「白い鳩」テトゥアン -モロッコのアンダルシア

急峻な山に囲まれ、中腹に白い街が見えた時、お、ここは少し長居してもいいな、と思った。宿まで歩くと、街は清潔で、カサブランカとの違いを感じた。

正直、テトゥアンには何も期待していなかった。というより、テトゥアンを知らなかった。多くの日本人も知らないのではないか。モロッコ内スペイン飛地セウタから海峡を越えて英領ジブラルタルに行こうとしていたが、その途上にこの街があった。その旧市街が世界遺産に登録されていると聞いても、世界遺産を乱発しすぎるのではないか、と思った。

「グラナダの娘」

テトゥアンは「グラナダの娘」「モロッコの中のアンダルシア」とも言われる。中世を通じてキリスト教世界のレコンキスタ(再征服運動)により、イベリア半島からイスラム勢力が駆逐され、最終的にアンダルシアのグラナダが1492年に陥落した。奇しくもコロンブスがアメリカ大陸を「発見」した年だ。イスラム教徒、ユダヤ教徒の難民たちが大挙してマグレブ(北西アフリカ)に逃げのびた。その中でも集住地区となったのが、このテトゥアンだった。

テトゥアンは「白い鳩」とも言われる。難民たちは故郷に思いを馳せながら、風光明媚なこの地にアンダルシア風の白い家々を建てていった。

故郷を追われた人々

レコンキスタは、イスラム勢力に侵略されていたイベリア半島(現スペイン、ポルトガルのある地域)をキリスト教徒側が奪い返す運動だった。1492年グラナダ陥落で完了し、めでたし、めでたし、ということで私も理解していたように思う。そこで追放された人々の悲しみ、苦しみに思いが至っていなかった。

満州国に渡った多くの日本人が、たとえ植民地支配の側だったとは言え、多大な困苦を経て帰国を余儀なくされたのと似ている。いや、イスラム教徒の場合は、イベリア半島での歴史が700年以上に渡る。根を張り、独自の文明を築いていた。生まれ育った故郷、幾世代もの歴史が刻まれた地を捨てた。その追放を「再征服運動」や「国土回復運動」と言っていいのか疑問が残る。当時のイスラムは異なる宗教に寛容で、共存していたとされる。「再征服」してきたキリスト教の方が過酷で、改宗か退去かを厳しく迫った。

「白い鳩」の紹介

結局、テトゥアンに6泊7日滞在した。旧市街は迫力があったが、それは次の記事にすることにして、ここは美しい面を紹介する。

マルティル川をはさんだ対岸から見たテトゥアンの全貌。町全体が白い。
写真右手の丘に登って上記写真を撮った。川の対岸にはアトラス山脈の一部、リーフ山脈(標高2000メートル台)がそびえている。
マルティル川。上流方向。右手にテトゥアンの街。下流に約5キロ言ったところ、マルティル市付近で地中海にそそぐ。全長15キロほどの短い川だが、地中海への出口として港湾機能を果たした。
テトゥアンは近くで見ると益々白い。右手が旧市街で、丘の上には砦がある。
旧市街を見下ろす砦は、15世紀末から徐々に築かれてきた。
そこから街を見下ろすと…
このような絶景。マルティル川渓谷をはさんで対岸はリーフ山地。  
街の中心に王宮とハッサン2世広場がある。制止線に囲まれ入れない。ハッサン2世(在位1961年~1999年)は現国王モハメド6世(在位1999年~)の父。
王宮広場からまっすぐ西に延びるメイン通りのモハメド5世通り。歩行者天国で、両側に品のいいお店が並ぶ。モハメド5世(在位1927~1953年、1955~1961年)は前国王ハッサン2世の父。
北部モロッコは20世紀にもスペイン領モロッコとなり(1913~1956年)、テトゥアンはその首都となった。さらにスペインの影響は強くなった。南部のフランス語に対し、北部ではスペイン語を話す人が多い。写真はテトゥアン中心部にあるスペイン映画専門の映画館。
旧市街の賑わい(詳しくは次の記事
新市街の方に行けば、普通の現代都市が広がっている。