バス車窓から南欧の景観を考える
南欧を何日もバスでまわった。ずっと車窓を見続けていると気づくことがある。丘の上に街ができている。特に南イタリアからスペインにかけて、夏の雨が特に少ない地域にその傾向が強い。
南欧的風景の基本形は何だろう。低地平原に畑や牧草地が広がり、高台に教会や砦がそびえ、その周りに白い民家が密集する。そんなイメージが私の中にできていった。
南欧は地中海の交通を基礎につくられた文明域だ。海沿いに街ができ、白い家々が丘の上まで伸びる。青い空と青い海を背景にしたそうした光景ももちろん南欧的風景の基本だ。しかし、ちょっと内陸に入ると上記のような風景が支配的になる。
日本では山の上に集落はできない
日本では丘の上に街はできない。山はちょっとした里山でも森が深く、住居には適さない。かつ農業は水田稲作が主体だ。平らな田んぼが広がる中、丘(山)に近いところに集落ができる。日本の「原風景」はそれだろう。秋の紅葉が山を彩り、平地には稲が穂を垂らす黄金の田んぼ。その境界、平地が山に接する「山際線」に村ができ、わらぶきの民家が並ぶ。そこに柿の木でも配せば完璧な「日本的原風景」になる。そんな風景を、実際の田舎だけでなく、小学校の教科書などでもよく見ていた。
(ちなみに、私の名字は「岡部」だが、これは「岡(丘)に近いあたり」の意味ではないかと普段思っている。決して丘中腹の「丘陵部」の意味ではなく、平野部だが、丘に近いあたりに住んでいる人たちに岡部の名字を付けたのだと思う。そう考えると、山麓もしくは平野の端に住んでいることを示唆する名字が日本には多いように思う。山田、山本、山口、山崎、山下、村山、片山、片岡、岡田、岡崎、岡村、坂本、坂口、谷口、野口、上野、上原、奥田、坂田、森下…。)
つまり、日本では山の上でなく山の下に街ができる。南欧ではなぜ山(丘)の上に街ができるのか。不思議だった。交通に不便だろう。歩きでも馬車で行くにも大変だ。川にも遠く、河川交通も利用できない。
バスからぼんやりと風景を見ながら、かなり長い時間、「丘上の街の謎」を考えていたと思う。
安全を確保するため
結論は、まずは安全保障だろう。侵略や支配を幾度となく経験したヨーロッパでは、安全保障が最優先の考慮となる。高台に居れば、敵から攻められにくい。むろん、戦略的に重要な街なら、侵略者は徹底的にそこを攻めるし、高台というだけで不落が保証されるわけではない。しかし、重要な街でないならば、侵入者は簡単に落とせる低地の集落を略奪して前進していくだろう。わざわざ高台まで登って攻撃しようとはしない。高い所は攻める側に不利だ。砦などがあれば益々攻めにくい。上からは岩を落とすだけでも強力な武器になる。
丘の側面に畑と牧草地が広がる
そして、南欧には水田がない。天水による畑作、そして牧草地と放牧だ。これなら丘の側面を農地にできる。傾斜があってもよい。丘全体を農地にしてその上に住める。これに対し、水田稲作は平らな低地が必要だ。棚田をつくれば別だが、通常は難しい。低地が農業活動の中心となり、人々も低地に住む。しかし、河川に近いと洪水の被害を受けるので。やや高いところ、洪水が起きても水が届かないところに住居を立てる。つまり低地の端、山の麓だ。
また、南欧には川があまりない。あっても水量が少なく、乾燥して暑い夏には干上がるような川が多い。だから立派な平野もできない。川近くに住むメリットがあまりない。水量が少なくても、大水が出るときは出るから、洪水の危険は消えない。丘の上の方で、天水農業や泉の水を利用した居住ができればいい、となる。
丘の上の古都イムディーナ
丘の上の街を、マルタを例に見てみよう。マルタ島の中心部にイムディーナという古都がある。これが丘の上に立地している。島の広い範囲から見えるし、逆にイムディーナの街からは島のかなりの部分が見渡せる。
ゴゾ島の高台都市
前にも紹介したが、マルタ第二の島、ゴゾ島の中核都市ビクトリア(ラバト)も、ゴゾ島中央の高台に立つ街だ。ここから放射線状に島の各地に道路が伸びている。
古代ローマも丘の上の街
南欧の代表的都市と言えるローマも丘の上の街だった。ローマは海とつながったテヴェレ川流域に発達しているが、もともと都市自体は「ローマの七丘」が起源だ。その中でもパラティーノの丘(パラティヌス)が最も古く、紀元前1000年頃から人が居住していた。ローマ帝国の時代を通じて歴代皇帝を含む貴族がこの丘に居を構えた。パラティヌスは「パレス」の語源ともなった。七つの丘の街にとって平等になるように、低地にフォラム(フォルム・ロマヌム)がつくられ、ローマ政治の中心となった。
坂の街、ポルトガル・リスボン
その他、車窓から
南イタリアの風景。なぜ街が高いところにできるのか。