自転車を盗まれた

自転車を盗まれた。BART(湾岸高速鉄道)のコンコード駅構内のラックに停めていた愛用のマウンテンバイク。帰って来て持ち出そうとしたら、ない。壁に一番近いラックに停めていたことはよく覚えている。

あるべきものがそこにない、という感覚

あるべきものがそこにない、という感覚は妙だ。激しい喪失感、衝撃。しかし、外界は平静で、何の変化もない。通勤客はいつものように列を成して改札口に向かう。私も、別に悲鳴を上げてうろたえるわけでもなく、そのなくなった一点をじっと見ているだけ。殴られたりしたわけではない。どろぼうが私を振り切って荒々しく逃走したわけでもない。ただただ平静に、あるべきものがそこにない。それを認知した私の精神の中だけが激しい喪失感に襲れている。

警察に訴えても無駄だろう。取られたものはもう返ってこない。それはわかっている。ラックに絡めたままのチェーン・ロックが残っている。括り付け方が悪かった。フレームの中に通すように括り付けておかなかったのだ。私の不注意としてそのまま去るしかない。平静に、何事もなかったように。

いや、それではやはり気持ちが収まらない。無駄と知りながら、窓口の駅員に「自転車が盗まれた」と言いに行った。防犯カメラはなかったか、どこかに保管されてはいないか。女性の駅員は少し驚いた表情で、ここに電話しなさい、とBART警察の電話番号をメモしてくれた。それだけでも上出来な対応だったろう。

家に帰り、一応、盗難報告書を書いてメールで送付しようとしたら、BART警察はメールでの報告を受け付けていない(市警なら受け付ける)。それで終わりになった。終わりにした。

1ドル自転車

息子からもらった立派なマウンテンバイクだった。乗り心地がよく、今まで乗った自転車の中で一番気に入っていた。だから落胆が大きい。落ち込んだ。失ったものは一段と素晴らしいものに思えてくる。

しかし、アメリカの郊外・地方都市で自転車は必需品だ。すぐに新しいのを買わなければならない。まずはクレイグズリストを見た。な、何と、1ドルの自転車がたくさん出されているではないか。数ページにわたり1ドル自転車が続く。怪しい広告かもしれない。しかし、処分するのが面倒、もしかしたら金がかかる、ということで1ドルでばらまくのかも知れない。

これなら、と思うようなマウンテンバイクも数十ドルからある。さっそく、盗まれたバイクに似た50ドルのよさげな自転車に「買い」のメールを打った。地図上では、売主は、ちょうどコンコードの私の家の近くの人だ。

たちまち気持ちが浮き浮きしてきた。「息子からもらった」「気に入っていた自転車」。そんなことより、新自転車購入に出費を迫られることで落ち込んでいたのか。

それにしても、こんなんでいいのか。こんなに安く買えていいのか。盗まれたら買えばいい、でいいのか。

クレイグズリストとの付き合い方

相手はクレイグリストだ。ある程度の紆余曲折はあった。最初の50ドル自転車では返事がなかった。私の問い合わせの直後、広告を引っ込めたようだから、売却後も広告を出したままにしていたらしい。その他にも数件買い注文を出したが、返事がない。

1ドル自転車も、実態がないものが多いようだ。目につかせるための広告戦略の可能性もある。表題に1ドルと書いてリスト最上位に表示させながら、本文には120ドルとか本当の値段を書いているのもある。

個人だけでなく、自転車店で1ドル自転車の広告を複数出しているところがあった。本当にそんな自転車を売っているのか見たいと思い、サンフランシスコ・フィッシャーマンズウォーフ近くのColumbus Cyclerlyに実際に行ってみた。

1ドル自転車はなかった。中古自転車店ではあったが、最安200ドル程度で、だいたいは300~400ドル。若い店員に「1ドル自転車はどこ?」と聞いたら、「そんなものはStreetにしかないでしょう」と笑う。居合わせた別の客が、クレイズグリストの宣伝のことを店員に説明したが、店員は広告について何も知らないようだった。まじめそうな青年で、まあ、彼を責めるのもかわいそうだ。しかし、立派な自転車屋でありながら、ありもしない1ドル自転車の広告をよく恥ずかしくもなく出すものだ。クレイグズリスト広告もここまで落ちたか。アパート探しのときも、クレイグズリストはウソ広告ばかりで、まったく役に立たなかったのを思い出した。

モノの売買ではまともな場合も

だが、アパートと違い、自転車のような「モノの売買」ではまともなのもあるので、それなりに利用する価値はある。多くは返事がなかったが、片っ端から買い注文を入れていったら、売主2人からほぼ同時に留守電が入ったので焦った。

最初はサンフランシスコ・リッチモンド地区の売主の80ドルの自転車。「きょうなら見に来てもいい」という。あまりに返事がないので、出たばかりの広告に絞って買いを入れていた。商談成立後も残っているような幽霊物件を排除するには有効な方法だ。

80ドルはちょっと高いなあ…と思ったが、しかたない、昼飯でも食ってから返事するか、とややたって電話をかけようとしたとき、直前に50ドルの物件の売主から留守電が入ったのに気付いた。安いし、近いし(イーストベイ)、各種付属品も付いているし、急遽、こっちに乗り換えて電話を入れた。80ドル物件の売主には丁重なお詫びのメールを入れた(やはり、断る場合はメール、となる)。

40ドルの自転車を買った

結局、この50ドルの自転車を40ドルにまけてもらって買った。きわどい時間差で、運命の自転車に出会うことになった。何かの縁だろう。

売主はカストロバレー(BARTがダブリン/プレザントン線に枝分かれして一つ目の駅)の閑静な住宅街に娘家族と住むおじさんだった。やや小型のマウンテンバイクで、息子さんがティーンエージャーの頃使っていたものと見た。メカニックはきちんとしていて、ブレーキもよく効く。ギアは3x7の計21段。荷台、サドルのクッション、ドリンク・ホールダーなども付いている。

小さめの自転車の方が私の体形に合っているし、電車への持ち込みなどのとき軽くていい。サドル・クッションが破れてヨレヨレ感が出ているが、これはどろぼうの注目をそらす上で良い。車輪がやや小さく、遠心力、慣性が弱くて、スピードがあまり出ない。これも安全上いいのかも知れない。

売主の家は駅から結構遠く、バスと徒歩で行ったが、おじさんは「駅まで迎えに行く」「自転車を駅まで持っていく」などととテキストを送ってくれていた。私の携帯電話はWifiがあるところでしか使えないので、気づかなかった。おじさん、家の前に現れた私を見て恐縮し、渡した50ドルから10ドルを返してくれた。まけるということだ。いけません、と言って返そうとしたが、いいからいいから、と受け取らない。

こうして私は自転車を40ドルで手に入れ、さらに付属品で数十ドル分得し、ほとんど金をかけずに新しい自転車を調達できた。クレイグズリストはウソ広告も多いが、掘り出し物を手に入れることも多い。そして実際に受け取りに行くことで、こうして人との交流が生まれるところがまたいい。