協力と利他性の進化

市橋伯一『協力と裏切りの生命進化史』によると、生物はそもそも協力することで進化、発展してきた。生物の基本である細胞を見ると、最も原始的なものでも、DNA、RNA、タンパク質、脂質という分子の絶妙な協力で成り立っている。そして、そこから真核生物が進化するが、それも生物間の協力が生み出したものだった。

細胞内で生命同士が協力する

バクテリア、アーキアなどの原始的な原核生物には細胞核がない。何十億年も前の太古の海で、これが細胞核をもった真核生物に進化した。真核生物には動植物も含まれ、我々人間も大きくはこの分類に含まれる。

ある種のバクテリア(の祖先)の細胞内に、別の生命(多くの場合やはりバクテリア)が入り共生をはじめた。好気呼吸を行なうバクテリアが、こうした別生命の細胞内でミトコンドリアという細胞内小器官を形成し、細胞にエネルギーを供給するようになった。シアノバクテリアなど葉緑素をもつ細菌も、他の細胞内に入って光合成を行ない、植物の起源ともなっっていった。ウイルスが細胞核をつくったという説を市橋は取らないが、こうした別生命やウイルスが細胞内共生をすることで真核生物への進化が遂げられた。

細胞間協力で多細胞生物

単細胞真核生物はやがて多細胞真核生物に進化していく。つまり、今度は細胞間の協力が生まれてくる。生殖細胞と体細胞への分化がその出発点となった。市橋は比較的最近多細胞となったボルボックスの例を出している。体細胞の中に入れ子状に生殖細胞が入り、外界から守られている。生殖細胞は、時が来るまで、変異が起こりやすい細胞分裂を控えて大切にDNAを維持し、確実な子孫増殖を可能にした。

細胞はさらに分化と専門化と深める。身を守る外骨格である殻を形成し(例えば昆虫)、大型化と柔軟な運動を可能にする内骨格を形成する生物もあり(脊椎動物)、感覚器や脳を発達させ、ついには個体間の協力、つまり社会性の進化を生み出していく。ライオン、オオカミ、ハダカネズミ、そして霊長類などに顕著な社会性が獲得されていく。昆虫の社会性においても、そこに一定程度の脳の発達があったことを市橋は説明している。

動物の社会性

動物の社会性はどのように生まれたのだろうか。個体が多数集まるだけでは社会はできない。エサをめぐる競争が厳しくなるだけだし、目立つので捕食者にも狙われやすくなる。やはりそこに協力し合う、助け合うという行動がなければ集団をつくるメリットはないだろう。自己生存が最重要なのは変わらないが、集団のために協力する、他を助ける形質もある程度は獲得しなければならない。生物学界ではこれが「利他性の進化論的起源」ということで長らく議論されてきた。

自分を抑えて他者のためになろうという行動は、一見、進化論的には説明不能だ。例えば鳥の群れで捕食者の襲来があったとき、真っ先に警告の鳴き声を発する個体は、群れ全体のためにはなるが、捕食者から狙われやすく命を落とす危険が高まる。あるいは、エサを喜んで他者に与えるような個体も、けなげな行動ではあるが、自分を不利にする。餓死リスクを高める。助けられる「他者」は残るが、自己犠牲する側は残りにくい。進化論的に考えれば、こうした形質が自然選択されていく可能性は低い。なのに、動物でも人間でも、他者のためにつくす利他心がある程度発達してきた。なぜなのか。

群淘汰

単純に考えればある意味これは当然だ。助け合おうとする集団の方が生存の可能性を高めるだろう。「自分さえよければいい」の利己的個体の集まりでは、その個体が短期的には得するとしても、長い目では、群れとしての生存可能性は低くなる。利他性形質をはぐくむ集団が残り、自己中個体ばかりの集団は滅ぶ。そういう進化が起こる。単純にはそう考えられる。「群淘汰」の考え方だ。

しかし、これには「個体淘汰」の立場から強く批判された。そりゃあ、集団のためになると言ったって、そういう奇特なことをする個体自体は犠牲になるのだから、やっぱり利他的形質は淘汰されていくだけだ、と。例えば警告声を発した鳥の個体は捕食者にすぐ食べられてしまい、その遺伝子は残らない。食べ物をあげてしまう個体も残りにくい。群れ全体に効果が及ぶ前にそうし形質は滅びてしまうのだ、と。

個体淘汰

1960年代から、「群淘汰」のジョン・メイナード=スミスらと「個体淘汰」のジョン・ウィリアムズらの激しい論争があった。生物学界を分かつこの大論争は、世代が交代するごとに新しく繰り返されていると嘆きの声も聞かれる。個体淘汰の立場からは、新たに「血縁淘汰」説が出され、群れのために利他性を発揮しているように見える行動も、遺伝的につながった血縁淘汰の理解で説明できるとされた。他方で、群淘汰の方は現在「マルチレベル淘汰」説に精緻化されて継承されているという。

素人にはなぜこんなに対立するのかよくわからない。単純に考えて群淘汰も個体淘汰も結局同じことなんじゃないか、という気がする。一つの過程を別の側面から見ている。もっと総合的に見られないのか、と。

動物は、血縁を認識しているわけではない

確かに、生物は「種のため」「集団のため」を考えて自己犠牲的な利他的行動をとることはない。いや、人間だって「社会のため」「会社のため」などと言いながら本当に純粋にその目的で行動しているかどうかは怪しい。そして自己犠牲的な利他心は遺伝的に継承されにくく、自然選択されないのもその通りだ。

一方で「血縁淘汰」はどうか。確かに、親子や近親者の間で明確な助け合い、時に自己犠牲的な利他的行動があるのは事実だ。そしてそれは血縁を利する行動であるゆえに遺伝子的に継承され、自然選択のプロセスにも乗る。

しかし、それは動物が、遺伝子的に近いことを認識しているからではない。単に生まれたときから近くに住み、慣れ親しんでいるから助けているに過ぎない。だから例えばカッコウは他の鳥の巣に卵を置いて育ててもらうが(偽卵)、その巣をつくった別の鳥は、かえったヒナをよその子とも知らず大切に育てる。あるいは逆に、動物園で生まれた動物の子どもは、誕生時にそばに居た飼育員を親のように思ってなついてしまう。あるいは群れの中で極端な乱交をするチンパンジー社会では、少なくともオスはどれが自分の子どもかわからず、群れ間対立などでは、巣立って別の群れをつくった実の子をも容赦なく殺戮する(ニコラス・ウェイド『人類のやっかいな遺産』晶文社、p.66)。

近くに暮らす個体同士は血縁があることが多い。だから、近くの親しみある個体に利他性を発揮することで、結果的に、血縁的な淘汰が行われる形になっている。動物が群のために利他性を発揮するのでないというなら、同様に、血縁のために利他性を発揮しているのでもない。

個体淘汰が群淘汰になっていく

個体淘汰と群淘汰を画然と分けるのは得策ではない。この二つは互いに結びついている。個体淘汰が様々な回路を通じて群淘汰になっていく過程をこそ究明しなければならないだろう。何よりも「利他性=自己犠牲=子孫を残せない」と単純課してしまうことは危うい。

鳥でも人間でも同じようなことが言えると思うが、集団がのんきにエサをついばんでいるときに、周囲の警戒を怠らず、危機が迫れば迅速に警告を発するような個体は、敏捷で能力の高い個体だ。範を示すように危険の反対方向に真っ先に逃げることにより、群れ全体を救うとともに、何よりも自分自身を真っ先に救っているかも知れない。つまり、生き残り、自然選択される側の個体である可能性が高い。

逆に、危険を察知して警告もせず一人こっそり逃げる鳥が居たとして、それは本当に生存チャンスを広げるのか。逆に、そうした群れを離れて単独行動をする個体が集中的に狙われるかも知れない。動物ドキュメンタリーを見ていても、仕留められる獲物はだいたいそういう個体だ。巨大な群れを成して空を躍動する鳥の集団や、銀鱗のかたまりになる魚群は、むしろ襲いにくくなる。

同様に、エサを分け与えるような個体は、そもそもエサをたくさん取る能力のある個体であるかも知れない。ならば、やはりまわりまわって自然選択される側にまわるだろう。こうした敏捷で能力ある個体は周囲から信頼され、常にまわりに人(鳥)が付き、異性からも評価・選択される可能性が高まる。この回路からも淘汰の中で残りやすくなる。やがて、警告を発し群れを率いるような個体同士が「友人」として強くつながり、群れ内の優勢な集団として現われ、徐々にそれが群れ全体の形質となっていく方向が考えられる。

むろんここで「信頼」「評価」「友人」などは、あくまでも人間社会の用語だ。鳥社会では、能ある個体を信頼したり、評価したり、友人関係をつくるということはない。あくまで自然淘汰でそうした傾向が支配的になるだけだ。警告を発す個体に付いて行かない個体も同数居るが、それは捕食される可能性が高く、長期的には残らない。付いていく形質の方が遺伝的に継承され多数化し、集団全体の傾向を決めていく。

動物では、協力の進化は、こうした自然淘汰(死によって選別される進化)によって駆動される面が強いだろう。しかし、脳が発達すれば、自分がどいう個体に付いていったらよいか、記憶と道理の判断である程度わかるようになってくる。人間の意識的な社会形成に近づいてくる。

(人間の利他性や互いに助け合う習性は、社会の中で後天的に獲得される面が大きいと思われる。自分だけよければいいで生きて来ると結局信頼されず、自分にとっても損になることを、人は長い人生の中で学び生き方を変えていく。協力的になった方が結局得だ、と計算して動いているようでもだめだ。偽善者として拒否される。利他性が徹底し、計算づくでなく、基本的な性格のレベルに落とし込まれる必要があり、人はこうした「人格者」になる修練を課題として課されている。自分の中の利他性が、こうした後天的な過程でつくられたと考えること自体抵抗があるくらいまで多くの人は利他的感情を自分のものにしているのではないか。が、それでもここは敢えて冷徹に分析する必要がある、ということだ。

と同時に、そういは言っても、生得的な利他的感情も一定程度存在することも確認しておかねばならない。社会経験のほとんどない幼児でも、他人の落としもの拾ってあげるなど一定の利他的行動をとることが実験で示されている。この部分は、動物段階で自然選択的に獲得された形質とみることができる。)

生物市場理論

「群淘汰か個体淘汰か」の形而上学的な対立を媒介し、より高次の理解をもたらす視座が「生物市場」(biological market)理論だと思われる。人間の経済に現れる市場関係を生物の世界に敷衍し、その論理から生物社会の動態とその進化を読み取ろうとする理論だ。ロナルド・ノエ(Ronald Noë,)とピーター・ハマースタイン(Peter Hammerstein)の1994年の論文がそれを提起した。

これまで、生物の協力や利他性の説明は、1対1の個体間でのゲーム理論的な分析が主流で、「囚人のディレンマ」の中で個体はどのように「裏切り」に対処し、抑止するのか、「しっぺい返し」のゲーム戦略(相手が協力すれば協力、裏切れば裏切るという戦略)が有効なのではないか、などという議論が中心だった。そこにノエらは、複数個体間のパートナー選択という市場的な仕組みを持ち込んで分析することを考えた。

「生物の協力について、囚人のディレンマのアプローチをとる諸論文の大半は、相手の信頼性確認を中心テーマにしていた。個体は、相手の裏切りをどのように防げるのかが問われた。囚人のディレンマに基づくモデルで裏切り抑止の問題に重点がおかれ、かつそれは2プレーヤー型ゲームの中で検討された。その相手と協力することにした決定については、協力がない場合に比す明らかな有利性から、当然の前提と思われてきた。」とノエらは批判している(p.2)

そして生物市場理論を次のように展開する。

「典型的な市場ゲーム・モデルでは多くのプレーヤーがいる。生物間関係を、独自品目を交換する二取引者クラス間の交易といったものとパラレルで見て、市場パラダイムの検討を進める。双方が、互いの商品の交換価値について合意すれば交渉が成立する。交換価値は需要と供給の法則に支配され、それは時間の経過とともに、あるいは世代間、集団間でも異なってくる。多くの場合、交換価値は、互いのクラス成員の相対的な数で直接に決まる。しかし、個々のクラスは単一ではなく、同一の商品を提供する複数の種が含まれていることもある。非生物的な資源が一定の役割を果たすことさえある。」

要するに生物たちも、市場社会に生きる人間と同じように、相手の持っている産物・商品がどれくらい価値があるか、自分の持っている産物・商品でそれと交換できるか、値踏みしている。他にもっといい交換相手がいないかも見極め判断する。むろん、動物の場合には、人間ほど頭で考えてそれらを決めるのではない。自然選択で、最良の組み合わせが選ばれてそのような協力関係に入る度合いが高い。しかしそこには市場の原型とも言える比較と選択の契機が組み込まれている、ということだ。

市場が発生する基礎は、専門化と分業だ。個々の生産者がそれぞれ得意とする専門で生産物をつくる。だからこそそれが交換で互いを補い合い価値をもたらす。しかし、生物界の専門化と分業は、人間界の比ではない。何しろDNAまで異ならせて身体や行動を変え、多様な環境に多様なやり方で生息し、独自産物をつくっている。それが交換されることのメリットは非常に大きい。

裏切りをコントロールする方法

協力と利他性の起源を考察する生物学者は常に「裏切り」(cheating)の問題に頭を悩ませてきた。多くが協力していても、その協力関係にタダ乗りして(free-riding)、必要な交換物を渡さずに利益だけを享受する輩が現れる。彼らは利益を得て子孫も残せるから徐々に増え、集団の中で利他性形質を駆逐していく可能性がある。利他性進化のために、こうした裏切りの抑止がどのように行われたのかが問題になる。そこで1対1のゲーム理論が検討され、「囚人のジレンマ」に対抗してしっぺい返し戦略云々の議論がなされた。しかし、自然界にこうした1対1のゲーム理論で説明されるような実証的な事例はあまりなかったようだ。最近の論文でノエらは次のように振り返っている。

トリバーズらの[利他性の起源に関する]画期的な論文」以来半世紀近くたつが、繰り返しゲームによる協力の進化がが限定的にでも重要性をもつ事例はほとんどなかったと思われる。…[こうした理論への]実証的支持が弱い中で、人間から類人猿、鳥、魚などに至る生物、あるいは種間互恵関係の研究の中で、パートナー選択、パートナー代替、とりわけ生物市場理論(BMT)が一貫して進展してきた。」(p.2)

選択肢があることは素晴らしいことだ。相手が約束を果たさないなら相手を代えるだけだ。そうした選択肢があるというプレッシャーだけで相手の裏切りを抑止できる。ノエらはこれを、「パートナー・コントロール・モデル」と「パートナー選択モデル」とも言い換えている。1対1モデルで裏切りを防ごうと相手の「コントロール」をいろいろ苦慮するよりも、パートナーを代える「選択」で影響力を行使する。自然界ではこうした多プレーヤー・モデルが実際に機能している事例が多くみられる。

「これまでの2プレーヤーのモデルでは、相互協力の唯一の代替はまったく協力しなくなることだけだ。しかし、多プレーヤー・モデルでは、代わりに向かうべき他のプレーヤーが居る。この追加選択枝が、関係を破棄することのコスト、破棄可能性があることのインパクトを変化させる。」(“Biological Markets,” p.337)

人間の市場でも同じことだろう。誠実な取引きをしない相手をがみがみ批判したり法的手段をとったりするのは時間的精神的金銭的コストがかかり大変だ。ただただ速やかに逃げて、相手を代えればいい。それだけでその裏切り者は罰せられる。コストもかからないし効果も大きい。生物界もそれと同じ市場的原理で制御されている。

生物市場の事例

ノエらは様々な例を出して生物市場の実際を検証している。例えば多くの昆虫で、自身の体内で生産する甘密をアリに提供する例が知られる(1994年論文、pp.7-8)。集まったアリは蜜を得る代わりに、当該昆虫を天敵から守る役割を果たす。アリは、自然界に広く存在する成功した昆虫で、かつ肉食のどう猛さをもつ。様々な昆虫が、これを引き寄せることで天敵(別の昆虫)を遠ざける共生関係に入っている。甘密を提供する昆虫は需要と供給に応じてその量を調整する。アリが少なければ多く出して引き寄せ、増えれば適当なところで減らす。アリの巣が遠いか近いか、あるいはアリを引き寄せる同種個体間の競争、他種との競争によっても、提供する密の量を変える。アリにしても、その昆虫を食べてしまうこともできるが、長期的に甘密を提供するメリットが大きければ食べずに継続的な提供を受ける。幼虫のうち密を出す昆虫が、それを出さない成虫に変わったとたんに食べられることもあるという。昆虫が密の存在を宣伝するような機構もあり、アリは、例えば同翅類などに対して、その生態をも変えて1カ所に固まらせ、「市場」を優位にもっていくこともあるという。(この辺はアリとアブラムシの関係についてさらに詳細に論じた片山論文でよりよく理解できた。)

言われてみれば、当然のことかも知れない。生物間には異なる種間の共生が多様に存在する。直接の共生と認められなくても、エコロジー的な自然界のつながりによって生物は互いに緊密な関係の中で生きている。そしてその協力関係が成立する背景には、生物間の取り引き、協力相手の選択、需給関係に応じた対応など市場的な契機が介在している。人間界と生物界を同一の論理で貫く分析視覚にノエらの洞察力をみる。

利他的行動、実は自分のためだった

これまで生物の利他的行動の代表のように例示されてきた鳥の警告行動。集団の中で、捕食者の接近に気づいた個体がいちはやく激しい警告声を発すれば、集団全体を守ることになるが、警告声を発した個体は目立ち、真っ先に捕食者にとらえられてしまう。生物はどのようにこうした「自己犠牲的」利他行動を発達させてきたのか、と。

だが、実はこの「自己犠牲」行動は自らを守るためのものだった、という研究が出た。イスラエルの自然保護区で28年間にわたりアラビア・チメドリの生態を観察してきた研究者たちによると、警告声は、何よりも捕食者に対して「俺はお前に気づいたぞ」というメッセージになるという。捕食者は、気づいた鳥よりも、気づかずエサをついばんでいる鳥をこそ襲撃する。その方が成功率が高いからだ。そこで「自己犠牲」的に警告声を発する個体は、実は、自身への襲撃を断念させるためにそうした声を発するのだ、というわけだ。その証拠に、集団からはずれ単独で行動している鳥でも、捕食者が来た場合は同様の警告声を発して逃げる。一旦逃げ始めた集団でも、全ての個体が同様の「警告」声を発している。

利他的行動が実は自己利益的な行動。これは重要なことだ。利他的行動の中で実際に機能する利己的契機を冷静に分析する必要がある。

共生関係では、例えば昆虫が密をアリに提供する「利他的」行動によって、天敵から自分を守る自己利益を得ている。この場合、間接的に自分のためになるわけだが、鳥の警告声の場合は、それが直接に自己利益のための行動だというわけだ。一見してわからないが、実は自分のための行動だったという「利他的」行動は意外に多いだろう。人間の利他的行動でも、そうした要素は確実にある。利他性を何か倫理的・理念的に美しい特別の行動と見るのでなく、そこに作動する自己利益のメカニズムを冷静に分析する必要がある。

研究者たちは、警告声が何よりも自分のためなのだが、なお、集団全体に危険を知らせる信号の役割も果たし続けていることも否定していない。ミーアキャット(マングース科の肉食小獣)の研究で、集団内に子どもが居る場合は、こうした警告声の頻度が高くなるという結果が出たことを上記記事は紹介している。

つまり、相互利益なのだ。自分のためでもあり他のためでもある。おそらく人間は考えてこうした適正解を見出し実行するかもしれない。しかし、自然選択によって駆られる動物たちはそうではなく、自然淘汰でたどりつく。何よりも自分を守るための行動であるが、それが集団のためにもなれば自然選択されていく可能性がより高くなる。自分がよくても集団にダメージを与えるような行動・形質は残らないし、長期的にはその集団もろとも滅びる。少なくとも、自分にも集団にもいい行動・形質の淘汰的優位性にはかなわない。

市場というのは、自己利益を相手の利益と擦り合わせ、合致したときに交換・協力が起こるシステムだ。それによって「最大多数の最大幸福」が生まれる。人々の間の利益が総体として最大になる。このシステムに従わない盗みや殺し合いでは、一部の者の短期的利益しか得られないし、結局皆が損する結末を迎える。生物界でも市場的な機作が働き、チェック&バランスの相互連関の果てに、各人、各集団、各種の間に利益が最大になるような共生・協力関係への進化がかちとられる。生物市場理論は、そのような形で協力と利他性の起源、そして社会性の進化を説明できるのではないか。