アメリカでは大勢に付け、個性を抑えろ

私の「銀行口座を止められた」の苦労話を読んで、米国社会との付き合いが長い友人から、「痛いほどよくわかる」とのコメントを頂いた。いろんな悪い体験があり今でも悪夢を見るという。日本の組織もフラストレーションがたまるところだろうが、アメリカの組織も公的機関、民間企業を問わず、いろいろトンデモ事象が炸裂するところなのだ。

外側からだが、私も組織ビュークラシーに困らされた経験は何度もある。今回の銀行との一件もそうだが、ニューヨークでのメディケア申請をめぐる社会保障庁とのやり取りも同様に消耗な経験だった。ある時点では、苦労して準備した申請書類を現場担当者に捨てられたらしきこともあった。(当ブログの「アメリカの高齢者医療」参照。その記事の最後「後日談」で「細かい話なので、興味がない人は読まなくてよい」と断って書いた個所だ。)

引き算を間違えられた話

もう一つ、ブログには書いてないが、2019年後半、サンフランシスコ圏に来てからにも似たような話があった。年金受給をめぐる社会保障庁関連のトラブル。わかりやすくするため、私の年金受給を月300ドルとする。そこから、これも仮の数字だが100ドルの高齢者健康保険(メディケア)の保険料が差し引かれ、月200ドルが支給されているとする。300-100=200の実に簡単な算術だ。実際これで1年以上、毎月200ドル(仮の数字です)が私の口座に振り込まれていた。

ところがある日、突然これがゼロになってしまった。メディケア保険料を差っ引くとゼロどころかマイナス(つまり私の借金)になってしまうと表示されている。驚いた。社会保障庁のコンピュータは簡単な引き算もできないのか。それが翌月も続く。私の借金がどんどん増えるのかというとそうでもなく、逆に、来月は600ドル、その次は900ドル払われますよ、と増えていく(なぜか、そういう案内も毎月来た)。年金が入らないのは困るが、そのうち直るだろうと放っていたが、直らない。やむなく最寄りの社会保障事務所に報告に行った。

ここでさらにびっくりたのだが、単純な引き算間違いを指摘しても、担当者が理解しないのだ。コンピュータが吐き出した説明をそのままオウム返しして、保険料を差し引くと年金がゼロ以下になってしまうんですよ、と言う。おいおい、違うだろ、300-100はプラスの200だろ、と言ってもぽかんとして、中のだれかに聞きに行く。戻ってきて「調べておきます。大丈夫でしょう」と言う。おいおい本当か。まあちょっと見ればわかることなので、来月は直っているだろうと思って事務所を出た。

が、直っていない。その後何カ月も年金支払いゼロで、「来月は〇〇ドル支払われます」の額がどんどん増えていった。勝手にしろ、と放った。ふん詰まり額が増えていくなら問題ないわい、と。そして、4~5カ月たった時、突如たまった年金が全額拠出され、以後はまた正しい月額計算に戻った。奇怪。いったい何だったのか。

ビューロクラシー日米比較

大したことではなかったが、今回の銀行の一件でこれも思い出した。巨大なビューロクラシーの中で些細な間違いが頻繁に起こる。一旦起こるとなかなかそれが是正されない。職員も現場の判断で柔軟に訂正する能力に欠けている。

(いや、現場に、さほど能力にこだわらずどんどん人を入れるというアメリカ流は、ある意味すばらしい。人間だれしも、機会と経験の場さえ与えられればのびるものだ。結局はそれで社会全体の技能・能力が向上する。その過程でトンデモが起こる可能性が高まるとしても、破滅的崩壊ををぎりぎり阻止するシステムが用意されていればよい。)

日本のお役人は末端まで非常に優秀な公務員をそろえている印象がある。上層部は汚職、コロナ宴会その他で問題があるが、末端の公務員は優秀だ。が、アメリカは逆。中枢に極めて優秀な人材が居て精巧な制度をつくり、いざとなればきっちりシステムの制御もする。しかし、末端では常時トンデモが起こり混乱が発生している。時にはぼけっとして20兆円もの大金が詐欺ネットワークに奪われてしまう。日本のコロナ給付金詐欺など可愛いもので、わずかな額をかすめ取った不正申請者が優秀な現場担当者によってことごとく摘発されているのだろう。

サバイバル上の単なる私見

いや、これは私の勝手な見方だ。別に社会科学的に調査・分析して出した答えではない。客観的事実と主張する気は毛頭ない。しかし、人は、例えばアメリカ社会にしぶとく生きるため、それなりのノウハウ、心構え、見方を、必ずしも学術的に証明されなくとも生活の中でもってしまっているものだ。私はアメリカ社会をそれなりに客観的に分析しようとしているが、それ以前にこの社会でしぶとく生きなければならない。その段階ですでにいろんな生活の知恵を動員してしまっている。

(ついでに言うと、社会科学というのは、こうした生活から出る問題意識を、資料(証拠=エビダンス)に基づいて論証・理論化し、他との議論・検証を経てより普遍的な認識に高めていく方法だ。エビダンスに基づいた客観的な認識が求められるが、同時に、その基礎に生活、つまり人間の生命現象から生まれた問題意識も強く求められる。そもそも、無限に多様な社会現象の中で、なぜそれを認識作業の対象にするのか、なぜそのような形に切り取って考察するかの段階で、人の価値判断、バイアスが入っている。(人種問題、環境問題、車社会、金融詐欺…すべて、人と物体の無限に多様な運動過程を価値判断的に一定の方向に切り人の認知機能の中で構成した認識対象だ)。社会科学が人の価値判断もなく純粋に客観的真理の追求だけで成り立っていると思うのは誤解だ。社会科学は生身の人間の問題意識から出発するからこそ成立するし、意味がある。人としての価値判断、問題意識を十分に踏まえてそれを(エビダンスを踏まえて)研ぎ澄ませていく過程が社会科学であって、それで精緻な認識・理論に到達することもあるし、誤解が明らかになることもある……おっと、つい難しい話をぶちたくなる。詳細は拙著『ネット時代の社会科学の方法』を参照のこと。)

アメリカでは大勢に付け、個性をころせ

アメリカは個性的な社会で、人それぞれ個人として自立し、他と異なる独自の生き方をしなければならない、そしてそれを尊ぶのがアメリカ社会だ、と言われる。そうかも知れないが、私は他の面ではまるで逆の認識をして事に当たっている。特にビューロクラーとの消耗な摩擦をさけるためにこれは必須だ。大勢に付け。

一つにはアメリカが何事にもコンピュータによってシステム化され動いているということがある。公的機関や企業のビューロクラシーの中で動く労働者たちもそれを元にしたシステム内で働かされている。なら、こちらもできるだけそのシステムに乗って動かないと時にトンデモに会う。そしてトンデモに会っても現場の労働者たちの柔軟な能力で適切に解決されることはあまり望めない。一旦道を外れると大変なことになる。だからできるだけ大勢に従って生き、余計な個別的状況に陥らないようにする。

外国人としてこのアメリカのシステムと付き合うのは、例えば移民局など出入国管理行政が相手になるときだろう。読者の方もこれでいろいろ苦労したはずだ。私もそうだったが、アメリカ市民権を取り日本国籍もなくなった今では非常にすっきりし、この面では苦労がない。しかし、米国社会内部に入ればあらゆるところで同様の不合理、トンデモに出会う。サバイバル・ノウハウを充分蓄えねばならない。

アメリカほど画一的な社会はない

思えば、アメリカほど画一的な社会はないだろう。どこの都市も同じようにつくられ、同じように高速道路が走り、車に乗った生活を強要される(自転車乗りになどなったら悲惨)。山のあなたの空遠く幸い住む…なんてことはない。かなたに美しい山は見えるが、それを越えて行っても向こう側に同じような街があるのがわかっているので行く気がしない。同じような一戸建て住宅の郊外が広大に続き、そこには健康な家族生活があるように見えて、実は今ドラッグ蔓延が、都市部貧困層より、こうした郊外ミドルクラス層に拡大している。買い物は広大な駐車場の中の巨大モールと巨大スーパーでする他なく、そこには大量生産・大量消費される画一商品があふれかえっている。そして何事もコンピュータ化されて、特定様式に落とし込まれた体制の中でものごとが進み、制御されている。

政府によって特定生活が強圧的に命じられているわけではない。しかし、社会の仕組みそのものが、画一的に生きなければならなように組み立てられ、自由に生きたつもりで結局、画一的な枠組みの中に居ることにいやでも気づく。

こんな社会から、「個性が強く」「新しいことに挑戦することを尊とび」「起業家精神に満ち溢れた」などの自画像がどうして出て来るのか。転倒した幻想の自画像か。社会があまりに画一的だからわずかな例外が目立つのか。画一的でも広大な社会だから、逸脱の余地が残されているのか。不思議な社会だ、アメリカは。

いや、こんな画一の権化のような社会でも企業、NPOを問わず、人々が新たな試みを繰り返し生みだしている、ということで逆説的に大きな励ましを得られるところなのかも知れない、ここは。最近はそう思うようになった。