リーガ:バルト海貿易の拠点

中世の街並みが残るリーガ旧市街。旧市街全体が世界遺産に指定されている。

「バルト三国」(エストニア、ラトビア、リトアニア)という。だから「バルト海」というとヨーロッパ北東の辺境というイメージが強い。しかし、バルト海はアルプス以北のヨーロッパが形成される上で重要な役割を果たした内海だ。スウェーデン、フィンランド、ポーランドはもとより、ドイツの半分はバルト海側に面している。その最西部に位置するリューベックがハンザ商人の重要拠点となった。

デンマーク地域(ユトランド半島)をはさんだ西側の海に北海交易圏(ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、イギリスなど)があり、これに面したハンブルクが、バルト海側のリューベックと同盟した(1241年)ことでハンザ同盟の礎が築かれた。

バルト海は最も深部ではロシアのサンクト・ペテルスブルグにも通じ、これら一帯がヨーロッパの重要な交易圏となっていた。サンクト・ペテルスブルグも、タリン(現エストニア)、リーガ(現ラトビア)、カウナス(現リトアニア)もハンザ都市だった。特にリーガは、ハンザ4大都市の一つにも数えられ、ダウガヴァ川を通じたロシア内陸方面との交易中継点となった。現在、リーガに来たドイツ人が「本当のドイツ中世がここにある」と感動するという。ゴシック建築の大聖堂がそびえるハンザ都市リーガは、ある意味、ドイツ文化圏の一部だった。

リーガ旧市街の街並み。中世からの建物が保存されているが、その内部には現代ビジネスが入り、現役の都市として機能している。
リーガはダウガヴァ川(右手)の河岸につくられた。河口から35キロ入っている。かつての技術レベルでは、直接海に面する港より、内陸の河岸港の方が適切だった。ロンドン、パリ、ハンブルグ、リューベック、ローマなどいずれもそうした内陸で発達した港街だ。リーガのダウガヴァ川は内陸(現ベラルーシ領)でドニエプル川水系とも近接し(現在は運河で接続)、ロシア内陸、黒海沿岸との交易に適していた。リーガがハンザ交易圏内の重要拠点となった由縁である。
ブラックヘッドのギルド。ハンザ商人の中でも未婚者たちのグループが「黒い頭」と称する職業団体を組織し、各種活動を行っていた。その拠点となったのがこの「ブラックヘッドのギルド」(英語ではHouse of the Blackheads)で、創建は15世紀にさかのぼる。リーガを象徴する建物で、広場を挟んだ反対側には市庁舎があった。第二次大戦中にドイツの空爆で破壊され、2000年までに元の構造に忠実に復元・再建された。時計下4本の支柱のようなデザインにリーガ、ハンブルグ、リューベック、ブレーメンの市紋章がはめ込まれ、リーガを4大ハンザ都市の一つと誇示している。
ハンザ商人らが組織する「大ギルド」の会館(右)。左は職人らが組織する「小ギルド」の会館。現在はともにコンサートホールとして使われている。大ギルドが都市政治の実権を握っていた。
聖ペテロ教会。創建は13世紀初め。第二次大戦後に改修された塔は高さ123メートル。72メートルのところまでエレベーターで登れる。市街がよく見渡せる。
聖ペトロ教会の内部。静かに鳴り響いていた音楽が永遠の宇宙に誘うようですばらしかった。
聖ペテロ教会の前に、ドイツ・ブレーメン市から贈られた「ブレーメンの音楽隊」の像があった。共にかつてのハンザ都市であるリーガ市とブレーメン市は、現在も姉妹都市関係を結んでいる。

 

リーガ大聖堂。1211年創建。増改築を繰り返し、現建物は18世紀のもの。バルト三国の大聖堂として最大規模。塔の高さは90メートル。この裏手にある「1991年バリケード博物館」に行くまで知らなかったが、ソ連崩壊後のラトビア独立に至る過程で、この大聖堂前のドゥァマ広場が市民の集合場所となり民主化運動の拠点となった。
「1991年バリケード博物館」内の展示。ラトビアは1990年5月にソ連の支配に対抗して「主権宣言」を行っていたが、1991年1月、ソ連による武力弾圧の動きが起こった。全国から集まったラトビア市民は市内の政府施設、放送局、道路、橋などにバリケードを築いた。大聖堂広場が運動の拠点となり、厳寒の中、多数の人々が焚火をたいてそこに集合していた。1月25日までに6名の死者を出したが、民主化運動は市内の重要施設を守り抜き、ソ連内連帯デモの支援もあって武力制圧をまぬがれた。2001年、これら運動の記録を集め、広場近くの建物内に小さな博物館が設置された。