カウナス:命のビザ

カウナスは、杉原千畝さんの「命のビザ」が発給された地。やはり、ここに行かないわけにはいかない。1939年8月~9月、ナチスに追われた数千人のユダヤ人に、日本政府の意向を無視して日本通過ビザを発給し命を救った。その大使館跡がスギハラ記念館になっている。

カウナスでバスを降りると、ターミナル内に観光案内所があって、外に市内地図や観光案内パンフレットなどを「勝手に持ってけ」方式で並べていた。とても合理的なやり方だ。

驚いたのはその中に「スギハラ・ルート」という観光ルート案内冊子があったこと。さすがだ、杉原は街の誇りになっているらしい。宿に入って読んでさらに驚いた。この案内冊子は、単に杉原記念館の解説なのでなく、町全体の解説書だった。中世からの旧市街、レストラン、ショッピングの案内まですべてが「スギハラ・ルート」として紹介されている。この町の杉原に寄せる尊敬の念に並々ならぬものを感じた。

カウナスの長距離バス・ターミナルの観光案内所。外にガイド冊子が「勝手に持ってけ」方式で並べられている。「スギハラ・ルート」というパンフもあった(右から2列目最下段)。
「スギハラ・ルート」の解説には、杉原記念館だけでなく、町全体の案内が載っていた。裏面にはレストランやショッピングの解説。
カウナスの特徴は、街の真ん中に1.5キロのまっ直ぐな大通り(ライスヴェス通り)が走っていること。その起点になるのが、この写真前方、聖ミカエル教会のある独立広場。1986年築ネオ・ビザンティン建築の同教会は、当初、正教会教会としてつくられ、その後ローマ・カトリック教会となった。ライスヴェス大通りは真ん中に並木の走る美しい道で、両側にカフェやブティックなど品のよいお店が続いている。ただし、著者訪問時は大規模改修中。この写真の裏手から1キロに渡り通行止めだった。オフシーズンの旅は、混雑がなく宿代他料金が安いなどプラス面が大きいが、工事中・休館中に出くわす確率が高いのがマイナス面。
ライスヴェス通りの先にこの旧市街がある。ヨーロッパの街は多くの場合、中心部に中世以来の古い街並み「旧市街」を残す。石畳の道路、密集したレンガ建築、その中心部に広場があり、周囲に市庁舎、教会、大聖堂が立つ。
カウナス旧市街の中心広場。白いバロック様式の旧市庁舎は1542年創建。18世紀半ばに現在の姿に改修された。現在は結婚登記所が入り、結婚式場としても使われる。左はイエズス教会。
中心広場近くにある聖ペテロ・パウロ大聖堂。15世紀創建。リトアニアのカトリック枢機卿の本拠。
カウナスはネリス川(右)とネムナス川(左)が合流する地域につくられた。旧市街のすぐ東側にこの合流地点があり、公園になっている。河川交通が重要だった中世において、川の合流地点は交通の要衝で、都市が発達した。合流後の名前はネムナス川。バルト海まで約200キロを流れる。上流は、両河川とも内陸深くベラルーシ領から流れてくる。
旧市街内にあるカウナス城。13世紀初め、ネムナス川を挟んで対立していたドイツ騎士団の侵攻を防ぐため建造された。
スギハラ記念館。元の在リトアニア日本大使館。1940年7月、杉原はここで(家族を含め)約6000人分と見積もられる「命のビザ」発給を開始した。
スギハラ記念館に、当時の各種資料が展示されている。
杉原は大使館閉鎖後に移ったホテルでもビザを発給し続けた。そのメトポリタン・ホテルに彼の記念プレートがはめこまれている。直前の1940年6月にソ連がリトアニアに侵攻していた。各国大使館の撤収が求められ、日本政府からも退去命令が出ていた。杉原は8月29日に大使館を閉鎖してホテルに移り、9月5日にベルリンに旅立つ(同経由で次の任地チェコスロヴァキア・プラハに)。その列車に乗ってからも、後を追う難民たちにビザを書き続けたという。
カウナスのトロリーバス。ちょっとレトロで疲れた感じ。
カウナスの安宿の部屋にニューヨーク夜景の写真が飾ってあった。ブルックリン橋と背景のロウアー・マンハッタンの高層ビル街。他のヨーロッパの街の宿でも何カ所か同じような写真を見た。ニューヨークっ子が「世界都市だ」と自慢するのを冷笑していたが、こういうのを見ると、確かに世界都市なのだろうと思う。サンフランシスコやロサンゼルス、あるいは東京などの写真がこんな形で飾られることはないだろう。ヨーロッパの周辺国にとっても、ニューヨークはまばゆいばかりの大都会だ。よく見るとそこにワールドトレードセンターの双子ビルが映っているのが、また一段と不憫さを誘った。