簡単そうで意外と難しい問題だ。常識的には「パロアルト市にある」という答が返ってくると思う。なにしろ、スタンフォード大学に行くにはカルトレインのパロアルト駅で降りるのだから。その前(北)がメンロパーク駅、その次(南)がカリフォルニア・アベニュー駅だ。カリフォルニア・アベニューは同じくパルアルト市内でその第2中心街(ダウンタウン)と言われている。
しかし、ちょっと詳しく調べた人は、「パロアルト市はスタンフォード大学に隣接している」という説明に行き当たるだろう。さすがと言うべきか、日本語ウィキペディアは「パロアルトはスタンフォード大学がある町と言われることもあるが、実際にはスタンフォード大学の敷地はパロアルト市に含まれていない(隣接している)」と指摘している。
「隣接している」というと、では、いったいどこの市域になるのか。すぐ北にメンロパーク市があるが、残念ながらこの市域内でもない。ではどこの市か。
じらさないで解答を言うと、実はどこの市にも属していない。スタンフォード大学という私立大学の敷地は、自治体がない「非法人化地域」(unincorporated area)なのだ。大学が自治体から分離し、自ら地域自治を行っている。「大学の自治」の理想を掲げている方々には感動的なモデルと映るだろう。警察など各種行政サービスも大学が提供している。
自治体のない地域に1億人が住む
実は、アメリカには大学だけでなく、自治体が設立されていない領域が広大に存在する。その地域で住民投票で自治体をつくると決まれば自治体ができるが、決議しなければ自治体はない。人がほとんどいない砂漠や森林地帯だけでなく、多くの人が住む都市地域にもこうした非法人化地域が散在し、2000年国勢調査では全人口の37.8%、1億636万人が自治体のない地域に暮らしていた。
頭が混乱してきたかも知れない。しかし、逆に考えてみよう。なぜ私たちはすべての国土が自治体(市町村)にくまなく覆われるのが当然と考えるのだろう。日本がそうだから? 国には県や州があって、その下には郡や市町村があるというのが当たり前ではないのか、と。しかし、それは必ずしも当たり前ではない。中国古代の郡県制のなど中央集権国家制度の中で取り入れられていた特殊な制度だったかも知れない。かつて国家支配の末端機構だった村や町は、代表が選挙で選ばれる「自治体」に変わった。しかし、そこに過去の名残がいろいろ残っている可能性がある。
米国の自治体は住民投票で決議されて設立され、同じく住民投票で決議すれば解散することもできる。市民団体と似ている。ただし、一旦設立されれば全員加盟制になるところがちょっと違う。有無を言わさず会費(市民税)を払わされる。私はそんな団体に入りたくないと言っても、その領域内に住んでいる限り辞められない。
自治体がなかったら警察、消防など基本的な公共サービスはどうするのか。米国の多くの州で、そういう場合は郡(county)が大枠のサービスを提供している。郡は州の全土を覆っている。郡警察(シェリフ。西部劇にもよく出てくる「保安官」だ)や郡消防が遠くの街からやってきて最低限のサービスは提供する。しかし、それでは不十分だ、というのであれば住民投票で自治体を設立し、身近なところに自治体警察や自治体消防を設置する。(詳しくは拙著『市民団体としての自治体』御茶の水書房、参照)
大学はNPO
自治体という公共・行政組織でなく、町内会的な民間団体を設立して自治を行う非法人化地域もある。スタンフォード大学の場合はこの系統に属する。大学がNPOとして法人化し、これが大学の地域自治を担っている。スタンフォード大学の場合、税制優遇が最も厚いNPO形態、連邦税法でいうところの301(C)3団体の資格をとっている。市民運動団体や福祉団体などもこの資格を取ることが多く、最も一般的なNPO形態だ。
スタンフォード大学はNPOなので、代表が住民の直接選挙で選ばれるわけではない。大学の理事会(Board of Trustees)が大学の運営をつかさどり、新しい理事は理事会内の決議で任命される。理事会は学長(President)を任命し、多くの権限を与えて大学の実際の運営に当たらせる。
警察など行政サービスも提供
大学が警察も有している。大学内に公共保安課(Department of Public Safety)という部局があり、伝統的に警察権を行使してきた。警察は大学の管轄下にあり、その予算も大学予算だ。
ただ、アメリカの多くの大学が1960年代の学生運動激化への対応で、大学警察の強化をはかってきた。スタンフォード大学は、同大の位置するサンタクララ郡の郡警察と協定を締結し連携を強めた。現在、大学公共保安課の指揮下で郡警察が大学の警備にあたっている。
消防については、かつては大学内に消防課があって独自にサービスを提供していたが、1976年にパロアルト市消防局と合併した。大学と自治体が協力しながら消防サービスを提供している。実際上は、市消防局が大学内にサービスを提供し、その代価を大学が支払うという形。小規模自治体が他の自治体からサービスを買う形は米国では普通にある。
ゴミ処理は、これも一般自治体でよくあることだが、民間業者に外注している。
領域と住民
地域自治を行う大学は領域と住民を有し、人口も集計されている。米国勢調査局は、こうした無自治体地域を、統計を取るための便宜的な地域区分(Census-designated place、CDP)に指定する。スタンフォード大学の区域は、「Stanford」というCDP名だ。2010年国勢調査はその人口を13,809人と集計した。スタンフォード大学敷地内の寮や職員住宅などに住む人の数だ。
一方、大学は当然なが土地を所有しており、私的な土地所有権は自治体領域を越えて広がる。大学の施設であるスタンフォード・ショッピングセンター、スタンフォード大学病院(Stanford Medical Center)、スタンフォード・リサーチ・パーク(起業家向けのオフィス団地)などは大学の私有地に建つが、パロアルト市の行政区域に入っている。
「コヨーテが出るくらいでなければ大学でない」
さらに、大学私有地は上記センサス指定地域(面積1.9平方キロ)外の非法人化地域にも及び、その総敷地面積は33.1平方キロに達する。山側の方に、人の住んでいない広大なオープンスペース、山林、牧場、ゴルフ場などがあり、その一角には巨大な線形加速器実験施設もある。現在は都市部にも出没するコヨーテだが、数十年前にはこの広大なスタンフォード大学キャンパスにコヨーテが出ることが話題になっていた。実際にこの大学の敷地を見せられて、「アメリカではコヨーテが出るくらいでないと大学キャンパスとは言わない」という冗談を聞き、妙に納得した経験がある。
コヨーテ。狼の近縁種で小型。写真:marya (emdot) from San Luis Obispo, USA, Coyote, wikipedia Commons, CC BY 2.0.
自治体規模の大学
スタンフォード大学の年間予算65億ドルが周辺自治体の10倍以上に相当することはまあ仕方がないとして、大学は面積、人口でも周辺自治体の規模に匹敵している。スタンフォード大学は敷地面積33.1平方キロ・人口1万4000人。これに対し、東・南隣のパロアルトは陸地面積61.8平方キロ・人口6万4000人、北隣のメンロパークは陸地面積25.9平方キロ・人口3万2000人、西隣のポートラ・バレーは面積23.6平方キロ・人口4000人だ。