の感覚、この世界での「実践的感性」にとっての真実を基礎におくことで深部でつながる。人は科学において類的共同性を確証する。類的共同性を確証しようとする認識が科学である。