移民トランスナショナリズム 一国多文化主義を越える

久しぶりにアメリカで多文化主義(multiculturalism)を勉強し直し驚いたのは、それを越えようとする思想潮流が出ていることだ。「国が分裂するから多文化主義を止めろ」と叫ぶ右派の動きではない。移民の権利を擁護するリベラルな立場から多文化主義克服の企図が生まれている。多文化主義はあくまで一国内での多様性を主張したもので、移民の実態、そしてその可能性は、出身国との連関など国境を越えた「トランスナショナル」*1な存在の中に見出せるという思潮が台頭している。

*1  transnationalを、international(国際)、crossnational(国家間)、multinational(多民族、多国籍)などと区別して訳すのは難しい。「超国家」とやっては「超国家主義」など別のものと間違われる。したがって、カタカナのまま「トランスナショナル」にしておく。

民族国家「コンテナ」モデルを越えて

1992年に移民トランスナショナリズムを最初に提唱した一人、ニーナ・グリック・シラーは、これまでの移民研究には「方法論的なナショナリズム」があったとして、多文化主義について次のように言う。

「多文化主義への転換は1960年代の米国でまず文化複合主義(cultural pluralism)として起こり、次いでカナダ、オーストラリア、英国、米国での多様な形の多文化主義政策として結実した。移民社会の一定部分に、何世代にもわたり文化的な相違とアイデンティが維持されることを認めた。しかし、この承認は、移民研究におけるトランスナショナルな結び付きの理論に導くことはなかった。そこに方法論的なナショナリズムが存在し、文化的な多様性は国家の統合を祝福する新たな解説物語にされてしまった。」

「多文化主義議イデオロギーを批判する人たちは、実際に実施されている多文化主義が一般に、特定の民族国家*2を構築するプロジェクトの内部に収まっていることに敢えて触れない。多文化主義の唱道も公的政策も、多文化主義が新移民者を統合するものととらえ、受入れ国と一体化させその枠内で文化的アイデンティティを構築するよう仕向ける。あるいは、[著者らの調査対象地である]ニューハンプシャー州マンチェスター市の警察署長の言葉を借りれば、『移民者たちが、ルーツを祝福しアイデンティティを保持し母国の国旗を掲げるのは結構だ。その掲揚ポールのトップにアメリカの国旗がある限りは。』ということだ。」(以上、Nina Glick Schiller, “Neo-liberalism, Multiculturalism, and Global Religion: Exploring the Agency of Migrants and City Boosters,” Economy and Society 40, May 2011)

*2   私は、nation stateを「国民国家」でなく、より原意に沿った「民族国家」と訳すことにしている。理由は後述するが、なぜ日本で「国民国家」という奇妙な訳が出てきたかの経緯について、鈴木英輔論文が詳しい。

ラティノ系(中南米系=ヒスパニック系)の移民研究者で、ボストン市地域計画開発局研究所長もつとめるアルバロ・リマも次のように言う。

「多文化主義は移民者の統合に関する同化的な対応・政策をただすものであり、文化的な多様性と寛容さを体現している。しかし、トランスナショナル理論家たちは、これを、単一の社会への排他的な密着と所属、受入れ国への忠誠を維持させるものとして批判する。/今日の国・地域レベルの諸政策は、伝統的な同化モデルを多文化主義モデルに置き換えてはいるが、移民者たちの生活の国を越えたトランスナショナルな性格、そしてそれが社会的統合に果たす奥深い影響を考慮に入れていない。二重(複数)国籍、出身国への多額の送金、出身国政治への参加など、単一の場所を超える複合的所属のあらゆる形態を見逃している。」(Alvaro Lima, “Transnationalism: A New Mode of Immigrant Integration,” The Mauricio Gastón Institute, University of Massachusetts Boston, September 17, 2010)

英オクスフォード大学や独マックス・プランク民族・宗教研究所などヨーロッパ側で移民トランスナショナリズム研究を主導するスティーブン・バートーベックらは、多文化主義が「民族国家のコンテナ・モデル」にとらわれていたとユニークな言い回しをする。そして同様に「多文化主義は移民に同化と文化適応を求めないが、外枠の民族国家への密着には疑義をはさまない」とこれを批判する(Steven Vertovec, “Transnational Challenges to the ‘New’ Multiculturalism,” January 2001, p.5)。

「多文化・共生」のさらに先なのか

1970年代と90年代にアメリカに居てマイノリティ問題にかかわってきた人間としては、多文化主義は私たちが目指す普遍的理念に見えた。確かに多様な民族が独自の文化を維持し、それが「サラダ型」「ステンドグラス型」「虹型」に複合してアメリカという多民族社会をつくる、という考え方は、アメリカが「移民の国」「自由という理念によって形成される国」であることと相まって、国家理念とも予定調和的に合致し、説得力をもった。だが、今、それは国家(民族国家)の枠にとらわれた考え方とされ、それを越えた、国家をまたいで双方的に関連するトランスナショナリズムの世界に出て行かなければならないという。

国家を超えるなどというラジカルな視点が、先端的な移民支援運動の中からというより、社会学、社会人類学など学界の思潮として出てきているところがまたすごい。1990年代以降、「トランスナショナリズム」が社会科学分野で一種のバズワード(流行語)となり、幾何級数的に研究が増えた。「トランスナショナル・パラダイムシフト」とも言うべき現象が移民研究の中に広がっているという。

「多文化・共生」は、日本でも移住者支援活動の中で、共通の了解事項になっている象徴的理念だ。それが、実は限界があり、私たちはもっと遠くに行かねばならない、とされるというのでは、衝撃を受けざるを得ない。

グローバル化する世界の中で移民を位置づける

トランスナショナリズムという言葉・概念は以前からあったが、これを移民研究の中に取り入れ、新しい視角として出してきたのは、ニーナ・グリック・シラー、リンダ・バッシュ、クリスティーナ・ブランクシャントンらだ。1990年5月にこの問題を話し合う会議を開き、その成果を1992年に発表した(”Towards a Transnational Perspective on Migration: Race, Class, Ethnicity, and Nationalism Reconsidered,” Annals of New York Academy of Science, Volume 645, Issue 1, July 1992)

そこで彼女らは、新しい概念を次のように説明している。

「移民者、移住者に対する以前の概念はもはや十分ではない。移民という言葉は、恒久的な断絶、根元から引き離された人々をイメージさせる。それまでの生活の放棄と、新しい言語・文化の苦痛に満ちた学習過程が待っている。しかし現在、新しい形態の移住者たちの集団が現れている。そのネットワーク、活動、生活パターンが移民先と出身社会の双方にまたがり、国境を越え二つの社会をひとつの社会的領域に変える人々だ。」「この新しい現象を『トランスナショナリズム』と呼び、新タイプの移住者をトランスマイグラントと表す。我々は、トランスナショナリズムを、移民者が出身国と移住国を結ぶ社会的領域を構築するプロセスと定義する。そうした社会的領域をつくる移民者を『トランスマイグラント』と規定する。トランスマイグラントは、国境をまたぐ家族的、経済的、社会的、組織的、宗教的、政治的など複合する諸関係を構築し、継続させる。トランスマイグラントは、彼らを二つ以上の社会を同時につなげる社会的ネットワークの中で行動し、決定し、考え、アイデンティティを形成する。」(Schiller NG, Basch L, Blanc-Szanton C., ” Transnationalism: a new analytic framework for understanding migration,”  Ibid., p.1

これまでの移民のとらえ方は、故国を離れざるを得なかった人々が、新しい社会で多くの困難に突き当たりながら、適応の道を歩む、というものだ。良心的な立場からは、彼らに対する差別を批判し、多文化・共生の理念で迎え入れなければならない、といった視点が入る。しかし、それだけでは重要なものが欠落している。彼らは、移民した後も、故国との関係で様々な活動をし、人生選択の幅を広げるとともに、文化間を連携し、独自の役割を果たしている。それを見ていなかった。あくまでも一国内、受入れ国側からの視点で彼らをとらえるだけだった。彼らの生きるトランスナショナルな世界に踏み込んでいこう。そこにある新しい生活空間の意味を、グローバル化する現代世界の文脈の中でとらえていこう、というわけだ。

移民の生活空間全体を、ありのままに

移民者の行っている活動、その「トランスナショナルな社会的領域」には実に様々なものがある。故国の家族への送金、それを通じた間接的な地域経済開発、貿易・観光その他分野での国をまたいだビジネス起業、還流移民として帰国して母国にはない専門技術での貢献、故郷に体育館を立てる、奨学基金を設立するなどの篤志活動、「県人会」のような移民者団体の設立とその故国諸団体との組織的連関、宗教・文化活動を通じた故国との連携、そしてさらには出身国の政治活動への参加。これには独裁体制への批判活動などもあるし、成功した名士として有力政治家に名を連ねるなどの参加もある。二重国籍を取得してのアイデンティティ複合化、在外投票行動などの方向もある。極端な例では、ニューヨーク州ハッケンサック市議のヘサス・ガルビス氏がアメリカで公職に就いたまま、1998年にコロンビアの上院議員に立候補した事例もある。惜しくも落選したが、2つの国で議員なっていいのかの問いに、「代議士が国会と地元を往復するようなものだ」と答えている。

移民者トランスナショナリズム概念の提唱者であるニーナ・グリック・シラーらは、ニューヨークや彼女の拠点であるニューハンプシャー州マンチェスターで、特にハイチ、東カリブ海諸国、フィリピンなどからの「トランマイグラント」達の調査で新しい理解にたどり着いたのだが、多様性に富んだこの世界について、次のようにも叙述している。

「例えば同じ人が、一方で、米国市民『エスニック・グループ』の会議に参加して、ニューヨーカーとして『我々の都市』の開発についてニューヨーク市長に意見を述べる。翌週にはハイチ、セントビンセント、フィリピンなどに『帰国』し、熱心な民族主義者として『我々の国』の開発について語る。あるいは、共通のキリスト教で結ばれた多民族の教団で祈りを捧げた移民者が、黒人あるいはアジア系のアイデンティティを強調する差別撤廃のデモに参加し、また『自らの』民族コミュニティのために組織された大晦日ダンスパーティで踊る。米国内労働組合の会議で連帯を表明した移民労働者が、母国に送金し不動産を購入し地主にもなる。トランスマイグラントたちは、こうした一見矛盾するような行動を通じてアイデンティティを巧みに操り、グローバル資本主義への従属を受入れつつそれに抗している。」(Schiller NG, Basch L, Blanc-Szanton C., Ibid.,  p.12

移民しない人々も含む

シラーらは、移民トランスナショナリズムは、移民当事者だけに担われているのでなく、一度も国を出ることない人々も、「国境を越えた社会的領域」の諸活動に引き込まれることでトランスナショナリズムの重要な担い手になるとの立場をとる。また、受入れ国内で生まれた2世以降は、多文化主義的な一国内枠組みのみでとらえられることが多いが、実は相当部分、この国を越えた枠組みに引き込まれていることをハイチ系移民社会の分析などで示す。こうした認識は、移民トランスナショナリズム理論家に広く共有されているだろう。例えばこの理論の優れたまとめ役を果たしている後出ペギー・レビットは次のように規定する。

「移動は、トランスナショナル行動の必須要件ではない。ルーチンワークを行うため定期的に行ったり来たりするトランスマイグラントと呼ばれる人々はいる。そして、出身国か受入れ国のいずれかに住み、そこに根付いてあまり動かないが、その生活が遠隔地の諸資源、取引先、人々と深く結びついている人々もいる。さらに、まったく動かないまま、トランスナショナル化された関係の中で生きる人々もいる。」「例えば自分は移民していないが、移民した子どもの事業をともに支え孫も育てている祖父母の場合、たとえ年1回海を渡るだけだとしても、包括的かつ中核的なトランスナショナル行動を行っている。同様に、移民ではないが、選挙のときだけ選挙運動で移民受入れ国に来る人は、特定分野での一時的トランスナショナル行動を行っている。」(Peggy Levitt, “Transnational migration: taking stock and future directions,Global Networks 1(3), July 2001)

「帰国」する移民も含まれる

帰国する還流移民(return migration)などは、受入れ国一国を中心とした分析では最も見逃される側面だ。移民したが帰ってしまった人は「失敗した移民」であり、多文化主義建設から脱落した人々であり、受入れ国政府にとっても関心の対象からはずれる。しかし、彼らは帰ってから経済的・文化的・政治的に母国で彼らの果たす役割に大きなものがあり、トランスナショナルな関係軸に視点を移せば、極めて重要な役回りを果たす。

例えば米国では、入移民については詳細なデータが取られているが、どれだけの正規移民が帰国したかについては、まともに統計さえ取られていない。移民研究者の推計値では、1908年から1957年の(主にヨーロッパからの)入移民者1570万人のうち、480万人が帰ったとされる。1960年代には移民の三分の一、1970年代には国によるが20%~30%が帰ったとされる。1990年代の研究によると、米社会保障局では年間移民の30%が帰国するとしているが、米国勢調査局ではその半分程度のレベルとしている、という。

移民トランスナショナリズは、「国境をまたにかけて」何か大きなことをしないとその活動に含められない、ということでもない。離れて暮らす家族の諸関係、日々のつつましい日常生活や文化活動の中にもトランスナショナルな世界の側面が深く刻印される。国際的な移民研究の主要学術誌『国際移住レビュー』(International Migration Review)が2003年秋に初めて(ついに)「トランスナショナル移住」特集を組んだが、それを監修したペギー・レビットらはその序言で次のように言っている。

「トランスナショナルな政治経済生活の多くは、投資や在外投票など観察可能な行動であり、これらは容易に測定し解読することができる。しかし、宗教や家族の生活はより主観的だ。深いところで感得される想像性、創意、感情を伴うものの、明瞭な形では表出されない。トランスナショナルな生活のこうした側面は把握が難しいが、アイデンティティと視座の形成に重要な役割を果たす。トランスナショナルな帰属意識を形成する想い出、物語、芸術表現なども、これまでの研究手法の範囲外に存在するが、見過ごされてはならない。実際、これら側面を十全に把握し、重要性に見合った注目を保証する新しいアプローチが求められている。」(Peggy Levitt, Josh DeWind, Steven Vertovec, “International perspectives on transnational migration: An introduction,” The International Migration Review, Vol. 37, Iss. 3, Fall 2003, p.571)

移民の日常を広くとらえる

移民トランスナショナリズムの視点は、国境をまたぐ人々への優しいまなざしをもっている。特に、新しい土地に挑戦する1世たちの存在空間をありのまま全体的にとらえようとしている。その国で生まれマイノリティとして生きていくことになる移民2世以降にとっては、多文化主義を精神の根幹に据えるのもいい。しかし、1世はそれだけだと取りこぼすものがある。受入れ国側から見れば中途半端で、軸足の半分を出身国に置いているように見える。ふとどきにも帰ってしまう移民もいる。多文化主義国家の一員になれるのか不安を残す。しかし、彼らはその代わり独自の空間をもつ。出身文化・社会との関係で多様な活動・事業を展開する。そのトランスナショナル移民の全体的な姿に注目し見ていこう、ということだ。

受入れ国に骨をうずめる覚悟の移民も居れば、出身国に帰ってしまう者、その中間でどっちつかずで行きつ戻りつする者(私か?)。受入れ国の言語・文化の方により大きく馴染みだした者、それほどでもない者。母国語のみを得意とする者。そこに無限のバリエーションがあるが、差別なく全体をとらえる。法的資格も、受入れ国の市民権を取得した者、永住権を取得した者、短期就労や留学生ビザ、そして未登録外国人まで様々なものがあるだろう。家族成員の事情がばらばらで国境を分かって分散することになる家族もある。その多様な形をすべて含めてトランスナショナルな生活空間として分析していく。そうした視点を「優しい」と感じるのは、あるいは私自身と家族がそういう中間系空間に浮き沈みしているからかも知れないが、とにかく、これまで見えなかった移民の生活空間全体をそのままとらえる分析視角は、大きなパラダイムシフトだったと言えるだろう。

私にとっての移民トランスナショナリズム

実は、移民トランスナショナリズムという概念に触れ、これは私自身のことではないのか、と感ずるところがあった。移民を研究しているつもりが、突如、自分自身が研究対象になってしまった。いろいろ調査したり文献を読んだりするより、私自身の内奥にある希求や矛盾に耳を傾けた方が本質をつかめそうな気もする。「岡部の海外情報」などというブログを書き、海外に居て様々な情報と思索を日本に送る…これも確かに移民者的なトランスナショナリズムの活動の一つには違いない。この位置からいったい何をしたいのか、何が可能なのか。私のまわりを見ても、このままアメリカに残るか、日本に帰ったがまたアメリカに戻ろうか、老後はどうするか、家族がどういう風に生きるか思い悩む悪友・良友の面々がごろごろ(失礼!)脳裏に浮かぶ。確かにこれは自身もそこに棲息する多文化的空間のお話なのだろう。

移民トランスナショナリズムの背景

移民トランスナショナリズムは「新しい現象ではなく、新しい見方(パースペクティブ)」だ、という巧みな言い方をキューバ系移民研究者アレハンドロ・ポルテスがしている。移民が出身国への帰属感を捨てきれずに二重のアイデンティティをもち、受入れ国に貢献すると同時に出身国に貢献し、送金、起業など2か国をまたぐ様々な経済活動、多文化的活動を組織するのは、昔からありふれたことだった。なかったのは、それを移民たちの重要な活動、独自の位相として理論的にとらえる視点だった。

ポルテスは、前述『国際移住レビュー』誌「トランスナショナル移住」特集の結語で、異論の多い同分野の研究*3(彼自身、多くの論点に熱心な批判を加えているのだが)でも、これだけは共通の認識になっているだろうとして5点*4を挙げ、そのトップに上記「新しい現象ではなく、新しい見方だ」の認識を示している(Alejandro Portes, “Conclusion: Theoretical Convergencies and Empirical Evidence in the Study of Immigrant Transnationalism,” The International Migration Review, Vol. 37, No. 3,  Fall, 2003, pp. 874-892)。

移民トランスナショナリズムは、19世紀のヨーロッパからの移民でも多く見られたし、身近なところで言えば、戦前の日系移民の母国との強いつながり、「一旗挙げて」故国に凱旋することへの熱情、差別の中で日本の天皇制イデオロギーへの必要以上の傾倒など、今は亡き1世たちの姿を知る身としても、移民の一般的性格であることは自明のように思われる。ポルテスは言う。

「今日トランスナショナリズムと呼ばれるようになったこの諸活動に『何か新しいこと』があるかの議論には結論が出たと思われる。移民の歴史には同様の現象が豊富に見られた。なかったのは、それを『同じのもの』と同定できる説得的な理論的枠組みだった。この理論枠組みがなければ、そうした様々な移民活動は、個々ばらばらの歴史上のお話に終わるだけだった。」(同上)

そして、同特集号のロバート・スミス論文から、この理論が一種の「レンズ」の役割を果たすとの指摘を引用している。「過去にトランスナショナルな生活が存在してもそのようなものとして認識されなかったとすれば、現在出されているトランスナショナルというレンズは新しい分析視角として機能し、それまであっても見えなかったものを見る方途を与えている。」(Robert C. Smith, “Diasporic Memberships in Historical Perspective: Comparative Insights from the Mexican, Italian and Polish Cases,” Ibid.)

*3  移民トランスナショナリズムに関しては多くの批判・異論が出され、活発な議論が行われてきた。その流れをコンパクトにまとめている論考にSebahattin Ziyanak, “Responding to Transnationalism Phenomena,Race, Gender & Class, Vol. 23, No. 1-2, (2016), pp. 219-222がある。網羅的・徹底的にまとめた論考にはこの分野の元祖Nina Glick Schillerの”Theorising Transnational Migration in Our Times,” Nordic Journal of Migration Research 8(4):201-212, December 2018がある。ある程度議論が出そろった2004年の段階で、移民トランスナショナリズムの全体像をよくまとめているのがPeggy Levitt, “Transnational Migrants: When “Home” Means More Than One Country,” Migration Information Source, October 1, 2004だ。数多く出た異論を十分に踏まえ、巧みなバランス感覚を示しながら、明快な論理でこの理論の基本を展開している。入門に最適だろう。また、2017年段階の理論水準をよく叙述しているのがSimona Kuti, “Transnationalism and Multiculturalism: An intellectual Cul-de-sac or Paths for Further Research?,”  Treatises and Documents, Journal of Ethnic Studies, December 2017だ。英語圏でないクロアチアの研究者の論文だが、全体をよく見ており考察も深い。民族問題で苦しんだ旧ユーゴスラビアの歴史を背負っているのかと思った。

*4  同論文で共通認識になっているとしてポルテスが挙げた5点のうち、他の4点は、移民トランスナショナリズムが「下からの」「草の根の」現象であること、すべての移民者がトランスナショナルになるわけではないこと、しかしそれらが総体としてマクロ社会的な影響をもつこと、出身国と受入れ国により移民トランスナショナリズムの形態はさまざまであること、である。

世界大戦と冷戦の20世紀が終わった

昔からあった移民トランスナショナリズムが、今日において明確に意識されるようになった背景には、もちろん、経済のグローバル化と、安い航空運賃やインターネットなど交通・通信手段の発達があげられる。市場経済が低開発国の隅々にまで及び、かつて一国内で大規模に起こった農村から都市への労働力移動が、出入国規制をも越えて途上国から先進諸国への移動として現れている。そして、格安航空会社(LCC)の台頭による移動費用の低減があり、電子メール、ウェブ、ソーシャルネットワーク、格安国際電話、スカイプ、ズーム、衛星放送といったITC技術の発達により、貧しい移民者も日常的に母国とつながるようになった。日本の場合はすでに経済発展した国であるため、高賃金のための労働力移動というプッシュ要因は弱い(だから、他のアジア諸国に比べて日本からの米国移民は少なくなった)。しかし、交通・通信技術の発達の影響はもろに受ける。私自身も「下流老人」の身でありながら、LCCや安便探しサイト「スカイスキャナー」などを使い世界をかけまわれている。電子メールなどで、世界に分散した家族と日常的に連絡を取り合っている。

これらによって移民トランスナショナリズムが強化されたのは事実だが、以前から、移民の間には強い望郷の念があった。たとえこうした技術的条件がなくとも移民トランスナショナリズムは燃え上がっていた。母国からの正確・迅速・豊富な情報が得られなければ、故国は益々幻想の彼方に押し上げられ、むしろ極端に強い紐帯の中にとらえられてしまう。再び身近なところで、例えばかつての日系移民は日本国内の日本人より強い天皇制イデオロギーをもったりしたし、ブラジルなど中南米では第二次大戦終了後、日本が負けたことを信じない「勝ち組」がテロその他騒乱事件を起こした。差別を批判する方途として人権や多文化主義などの概念が得られなかった時代、故国への愛国主義に活路を見出す他なかった一世たちを批判的に語ることはしたくないが。

移民トランスナショナリズムは、民族国家の枠組みを超える新しい世界認識の台頭として必要以上に持ち上げられる傾向もある。しかし、もしかしたらその中に棲息しているかも知れない身としては、その弱点も十分認識しておきたい。移民はもしかしたら通常以上に民族国家の論理にがんじがらめにされているかも知れない。国のはざまから、少しでも自分に有利なものを得ようとするしたたかな打算もある。米国では、日系人の運動が実り、戦時強制収容への謝罪と補償が実現した(1988年)。多文化社会であるべきアメリカの中で米国市民だった2世も含めて甚大な差別が行われた、ということであの問題は結論が出た。異なる国に移民して辛酸をなめ、差別に直面しながら…という移民観に基づき、3世たちが獲得した公民権と多文化主義の論理枠みによって勝利した。そこに、1世の移民トランスナショナリズムをのこのこ持ち出してくると、若干微妙な問題も出るような気もする。

移民トランスナショナリズム概念を1992年に提起した3人の一人、前出シラーがこの概念が生まれる過程を綴った文章がある(Nina Glick Schiller,  Transnationality, David Nugent Joan Vincent ed., A Companion to the Anthropology of Politics, Blackwell Publishing, 2007)。1986年、まだ3人とも大学の職にはついていない頃、ニューヨークの貧しいブロンクス区に住み、カリブ系移民の調査にあたっていた。互いの調査結果を突き合わせ、議論を重ねるようになった。このマージナルな知的空間が、主流の移民研究にない新しい視点を生んだとするが、もう一つの要因があるとして、急速に経済のグローバル化が進む時代背景をあげている。「私たちが討議をはじめたのは、企業資本主義が生産・消費過程のグローバルな構造改革を始めている時期だった。第1次大戦、2次大戦、冷戦と続く時代にある程度抑え込まれていたグローバルな相互結合プロセス、そしてトランスナショナル諸関係の研究が、再び強化されていた。」

移民トランスナショナリズムは、世界市場と多国籍企業の活動による「上からのグローバル化」に対応した「下からのグローバル化」の動きだとする見方が研究者の間に広く見られる。が、国家間の深刻な対立の時代が去って移民トランスナショナリズムの視点がようやく出てきたという論点は、不勉強にしてあまり見ない*5。20世紀は二つの大戦と冷戦という不幸な対立の時代だった。それらが去った1990年代(そして敢えて言えば、2001年の同時多発テロに端を発する新たな対立が顕在化する前の時代)に、移民トランスナショナリズムは提起され、台頭した。カリブ海諸国、フィリピン、メキシコといったシラーらの研究対象諸国が、新たな対立、あるいは冷戦の残滓的様相をもつ対立とあまり関係のない国々であったことも幸いしたろう。

*5  移民トランスナショナリズム研究の跡を振り返ったロジャー・ウォルディンガ―らの2003年の論文に次の指摘がある。「今日の大量移民の時代は異なる世界に属している。冷戦が下火になり、国家間の連携を可能にする諸要因がより平和な世界秩序に組み込まれた。国家的忠誠が重複することも許され、短い20世紀のほとんどを支配した相互排他性とは異なる状況が生まれた。すべての集団が平等に幸運だったわけではない。米国と非友好的な関係にある国からの移民は『適性外国人』の罠にはまるリスクがあった。」

また、移民トランスナショナリズムではないが、多文化主義について、カナダの政治学者ウィル・キムリックが、民族国家体制の現代世界で多文化主義が成立するためには国家間の安定した関係が必須になるというシビアな観点を論じている。移民トランスナショナリズムについても同じことが言えるだろう。

国家体制の支配下にある

移民トランスナショナリズムは国家を超えているどころか、民族国家のせめぎあう近代・現代世界の環境に大きく規定され、その支配下をうごめいている。国家間の騒乱が起きれば一挙に排除され、抑圧され、移民研究でもできれば触れたくない分野になってしまう。これが正面から見出され、しかも国家の枠組みを超える積極的可能性さえ示唆して取り上げられるようになるには、その基礎に安定した国際関係が形成されていなければならなかった。日系移民はおそらくそのことを最も強烈に体験した米国内マイノリティはだったかも知れない(第二次大戦中の強制収容)。

冷戦終結前後の1980年代から米国には100万人以上の東ヨーロッパからの人々が移民した。中南米やアジアからの移民に比してあまり注目されないこの東欧移民を研究したエワ・モラウスカが、フィラデルフィアのポーランド移民からの聞き取り調査で、次のような報告をしている。

「米国パスポートを所持するポーランド移民の大多数、約90%がポーランド市民権(国籍)を保持している。私が聞き取り調査をした代表的な答えとして、マリア・S、ヘンリク・Pらの次の発言があった。『私はポーランド市民権をもって生まれた。だれもこれを奪うことはできない』『これは私の自然権だ。私はポーランド人に生まれた』。血統主義国籍の理解により、回答者は、便宜的理由で米国市民権を取得することと何の矛盾も感じていなかった。『どこで生きようがポーランド人だ。変えることはできない。それを墓場まで持って行く』が典型的答えだった。」(p.1382)

米市民権取得に関する意識として現代アメリカではさほど特異なものとは言えないが、考えさせられる。戦前の日系移民は米国帰化(市民権取得)を禁じられていたが(1906年から1952年)、たとえ認められていたとしても、米国籍取得後、戦争前夜の米国で「どこで生きようがニッポン人だ」と大っぴらに言えたか。冷戦時のポーランド移民でも同じことが言えたかどうか疑問だ。冷戦後、ポーランドとの国家的対立要因がなくなり、母国の国籍を墓場にもっていくと言えるようになったのではないか。

国家による移民トランスナショナリズムの取り込み

国家は現代世界において依然強力な存在であり、それを超える経済活動や人的移動が生まれてくれば、規制しようとするし、その便益を最大限内部に取り込んでいこうとする。国家は、乗り越えられるよりも、時代の要請に沿い柔軟に姿を変えていくように見える。民族国家は、かつて、民族という「幻想の共同体」をけん引する団体として構想された。それ以前の牧歌的な(民族にもあまりこだわりのない)古代的「帝国」とは異なる近代の歴史的概念としての性格が強い(だからその意味を明確にするためにもnation stateは「国民国家」などでなく、字句通り「民族国家」と訳すべきと私は考える)。しかし、現実の世界において、民族国家はそこの多数派民族中枢が周辺部と少数民族を同化していく体制として生まれる他はなかった。その矛盾を含んだ概念が民族国家である。今日、少なくとも法制度上多文化主義を標榜するようになった国家(カナダ、オーストラリアなど)は、その枠組みを限界近くに推し進めているだろう(EUなどもまた別の形で民族国家の限界に挑んでいる)。しかし、なお、それらは民族国家であることを止めず、矛盾を含んだ概念でありつづけている。(多文化・多民族が真に実現されるなら、民族の国家など必要なくなる。)

国家は、経済のグローバル化に対応するし、移民トランスナショナリズムを内部に取り込もうとする。前出ペギー・レビットは、移民トランスナショナリズムの中に登場する各種機構を解析する論文の冒頭で、アイルランド大統領が、過去数世紀に渡り世界中に散っていったアイルランド移民とその子孫たちに熱い連帯の演説を行ったエピソードを紹介している。貧しかったアイルランドからは歴史的にイギリスへの移民が絶えず、19世紀半ばにはポテト飢饉で100万人が死に、100万人以上が海外に移民した。18世紀から現在までに米国への500万人をはじめ900万~1000万人の出移民があった。アイルランド大統領は、「現在、世界中に7000万人以上のアイルランド系の人びとが暮らす。我が大統領府はこれらの人々の声を代表することにも誇りをもつ」と語ったという(1990年のマリー・ロビンソン新大統領の就任演説)。Wikipediaのまとめによると、現在のアイルランドの人口が460万人なのに対し、イギリスに1400万、アメリカに3300万、カナダに450万、オーストラリアに700万など、全世界で7500万人のアイルランド系の人々が暮らす。国内人口の16倍だ。

移民や外国人労働者を先進諸国に送り出す途上国は、後述の通り、送金支援、二重国籍承認など、積極的に彼らへの支援策を取っている。そうした途上国だけでなく、アイルランドのようなEU域内国でさえもが過去の移民遺産に言及する。それはレビットによれば「実際的な施策というよりシンボリックな発言」だそうだが、アイルランド系と言えば、ケネディ元米大統領を始め米国内にも強い基盤を持ち、世界に膨大な移民、その子孫人口を有する民族集団だ。そこに連携のメッセージを発するというのは、異次元レベルを感じる。アイルランドは1998年の憲法改正で「アイルランド国民は、文化的なアイデンティティと遺産を共有する海外在住アイランド系の人々との特別な親近性を尊重する」との条文まで入れた(第2条)。

海外送金

国家にとって移民トランスナショナリズムの最大の目に見える益は海外送金だ。現在世界には2億5800万人の国外移住者がいると推定され、2017年には4660憶ドルが移住者から途上国に送金された。2019年にはこれが5540憶ドルに拡大した。全世界で8億人(9人に一人)がこうした送金で生活を支援されている。2017年の米国からの送金は1485億ドルで、これは米政府の外国援助501憶ドルの約3倍にあたる。送金先国のトップ10はすべて貧しい途上国で、1位メキシコ(300憶ドル)、2位中国(161憶ドル)、3位インド(117憶ドル)、4位フィリピン(111憶ドル)と続く。こうした外国送金は金融機関を通した公式なものだけで、非公式チャネルでの送金は含まれない。移住者が一時帰国の際に家族に与える金、母国現地での土地・家屋、消費財の購入なども含まれない。

前出2001年論文でレビットは様々なソースからデータを集めている。移民からの送金額はエルサルバドルでは輸出総額の47%、ドミニカ共和国では21%に当たり、ドミニカ共和国の大統領アドバイザーによると「国のマクロ経済安定に必須のもの」とされる。ハイチ政府は、国外在住者支援省を設立し、インド・グジャラート州政府は「移住者の預金と余剰金融資産を州の開発と相互利益に役立てる」ため非居住インド人局を組織している(2004年にはインド政府が海外インド人省を設立し、2016年に外務省に統合)。メキシコ政府は、帰国者の各種公的手続きを支援するPrograma Paisanoを設立し、また、国内ビジネスと米国内移民ビジネスとのパートナーシップに融資する「ヒスパニック・ファンド」を設立し、エルサルバドル政府は、米国内移民と連携して国内家族ビジネス融資を確保するトランスナショナル信用組合を設立した。多くの国が、米国内に海外送金や投資を支援する機関を立ち上げ、移民者優遇の預金口座を設置したりもしている。郷里の地域団体(hometown association)などを通じて、政府がマッチング融資プロジェクトを行う事例もある。移住者からの投資に政府が同額の融資を加えて支援するのだ。

二重国籍、在外投票権

さらに二重国籍や在外投票の権利を認める。2001年執筆の時点で、移住先の市民権・国籍取得後も出身国の市民権を保持・再取得できる国が約70か国あり(日本は現在に至るまで認めていない)、米国への移民が多い上位10か国のうち7か国が二重国籍を認めている。メキシコの場合、国外に1000万人以上の国政選挙有権者がおり、これは全有権者の15%に相当する。ドミニカ共和国の場合、首都サント・ドミンゴに次いで有権者が多いのは米ニューヨーク市になる。もちろん、投票するからには政治資金獲得でも貢献してもらわなければならない。ドミニカ、ハイチ、メキシコなどの政治家は選挙のたびに米国内で資金集めキャンペーンを行う。ユダヤ系アメリカ人のイスラエル・ロビー活動をモデルに、自国を利する米国内ロビー活動にも期待する。

その他、例えばドミニカの税関が帰国者1世帯につき1台の車の持ち込みを無税にするとか、補助付きローンで購入できる帰国者専用住宅を建設するとか、ブラジル政府がニューヨーク在住者に医療保険を提供するとか、エルサルバドル政府が米国内の未登録外国人も含めて法律相談を行うとか、細かいところに手の届く数多くのプログラムが実施されている。

以上は、移民トランスナショナリズムを取り込もうとする途上国国家側からの政策だ。受入れ国側では、移民を規制する傾向が強いが、自国にとって有利な側面は最大限活用する政策も強力にとられている。グローバル都市の機能を強化し、多国籍企業の活動を最大限自由化し、それを担うエリートたちの諸権利を確保し(3カ国の国籍を駆使するゴーン氏に翻弄されている国も)、世界中から投資移民を受入れ、優秀な技術移民を途上国からも大量に受け入れる。

研究者たちも、こうした国家による移民トランスナショナリズム取り込みを様々に分析している。しかし繰り返すが、こうした個々の支援策が必要であるにしても、最も重要なことは平和の維持、安定した国際関係の構築だということを忘れてならない。それなしには移民トランスナショナリズムが支えられず、表面に出てくることはなかった。民主主義と人権、多文化尊重、そして(敢えて言えば)公正な市場に裏打ちされた良好な国際秩序なしに、移民トランスナショナリズムの可能性がはばたくことはない。

トランスナショナル移民はどこへの「統合」を目指すのか

多文化・共生を求める人たちは、「同化」(assimilation)ではなく「統合」(integration, incorporation)という言葉を使う。支配的な文化に飲み込まれ迎合する「同化」は否定するが、なおその社会の中で他と関りをもち「統合」していくことは必要だとする。個々ばらばらな多文化のままでいいとはしない。単に状態としてmulti-culturalなだけでなく、多文化間がつながる方向を目指すことが大切だとして「間文化」(inter-cultural)を主張する人たちもいるが、同じ方向を示唆するだろう(例えばここ参照)。こうした「同化」と「統合」の概念をめぐり、前出リマは次のように書いている。

「同化とは同じようになることだ。しかしだれと同じになるのか。前世紀初頭には、それはアングロサクソン方式に合わせることだった。しかし、今日、アメリカ社会が多様化し、到着する移民グループも多様化する中で、新移民が固定的な文化に一直線に同化していく形は考えられない。/伝統的な同化主義理論家が、トランスナショナリズムを、社会への統合とは逆方向のプロセスととらえていたとするなら、今日のトランスナショナリズム理論家は一連のプロセスを両者の複合的結合として理解する。つまり、トランスナショナリズムと統合は同時的過程であり、移民者が送出国と受入れ国間の諸関係をつくりあげる中で、統合がトランスナショナリズムを強化し、トランスナショナリズムが順調な統合の基礎を形づくる。トランスナショリズムは、この見方からは、市場の制約や外来者に対する偏見を回避する有効なメカニズムを提供している。統合を可能にすると同時にそのプロセスの一部となるのであって、統合や全面的な「同化」の前段階の行動というわけではない。」(Alvaro Lima, 前出論文

微妙なニュアンスは残るが、トランスナショナルな移民者たちが統合されていく社会は、必ずしもそこの民族国家の(もしかしたら多文化的な理念をまとっているかもしれない)秩序ではなく、一部にトランスナショナル性を含む空間であることが示唆されている。一般に、受入れ国で成功した事業者などが出身国との経済・社会活動も活発に行うし、出身国との事業で成功した移民者が受入れ国移民社会の名士になる、などの関連は見られる。しかし、トランスナショナルであればあるほど「統合」がうまくいくという予定調和を強調しすぎると再び「コンテナ理論」に取り込まれるだろう。移民者が目指す方向にトランスナショナル世界の秩序自体をもってきてしまう発想の転換ができないか。

一国多文化主義からグローバル多文化主義へ

多文化主義は捨て去る必要はない。現実の多文化主義が国という「コンテナ」に移民の可能性を閉じ込めるものであるにしても、多文化主義はもともと異なる文化・民族の人々が互いに交じりあい、理解しあいあい共生していく理念を表したものだ。一部の国が、たとえ国家の枠内であるにせよそうした理念を掲げるようになったのは評価できるし、トランスナショナル移民たちも、現実の中で最大限に努力しているそうした諸国に敬意を表し、また移民トランスナショナリズムを支える途上国の政策にも顧慮し、そのもっている可能性の一端を分けてあげてもいい。

しかし、トランスナショナル移民者たちは、むろんそこにとどまる必要はない。別に、居丈高に国家を「乗り越える」必要もないし、ある程度貢献してもいいが、やはり、より遠くを見つめている必要はあるだろう。民族国家のせめぎ合う体制のかなたの世界を積極的に構想する。自分たちの世界が生み出しつつある独自の可能性をしっかり追い求める気構えは必要だ。

一国多文化社会はグローバル多文化社会になる必要がある。そういう展望の中で多文化主義を追う必要があるし、移民トランスナショナリズはそこを向きたい。現代世界はグローバルなレベルでの多文化・共生の秩序を求めている。移民トランスナショナリズムは、複数の国をまたぐ諸関係を築くことで、グローバルな文脈の中で多文化主義を追求している。「いろいろある」というマルチカルチャルだけでなく、互いに交流し関係しあう間文化的(インターカルチャル)な課題も追求する多文化主義だ。移住先は主に先進諸国になるが、いくつかの先進諸国に向かって多くの第三世界諸国から移民トランスナショナリズの動脈・静脈が伸びている。移民受入れ国側から見れば、外でなんかいろいろやっているくらいにしか見えないが、グローバルな立場から見れば、相互的な経済・政治・文化実践活動が無数の網の目を通じて地球を舞台に展開されているということになる。この場合、いくつか移民の集中する国が、かつて地方から大量の労働力を受入れた東京のような存在になる。そこは、各国から「上京」してきたトランスナショナル移民たちがつくる新しい交流の世界だ。特定の国というより、いや表面上は国の様相をとっているが、実際はトランスナショナリズムが交わるグローバルな実験場だ。そこで新しいグローバル文化が交流、連携、時に対立を含みながら生まれていく。そしてその動きはトランスナショナル移民たちによって世界中に結び付けられている。