宇宙の本質(と音楽)

もちろん何の証明もなしに言うことだが、宇宙の本質は音楽ではないか。

得も言われぬ、あのメロディーという世界に広大な宇宙、深淵なる存在の本質が凝縮されている。体現されている。

たぶんベートーベンやモーツアルトたちのような楽聖たちもそれを感じていただろうが、薄暗いカラオケ・ルームで昼間からヒトカラに興じる老人や、酒に酔って歌いまくる若者たち、そしてシンとした教会で自分たちの奏でる和音に魅了される合唱団も、そのような神秘を時々感じている。

天動説から始まって、太陽系から銀河系、さらにはビッグバンから膨張する宇宙、ひも理論から11次元世界、そして宇宙が無限に存在するという多元宇宙論と、物理学の世界はどんどん曼荼羅の世界に近づいていく。そのうち、「本質は音楽だった」という真実が明らかになってもおかしくない。宇宙の真理は、あの薄暗いカラオケ室にあった、と。

その片鱗はすでに示されている。宇宙に存在する素粒子などミクロの物質は、粒子でありながら実は波でもある、という量子論の世界。そして、素粒子は高速で振動する弦のようなものだとする超ひも理論。

音楽という真理から、人はありとあらゆる情感を湧き起こされる。その源たる音楽が主観的な幻覚のようなものである訳がない。それは宇宙の深淵から沸き立ち、宇宙を支配し、この惑星に棲息する人間の愛や悲しみや喜びや、その一切の社会関係の中にも偏在する。

そういうものだ、音楽とは。

別にそう思ったからではないが、昨年、サンフランシスコ圏に来てから、友人の紹介で男声合唱団に参加させて頂いている。今年はコロナのせいでほとんど集まって歌うことができなかった。しかしZoom会議で落ち合って練習し、デジタルで各人の歌を合成して合唱をつくる、などいろいろ工夫して合唱してきた。

災い転じて福となす。このコロナの年に、私は音楽に少し目覚めた。これまでカラオケで歌うのが趣味だった。ただ気持ち良いから歌ってきただけだが、例えばデジタル合唱で、自分の歌を聴くと、何と醜いのか。リズムがいい加減なのは前から分かっていたが、少しは自信があった音程もあやしい。揺れ動く。日本語の発音だって醜い。基本的な発声がだめなのは(上達に時間がかかるので)やむを得ないとしても。

少し真剣に歌の練習をしようという気になった。それにはこの現在入っている男声合唱団はとてもよい。コーラスはカラオケとは違うようだった。カラオケはある程度自分勝手に気持ちで歌えるが、合唱はまずは正確に歌わなければならない。音程もリズムも。そうでないと合唱が合わない。その基本ができて初めて次の段階、美しい歌声云々の領域に行ける。

カラオケは音楽を庶民のものにした。私は相変わらずカラオケ派であることに誇りをもつ。しかし、そのためにも、合唱で少し鍛える必要があることを徐々に理解しはじめた。