なぜブログはだめなのか

私は若い頃、個人通信を出すのが好きだった。そう、このように自分のサイトにブログを書いて発表するのと同じだ。当時は、ワープロもネットもなく、コピー機さえ身近になかった。今、ブログやワープロに直接書き込むように「ガリ版」に直接書き込み(直し・編集がほぼ不可能)、謄写版という手動の印刷機で刷り、郵便というコミュニケーション手段で友人・知人に送付していた。切手代も50通、100通となってくるとばかにならない。折りたたんで封筒に入れる作業も大変だ。

個人通信の良いところは、何でも自由に書けるということだ。思ったことを自分の観点から体裁を気にせず、好きなように書ける。そしてもう一点良いこと(本当は悪いこと)は、文句をつけられることがないことだ。受け取った方は、迷惑かもしれないし、「また来たか」と無視するだけかも知れない。しかし、敢えて批判する動機は薄い。物好きだなと思い評価はしていなくても、人がだれに迷惑をかけるでもなくやっていることだ。文句をつける筋合いはないだろう。「素晴らしいですね」「よく続きますね」とほめてくれることもある。書く方もそれで益々いい気になって送り続ける。

そうした「ジコマン」の世界に深刻な打撃を与えてくれたのは、1980年前後に、オーストリア・ウィーンから出ていた日本語ミニコミ「おーJAPAN」(1978~1986年刊行)の編集に参加させて頂いたときの経験だ。スタッフライターとして自分も記事を書いたが、内容について仲間と大いに議論した。自分たちが出す雑誌だ、こんな記事は載せたくない、こんなことは書きたくない、読者に向かってこんなことは言いたくない。自分も愛し責任を持って出すメディアであるからこそ、内容に黙っていられない。本音と別に「素晴らしいですね」と言うだけで終わらせることはできない。

その体験で学んだ。個人通信の長所は欠点であることを。他の媒体に書く、他のメディアに受け入れられる文章を書く、ということで書き手は本当の意味で鍛えられる。「どうぞご自由に」で書ける・出せる媒体の心地よさに浸っていてはいけない、ということを。

その後、私はフリーのライターとして、いろんな紙誌にものを書くようになった。そこで媒体に書く厳しさを充分味わい、またそのチャレンジがが重要であることをとくと自分に言い聞かせながらがんばってきたと思う。

個人通信にはあまり熱を入れなくなったが、その分野では継続的に「技術革新」が続いていた。コピー機が貧しい途上国にも普及し、「ガリ版」「謄写版」が不要になった。手書き原稿をコピーして、古くからある郵送という通信手段で、世界のどこからでも個人通信を出せるようになった。さらにワープロが使えるようになり、電子メールで無料の大量送付が可能になり、ウェブページ、ブログも現れた。

さらにフェイスブックやツイッターなどSNSも現れるが、こういう短文の通信は、私の「個人通信」方式とはちょっと合わない。が、ブログはよく合う。体系的に構成しなければならないホームページとも違って、日々の生活をつれずれなるまま書き進むことができる。個人通信と実によく似ている。だから、ブログが現れてからも私は長らくこれを遠ざけていた。自分をだめにする。あまりにも好みに合い過ぎる。過去の「個人通信」の体験から、私は自身に強力な「待った」をかけていた。

が、その自制も2年前、ついに切れ、このブログ「岡部の海外通信」を始めてしまった。再び海外に住むようになり、自分の原稿をメディアに売り込むことが難しくなった、あるいは歳ゆえに面倒になった。あるいはわずかとは言え「年金」という”ベーシック賃金”が入るようになって、売り込む必要がある程度減少した、などの要因があるかも知れない。

(人は糊口をしのぐために書くということが必要だ。必死に無理に書いていたようで、後で見るとある程度良いものが書けている。書きたいことを自由に書いたはずの個人通信よりも良いものができていることが多い。「売るために書く」ということをばかにしてはいけない。

そして今、このブログ書きが私のアイデンティティの一部になってしまった。2年経つが止めようと思う兆しは現れない。何でも自由に書ける。自分の好きな体裁で、ただただ自分の責任において書ける。得意中の得意の「個人通信」だ。他の人々の評価もある程度は参考にするが、ブログ書きを統率し、内容に厳しい目を光らせるのは、一義的には自分自身になる。

ブログは自由だ。そして非常に快適だ。止められない。私に合っている。だから客観的には …いったいどうなっているのだろう。