マルクスの逆を行く

資本主義とは何か

あまりよくわからない概念を簡単に語るのはやめよう。訳のわからない理論のジャングルで迷子になる。「資本主義」などという言葉もそうだ。皆よくわからないで使っている。控えめに言っても皆それぞれ勝手な解釈でこの言葉を使っている。本当のところ「資本主義」は何かというと、現代経済を悪く言うときに使う言葉だ。つまり差別語だ。これを罵倒したいとき「資本主義」と言う。穏当に言えば、現代経済社会を批判的に語りたい場合に資本主義と言う。これを良く言いたいときには「自由経済」などという。こちらはポリコレ語だが、何か無批判に語る風情もあり、翼賛語とでも言うべきだろう。

石器時代にも資本はあった。狩りという事業をするために、石槍やこん棒など「資本」は必要だった。一生懸命石を砕いてとがった槍先をつくった。それで狩りがうまくいけば収穫がいっぱいあり、仲間を食わせられ、生存を永らえ、より多くの石槍やこん棒もつくれた。つまり「資本増殖」もできた。

そんなでたらめな定義で社会科学の言葉を使うな!と言われそうだが、まあいいんではないでしょうか。頭を柔軟にしましょう。意味をずらしたと言われてもいいから柔軟に考え、新鮮な見方ができるようにしましょう。理論に活路が生まれるかも知れません。(昔はとてもこんなことは言えなかった。なぜか今は言えるようになったのでうれしい。)

マルクスおかしい

経済学の大家・マルクスによると、資本主義とは、生産手段を持つ人(資本家)が労働者を雇い搾取する経済制度だ。どういう風に搾取が行われるかというと、資本家は労働者の労働能力(労働力)を買って働かせ、労働者は働く中でその労働力価格(賃金)以上の価値をつくり、資本家はその「剰余価値」をそっくり頂いて儲けてしまう、ということだ。

しかしこれはおかしな話ではないか。資本家(多くの場合社長)の労働は考慮されないのか。この時代、どんな商品をどんな形でつくり売ればもうかるか、それ決める段階で事業の成否はほぼ決まる。そこを創意的に考え、リスクを負ってやってみようとする企業家の「労働」、つまり企業家精神は価値を生まないのか。何をつくっても、時代遅れの求められてもいない商品をつくらせても、労働者は常に価値を生み出すのか。私は自分の書いたものがたとえ汗水たらし書いたとしても、それが労働だから即価値を生む、などと考えたことはない。とんでもない駄作を書いているかも知れず、そうであれば社会的には無価値だ。どのようなテーマをどのような切り口で書くか、その「生産」のおぜん立てのところで勝負はほぼ決まっている。

今後、ロボットやAIが、汗水たらして働く労働者の労働をほとんど置き換えてしまったらどうするのか。資本家だけしか居なくなる。実際のモノづくりは自販機のような工場装置にコインを入れてやってもらう。あるいは3Dプリンタで自宅量産してしまう。そのとき価値はどこから生まれるのか。え?資本家が突如「独立生産者」に変身して価値を生み出すのですか。

(同様の観点だと思うが、「マルクス『資本論』は何を間違えた?」が別の側面からわかりやすく、かつ、おそらくより正しく説明してくれている。)

私的所有を肯定してはじめる

マルクスの間違いの最たるものは、私有財産を否定したことだろう。私利私欲を認め、私的に所有することで人間は自助努力をはたらかせ今日に至る発展(問題含みではあるが)をかち得てきた。人間にとって最も重要なものを彼は否定し、それを根絶した共産主義で理想の社会が生まれるとした。多分プルードンとの激しい共産主義本家争いで、彼に影響されてしまったのだ。「私有財産、それは盗みである」とプルードンが言ったからにはマルクスもそれ以上に行かなければならない。

映画の中のマルクス(右)とエンゲルス。ラウル・ペック監督「The Young Karl Marx」(邦題「マルクス・エンゲルス」、2017年、独仏ベルギー)より。

人間だれしも、他の人を助けたいと思うし、みんなが幸せになってほしいと思うが、やはり、自分をよくしようとし、自分のために行動することが一番多い。それは素晴らしいことだし、それがあるから人間は向上してきた。このことは、認知症患者の行動に直面させられることで痛切に理解させられる。自分のために何をすればトクなのか、まるで判断できなくなっている。危険な所にも行くし、あぶないものも食べるし、ましてや、最小コストで最大効果を得ようなどという思考ははたらかなくなり、自分を少しでもよく見せようという見栄さえもなくなる。最低限の私利私欲を持って行動してもらうことが、人間社会の運行にどれほど根幹的であったかを痛切に理解させられる。

「私的所有の生物学的起源」

鈴木健によると、私的所有の起源は生命そのものの起源と関係する。自己維持に必要な資源を囲い込む40億年前に登場した「膜」が「私的所有の生物学的起源である」と言う。同様のことを下記の通りダニエル・デネットが言っていると棚橋弘季が指摘する

「自律的代謝を有することに加え、どんな生物も自分をその他すべてのものから識別する多かれ少なかれ明確な境界を持っていなくてはならない。この条件にも、有無を言わせぬ明らかな論理的根拠がある。すなわち、「何かが自己保存の仕事に取り掛かると、直ぐに境界が重要になる。なぜなら、もしあなたがあなた自身を保存することに取り掛かり始めたら、あなたは全世界を保存しようと無駄な努力をしたりするのは望まないからだ。つまり、あなたは境界線を引くのである」(Dennett 1991a,p174)」(ダニエル・C. デネット『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』)

生物は、外界から食を取り込み、老廃物を排出し、自分の生命システムを一定期間維持する。どんな生物でもそうだ。当然人間でもそうだ。「膜」の外から内部に物質を取り込まないとその生命は維持されない。「物欲」があり、「私利私欲」があり、私的に資源を取り込む行為が生命の本質でさえあった。その物質を内部に取り組む直前に、生物はその物質を「私的所有」する。内部に取り込んでしまえば自分自身(の一部)になる。取り込む直前は「所有」している。

私的所有は一般に、対象に自己の労働を加えたときに自分のものになるという形で説明される(J・ロック)。山野で捕獲してきた狩りの獲物が自分の所有物になる。耕作して得た収穫物が自分の所有物になる。「無主の地」を開墾すればそれが彼の土地になる。同様に獣は、取り込むべき資源(食)を外界環境に見つけ出し、それを捕獲し、歯でかみ砕き、やがて腸内で消化して「膜」の内側に取り組む。見つけ捕獲し破砕する一連の行為に私的所有の原型がある。その途中でより強い獣に獲物を奪われることもあり、「私有財産」をめぐる闘争も行われている。知的生命では、さらに多様な対象物を私的所有するが、原初的には食が私的所有の対象だった。食を内部に取り込む直前に私的所有が現われる。

最大限の私欲と環境との調和

簡単に言うと、生物にとって本質的なこの「私欲」を最大限解放しつつ、かつそれを共同体(あるいは地球環境全体)と調和させる精巧なシステムを構築することが人々に最大幸福をもたらす。そうした社会が最も良く持続的発展する。私たちが目指すのは、そうした社会システムを構築することだ。

私欲は生物及び人間にとって根源的な機動力だが、私欲だけでは社会は成り立たない。いや、ライオンがハイエナから食を奪うような意味での弱肉強食と戦争の社会は成り立つが、人々の最大幸福を実現する持続的社会は達成できない。私利私欲を一方的に主張するだけはだめで、それを相互利益の関係の中に置く共同体的秩序が求められる。

ここで、突如として私的所有が抑えられるということではない。むしろ私的所有は固有の人権として保証され、法的に保護され、私有財産の制度が徹底して確立される。公正な市場を通じた交換が行われ、盗みや強奪は禁止される。私有財産と市場の確立が人類の進歩にとり画期的だった。敢えて「私的所有」を比喩的な意味でも使ってきたが、正しくは、生物界の私利私欲を人間社会段階の新しい秩序として確立したのが私的所有と市場の制度だった。

盗みは労働ではない。それがいかに多くの労力と緊張を必要とするものであっても労働ではない。労働は盗みや強奪とは別の活動だ、とするある種の合意が人々の間にある。人は目の前にあるものを動物のように強奪するのでなくて社会的に合意された方法で入手・消費する。そしてその「所有」を互いに認知し、正当に取得されたたものに他者は手を出さない。それら多くの社会的合意を前提に私的所有が成り立つ。桜井徹は「私的所有の道徳的根拠」の中で、所有をめぐる古今の思潮を大きく「労働所有論」と「合意所有論」(コンベンショナリズム)に分けて論じ、ロックが言うように個人の労働だけで一方的に私的所有が生まれるのでなく、社会的な合意で所有が生まれるとする「合意所有論」を跡付けている。

近代はなぜヨーロッパにはじまったか

歴史時代に入ってからも、私的所有が歴史を推し進める重要な契機だった。ヨーロッパに始まる近代、イギリスに始まる産業革命、アメリカの特にシリコンバレーに見られるような起業家経済の発展、東アジア諸国の経済成長、これらすべてに、社会の中に私的所有を有効に組み込むシステムが存在する。

あらかじめ断っておくと、欧米日を中心とした近代産業社会の発展は、ウォラスティンが言う「世界史的な過程」で行われたのであり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの「周辺」世界が、中枢に従属することでもたらされた。「先進国」と「後進国」は決してその内部的資質の違いで分化したのでなく、むしろこうした支配・従属の世界史的関係の中で形成・固定された。

しかし、だからと言ってヨーロッパがなぜいち早く中枢の立場に立ったか、の考察が不要ということにはならない。世界史中枢は世界のどこにでも生まれる可能性があったが、たまたまヨーロッパに生まれた。そして生まれればわずかでも早かったその地が世界的中枢の位置を一挙に確立する。コロナ禍で多くのIT企業がウェブ会議技術を世に出したが、わずかに早く出たズームが市場を制覇したのと同じ理屈だ。我々の近代は、そうした緊密に結ばれた世界体制が作動する時代だった。その「わずかでも早く」がなぜヨーロッパで起こったか、の分析もする必要がある

世界的に見てヨーロッパは、南に地中海、北に北海・バルト海など海が複雑に入り、かつ河川が内陸まで入り込み、以前から海上交通、したがって航海術、海軍力などに優れていたこと。そこから生まれる交易からの富があり、さらに「地理上の発見」が、ヨーロッパを旧大陸のはずれから「新大陸」を向いた大西洋貿易圏の表玄関に変えたこと。自然に恵まれた熱帯でなく温帯に属し、寒い冬に備えるプロテスタント的勤勉をはぐくむ素地があったこと。などをかつて提起した

私的所有の発展

この背景があってのことだが、ヨーロッパの農業・土地制度の中で私的所有が早くから発展した。自分で工夫して働けば自分にそれなりの成果物が返ってくる。それが、人々の創意と勤労にインセンティブを与えた。戦後一世を風靡した大塚史学は、マルクス主義を下敷きにしていたはずだが、ヨーロッパの伝統社会でいかに私的所有の制度が早くから芽生えたかを詳細に分析した。「アジア的」「古典古代的」共同体に比して、ヨーロッパの「ゲルマン的」共同体には個々の農民が私的に占有・耕作できる土地が組み込まれ、「中産的生産者層」の台頭が準備されていた、とする(例えば大塚久雄『共同体の基礎理論』岩波書店)。

また、日本のマルクス主義者の間では、平田清明『市民社会と社会主義』(1968年)を契機に、実はマルクスは共産主義の中で「個人的所有」(個体的所有)の再建を目指していたのではないか、という論争が活発化した。「社会主義と言えば国有」という時代で刺激的な異論だったが、ここでの深入りは控える。

なにしろ、マルクス主義の世界は、中に入るとスコラ哲学的論争に取り囲まれ訳が分からなくなる。私的所有と個人的所有はどう違うか、マルクスの「否定の否定」論法は所有論ではどういう意味を持つのか、生産手段は共有で消費財は私有という理解でまずいのか、共有の中の個人的所有とは何か、個人的占有とは何か、その他部外者には形而上学的な神学論争としか思えない議論が続き、へたに間違うと大やけどを負う。ミイラ取りがミイラになる。密林の中で自分を見失い遭難する。新しい理論にたどり着くには、古い理論の徹底した内在的批判を経なければならない、とも強調されたが、身の安全のため時には素通りするという処世術も必要だ。新しい酒は新しい革袋に入れる、という知恵をこの場合尊ぶ。近づきすぎるとわからないが、遠くから見ていればわかるということもある。何が何だかわからずトラブり何が何だかわからないうちに直るパソコン世界には徹底究明の深入りは避けるという身の処し方が必要なのと同じだ。

産業革命の起こったイギリスでは、15世紀以来2次にわたるエンクロージャーで封建的土地所有関係が崩れ、近代的な土地私有、したがってまた大土地所有と農業資本が台頭する。封建的土地所有の中で農奴の立場は双務的慣習の中でそれなりに安定していたが、これが借地農や自営農などの明確な近代的関係に移行し、返って地主への土地集中が加速する。自営農は農業資本家に移行する者も居たが多くは土地が狭すぎ、大地主に土地を売って窮乏借地農になるか都市に流出していく他なかった。地主は当時拡大しつつあった貿易への投資益で土地を買収・囲い込みし、同様に貿易で高騰する羊毛の生産のため土地を羊の放牧地に変えていった。(例えば田代正一「イギリスにおける土地所有の近代化と地主制の形成」参照。)

アメリカ・東アジア

封建的な伝統がなく、近代化した所有関係が純粋な形で導入されたアメリカで農地所有をはじめ私的所有が拡大したのは当然だった。第二次大戦後は特にカリフォルニアなど西部において、新技術を開発しての起業家経済が活発化した。

「アジア的停滞」や「アジア的生産様式」など曇った社会科学者の認識を越えて、第二次大戦後、東アジア地域の経済発展が急速に進む。この背景にあったのも、「儒教文化圏」の存在よりも、むしろこの地で早くからはぐくまれていた小農経済の私的生産関係だった(拙著「日本近代化における地域ビジネスの役割」)。自分で土地を所有するか借地農かに関わらず、家族労働力のみで独立した農業経営を行なう「小農」が日本を始め東アジアに特異に多いことを宮嶋博史「東アジア小農社会の形成」が明らかにしている(溝口雄三他『アジアから考える6 長期社会変動』東京大学出版会)。農民と連携した中国の「社会主義革命」も、農民への土地配分を革命のエートスに加えなければならず(福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』中央公論社)、革命後にこの約束は反故にされたが、1978年からの改革開放政策の中で、人民公社廃止・「農家生産請負責任制」全面実施という形で私的所有の方向に舵が切られた。(拙著『東アジア帝国システムを探る』第9、10章参照)。

所有は盗みだ・再論

「所有は盗みだ」(プルードン)は完全に正しい。「無主の自然」「共有の森」から何かを取って来ても盗みは盗みだ。法律的規定はともかく、少なくとも自分のものではないのを自分のものにした。そこに自分の労働を加えてもやはり盗みだ。何かを自分で探し捕獲し、消化できるよう料理したとしても、そこに元々あったのは自分のものではなかった。動植物であればその命まで奪っている。無生物だったとしても、例えば石をくだいて矢じりをつくっても、それは彼が無から何かを生み出したのではなく、もともとあった何かを改変しただけだ。何割かは自分のものと言えるかも知れないが全部俺のものだという理屈にはならない。無から何かを生み出す魔法使いだけが純粋に私的所有を主張できる。

所有は盗みだが、しかし、原初的な盗みとは少し違った。人間の許容できる範囲の秩序におさめた盗みを所有といった。

赤ん坊を見よ

生ある者は、生まれると同時に、周囲の環境から資源を取りまくり、排せつ物を垂れ流す。生きるとはそういうことだ。生まれたばかりの赤ん坊を見よ。所かまわず泣き叫び、乳をむさぼり飲み、オムツをしなければ至る所に排泄物を垂れ流す。幸い最初は母乳をむさぼるだけだが、やがては周囲環境からあらゆる必要資源を取り込み成長する。人間を含めた生物は、まわりのものを奪い、多くの場合命まで奪い、成長し、生存維持する。それが生命だ。現世界に生物として出現したからには皆その業に従う。人間はそれを、倫理観に従って許容できる秩序内で行うが、その本質を見失ってはならない。所有は盗みだ。そして生も盗みだ。時に殺傷だ。そこら中から奪い、そこら中に垂れ流す。

太古の昔から原理は同じだった。この利己的な生を、生物は環境と折り合いをつけながら行ってきた。今も同様にするだけだ。利己的であることを否定したり止めるべきなのではなく、その本質を了解した上で、環境との共存をはかる。それが生物としてこの世界に生まれてきた者の存在の仕方だ。

地球環境に滅ぼされる人類

私利私欲で行動する生物は、有性生殖を経て、進化という恐るべき技術を手に入れた。多様に生まれる変異の中から環境に少しでもよく適合した個体が存続し次第に数を増やす。自然の中で自律的にふるまう存在が、次々に自己革新し、どのような能力でも獲得していく。他の大方の生物を絶滅させ、地球環境を大規模に改変もする。32億年前に出現したシアノバクテリアは地球環境に酸素という恐るべき毒素を放出し、それまでの生物を大方根絶した。5億4000万年前に出現した眼をもち固い外皮におおわれたカンブリア爆発期の動物(三葉虫など)は、それまでの柔らかく漂うばかりのエディカカラ生物群を食べつくした。そうした大量絶滅と地球環境の大幅改変で自分自身までも絶滅させた生物が居たかどうかは知らないが、人類という生物がその第一号になる可能性は十分にある。

私利私欲で進化し、地球環境を破壊し大量絶滅を招き、例えば核戦争で自分自身も滅んでいった愚か者がいたとしても、それは地球環境という釈迦にとっては手の内、想定内だ。地球は数十万年にわたり死の世界となるが、数百万年もすれば環境が復活するだろう。数億年で昆虫から進化した新たな知的生命が地上を闊歩しているかも知れない。彼らが、かつて「人新世」末期に滅んだ脊椎動物系文明の地層をどこかで発見してくれるだろう。数百万年は地球史にとっては瞬時だ。自己コントロール能力を失った存在は、地球環境の長大なフィードバック機構で周到に調整される。自然を侮ってはいけない。人間が地球環境を破壊するのではない。おのれ自身が撲滅されようとしている

市場と市民社会の役割

単なる私利私欲と強奪だけでは人類社会は生まれなかったろう。私利私欲を私的所有に変え、強奪でない交換に基づく市場をつくった。さらにそこから「市民社会」が立ち上がり(そう、市民社会は市場から生まれた)、私的所有と市場の自動メカニズムを人間が目的意識的に制御するシステムも築いた。部族、国民国家、法、民主主義諸制度、NPOとNGO、国連など国際統合秩序、等々。すでに古くなったものもあるが、与えられたツールは多様にある。

人類はその時代、その土地で創意工夫をはたらかせ、得られる最も効果的な生産方式で生命を営んだ。それなりに私有と市場の機構を採用し、環境と折り合いをつけて生きた。環境を破壊し絶滅に近い形で滅んだ文明もあったが、長く続いた文明は何らかの形でその内部に生産と環境を調和させる秩序を内包していた。その歴史的諸類型にも学びながら、今日的な課題を市場と市民社会がやり遂げることを目指す。