メガジャーナル:学術誌もネットに埋もれる

メガジャーナルの台頭

年間何千、何万という膨大な数の論文をオンライン出版する学術雑誌「メガジャーナル」が注目を集めている。最大で年間2万本以上もの論文を「載せる」学術誌を雑誌と言えるのか不思議に思うくらいだ。

特徴は巨大であることだけではない。査読を簡素化し、科学的な正確性が確認されれば速やかに採用・掲載する。これまでの学術誌が採用率10%程度だったのに対し、メガジャーナルは50%程度だ。ネットに公開された論文は無料で自由に読める。つまり「オープン・アクセス」の理念を実現している。収益は論文執筆者からの掲載料。これまでの学術誌が読者からの購読料で成り立っていたのに対し、メガジャーナルは著者からの「論文処理料金」(Paper Processing Charge)で成り立つ。これがビジネスモデルとして成功を収めた。定義にもよるが、2017年現在で20のメガジャーナルがあり、年間総計5万8007本の研究論文を出版している。(本記事の後段で紹介するWhat is a Megajournalの記事は16誌をリストアップしている。)

カネさえ払えば簡単に載せてくれる「ハゲタカ・ジャーナル」(後ほど取り上げる予定)のビジネスモデルに悪用される危険性もあるが、「ハゲタカ」が実際には査読を行わないのに対して、メガジャーナルは簡易化しているものの査読を行う。ネット時代のオープン・アクセスに対応した新しい学術誌形態として期待もされている。

この分野の先駆けかつ大御所はPLOS ONE。学術誌オープンアクセス を目指す非営利組織Public Library of Science (PLOS) が2006 年に開始した。2017年現在、あらゆる科学分野にわたり年間2万0098本の論文をウェブ上に出版している。掲載料は1論文に付き1,595ドルだ。

厳しい査読を行って質の高い雑誌を発行してきた伝統的学術出版社はおもしろくないだろう。しかし、手をこまねいて見ているわけには行かない。最高権威とも言うべきネイチャー誌を発行するNature Publishing Groupが自らメガジャーナル「Scientific Reports」を2011年に発刊した。そして、2017年第1四半期にはPLOS ONEを追い抜き業界トップに立った。同四半期、PLOS ONEが5,541本の論文を出版したのに対し、Scientific Reportsは6,214本を出版。2017年全体では、24,077対20,098となった。強力な競争相手の出現で、PLOS ONEは2013年以降掲載数を減らし、2016年には170万ドルの赤字に転落した

セクシーさを求めない査読

このメガジャーナルの簡易査読について次のように言った人がいる。「セクシーさでなく健全性のための査読」(review only for soundness, not for sexiness)

Mike Taylor氏のツイッターでのつぶやきだ。日本語ではあまり伝わらないが、英語だとなかなか感心する。メガジャーナルの査読は、剽窃(盗用)がないか、実験が適切か、データに首尾一貫性があるか、論理が妥当か、など科学論文としての「健全性」のみをチェックする。その論文の発見の革新性、意義、当該雑誌に載せる価値があるか、などは問わない。基本的な間違いがなければ、注目され評価されるかどうかは問題にしないということだ。そして人々の関心を集め目立つことを英俗語でsexyという。単に変な意味だけでなく、ある程度肯定的な意味でも「セクシーだ」「セクシーさがある」と言う。

そう解説を加えれば、上記言い回しの機知がわかるだろう。ニヤリとすると同時に感心する。メガジャーナルなどが導入する簡易査読の方が、セクシーさを狙っていないだけむしろ「健全である」かのようなニュアンスとなる。座布団一枚。

個々の学術誌が存在する意味はあるか

デューク大学のベン・マドラックは、この「比類のない言い方」を援用しながらメガジャーナルを好意的に紹介している。その中で次のように言っていることに注目した。

「論文がPLOS ONEに掲載されたからといって、その専門的力点、一般的関心レベルについて多くが示されるわけではない。かつてはどの学術誌に掲載されたがその論文についての重要情報を提供したが、PubMedやGoogle Scholarの時代、研究者が情報を探し出す方法は変わってしまった。今日では、その人の研究上の関心に合った論文がメール受信箱やツイッターのタイムラインに直接表示されるようにもなった。そうした中でなお、何万という個々の学術誌が存在する必要はあるだろうか。」

メガジャーナル自体が、すでに専門に分けず多様な分野からの論文を大量に受け付ける学術雑誌サイトだ。それ以外にも多くのメガジャーナル、既存学術誌があるが(2014年の推計で計2万8100誌)、それらも結局は、個々の記事として関心ある読者に届けられるようになった。ネット全体が巨大な学術誌となり、その中に個々の論文がつまっている。メガジャーナルはそういうネット時代の学術誌の在り方を先取り、というより後追いしただけかも知れない。そのためのプラットフォームが複数台頭し、互いに有効性を競い合うという状況だ。

雑誌がネットに埋もれる

本の世界でも、電子書籍の時代になって著書単体の境はあいまいになり、情報が広大なネット空間の中に溶けて埋もれるごとくになった、ということを前の記事で書いた。同じようなことが学術誌にも起こっている。いや、単行本でさえ埋もれるのだから、雑誌などは益々単体の存在はあいまいになり、個別記事に分解されていくだろう。

もちろん、メガジャーナルは「オープン・アクセス」、査読の在り方などについてもオルタナティブを提起し、ネット時代の学術誌の在り方に問題提起している。簡易査読は、単に選考を緩くしたというにとどまらない。理工系の分野でプレプリント(査読・雑誌掲載前の原稿)をネット上に自由に発表するサイトが興隆していることからもわかる通り、簡易査読は論文発表の速度を高める効果が期待される。そして、発表してから多くの研究者から批判にさらし評価される、つまり掲載後査読に重点を移すことにつながる。これまでは厳格な事前査読に重点があったが、ネット上いくらでも論文掲載が可能になった今日、まず掲載してから事後査読的プロセスで論文の評価を確定するという手法が注目されている。Google Scholar検索、Google検索でも、記事や論文が表示される際、リンクの多いページ(記事)が優先的に表示される。ある意味、掲載後の事後評価を受けているようなものだ。この方向でさらに洗練された掲載後査読システムが構築されていけばいいのだろう。

集合知の方向

今回、マドラックさんのブログ記事(学術翻訳支援企業会社AJEの著者支援ページ)に触発されてこの記事を書いたわけだが、優れた思想やアイデアは必ずしも立派な研究論文の中だけにあるのでなく、一般のブログやウェブページ、さらにはソーシャルメディアでのつぶやきのようなものにも存在している。ネット上検索では、そうしたものも研究論文と対等に出てくるからおもしろい。いかめしい権威に頼った知的追求でなく、社会の各方面から出てくる「群衆の知恵」が多様に交流され、新しい集合知が形成されていく方途にも新しい可能性を見出し、位置付けていく必要があるだろう。