古い街並みの活力
フロリダは、論を展開するにあたって多様な研究の成果を参照する態度を貫いている。例えば、拡散した郊外より、人々の密集する都市の方がクリエイティビティと経済成長を高めるという論を、ブライアン・クヌーセン、ドラ・コスタ、マシュー・ハーン、ウィリアム・ホワイト他の研究を援用して説明している(p.67)。その中に、「都市はイノベーションの重要な培養装置」ととらえていたとするジェーン・ジェイコブズ(1916年 – 2006年)も出てくる。都市社会学者のフロリダは、都市論や都市問題の分析で重要な遺産を残したジェイコブズを多くの個所で援用しており、強く影響を受けたことが推察される。
ジェイン・ジェイコブズは1930年代から60年代にかけてニューヨークのグリニッジビレッジに住み、そこでの、古いが人間的な都市生活の在り方から、当時全米で進行したコミュニティ破壊型の再開発と都市計画を批判した。自身、グリニッジビレッジをなぎ倒す高速道路建設など地元再開発に反対する運動の先頭に立った。The Death and Life of Great American Cities (1961年、邦訳:『アメリカ大都市の死と生』黒川紀章訳、1969年)を初め多くの著作を残し、主流派都市計画の対極に位置する都市論を展開した。
ジェイコブズこそ、アカデミズムに吸収されない在野インテレクチュアルの代表的存在だった。何しろ大学にも行っておらず、都市計画の専門教育は受けてないのだ。当初は「家庭の主婦が文句を言っている」程度にとらえられたが、主張の各所に当時の主流派都市計画専門家たちの発想を鋭く突く指摘があり、今日では専門家を含む多くの人が彼女の言に耳を傾け、参照していることを、この分野に首を突っ込めば気づくだろう。彼女に影響を受けたノーベル経済学賞受賞者(後述するロバート・ルーカス)から、ジェイコブズこそ同賞を受けるべきだとまで言わしめるまでになる(リチャード・フロリダ『クリエイティブ資本論』p.285)。
確かに体系的に学問的な形で書いてあるのではないのである意味では読みにくい。コミュニティで暮らす一人の市民として、都市の何が重要なのかを体験的に思考し、語っている。大学で立派な都市計画理論を学んだプロたちは、貧しい近隣地区を片端から取り壊し、新しい立派な建築で街区を整理すれば問題はすべて解決、という発想からなかなか抜けられない。しかし、それによって失われるコミュニティのつながりが実は重要であって、現在の再開発は都市の活力をそぎ、結果的には犯罪も増やしているとする。とにかく外見を物理的に改変するという上から目線、ハードウェア中心の見方と異なる住民の都市論的視覚をもたらす思想家として評価されているだろう。都市内部での大規模開発と巨大建築、自動車依存による郊外へのスプロール化。一戸建て小ぎれいな住宅が延々と続き、そこから車で都心の仕事に通い、広大な駐車場に囲まれたショッピングセンターで買い物をする。そうした都市構造に対抗して、現在、コンパクトシティやスマートシティの在り方が模索されるようになったが、そこにジェイコブズらの遺産が確実に脈打っているだろう。
古い建物から新しいアイデアが
彼女の論は例えば次のように進む。
「都市は古い建物の必要を痛切に感じている。これがなくては活気にあふれた通りや地区が育つのは、まあ不可能であろう。古い建物といっても私のいうのは博物館にでも陳列されそうな古いものや復元するのに並々ならない頭と金を必要とするような状態の古い建物ではなくて ―こういったものも立派な構成要素になることはなるが― いくらかは荒れかけた古い建物もあろうが、質素でごくあたりまえな、あまり高価な価値があるとはいえない古い建物のことなのである。」(p.212)
「チェーン・ストア、チェーン式のレストランとか銀行は新しく建設される。しかし、近所のバー、外国料理を食べさせる店、質屋などはだんだん古い建物になってゆく。スーパー・マーケットや靴屋はしばしば新しい建物になってゆくが、本屋や骨董品屋はそうなることはまずない。十分助成金をもらっているオペラ劇場や美術館は大てい新しい建物になってゆく。しかしきちんと組織化されていない芸術家を育てるさまざまな機関 ―たとえばスタジオ、画廊、楽器店、画材店、あるいは彼らのとりまき連中の集まる場所(ここでは一個の椅子、一個のテーブルから得られる利益の少ないことといったらお話にならない)― こういったものはどんどん古い建物になってゆく。」(『アメリカ大都市の死と生』pp.212-213)
そしてその後に続く次の個所が私の気に入っているところなので、私自身の訳で紹介させて頂く(以下同様)。
「さらに重要なのは多数存在する商店などありふれた事業体だ。これらは街路と近隣社会の安全と公共生活に不可欠で、利便性や個人的つながりという面からも貴重だ。こうした小ビジネスは、古い建物の中で順調にやっていけるが、新しい建物を建てるのは費用がかかってできない。あらゆる形の本当に新しいアイデアは、それが最終的にいかに利益を生み各種成功を収めるものであっても、費用面から新しく建物を建てるような危うい試みは行えず、失敗、実験をする余裕はない。古いアイデアは新しい建物も使えるが、新しいアイデアは古い建物を使わなければならない。」
新しいアイデアは古い建物から、というこの逆説が素晴らしい。もちろんここは、新しいアイデアを試みる人は通常、資金がないので古い建物を使う他ないという、単純な経済事情を語っているようでもあるが、彼女の都市論の全体像の中でこの言葉を聞くと、より普遍的な都市論を敷衍するインスピレーションがある。多様性にあふれた都市空間が新しい価値を生み出すという都市のダイナミズムが示されている。
こんなインスピレーションをその他いろんなところで示してくれる。「テレビや違法薬物でなく、自動車が、アメリカのコミュニティの主な破壊者だった」「都市は、だれに対しても何かをもたらす潜在力をもっている。なぜならそれが皆によってつくられからであり、皆によってつくられるときだけにそうなる。」「都市は、通常なら旅によってしか得られないものを提供する。多くの知らない物・人々(the strange)との遭遇だ。」「都市は密度が高くなった郊外ではない。それは小さな町や郊外と根本的に異なる。その一つとして、都市はその定義上、知らない人に満ちている。」「教育、でなく、学位を与えることが北米の大学の主要な仕事になっている。」などなど。
都市の本質
ジェイコブズ都市論の根幹にあるのは、下記のような叙述で示される都市生活の観点だ。
「古い都市の一見無秩序に見える状態 ー古い都市はいくらうまくいっていてもそう言われる― は優れた秩序であり、これが街路の安全および都市の自由を確保している。これは複雑な秩序だ。その中心的な要素は歩道利用の巧みな複雑さであり、これに沿って地域を見つめる人の目が絶え間なく持続される。そしてこの秩序は動きと変化から成る。それは生活であって芸術ではないが、仮想的にこれを都市の芸術形態と呼べるし、ダンスにたとえることもできる。皆がいっせいに足を上げ、回転し、頭を下げるようなきちんとしたダンスではない。個々のダンサーとその集団がすべて独自に役割を担いながら、奇跡のように互いを生かし合い、秩序ある全体をつくりだす複雑なバレエだ。良質な都市の歩道で展開するバレエは、場所から場所へ同じダンスを繰り返したりしない。どの場所にも常に新たな即興が満ちている。」(同上書、pp.62-63)
ジェイコブズはこの個所の後で、日常的な都市生活の例を様々に出す。朝ゴミ出しに外に出ると、通学の高校生に会う、クリーニング屋のだれさんはカギを外して地下室の作業場に向かい、食料品店のだれさんは…、床屋さんの誰さんは…と続けていく。そうした都市コミュニティーの何気ない日常生活が交じり合い、成熟した空間がつくりだされると言う。皆勝手に動いていて無秩序にしか見えないが、実はその無秩序の中に秩序がある。こうした街路(Street)の活力を軸にまわる街が豊かな都市生活をつくり、犯罪も抑止する。何につけて彼女はこの原点に返り、頭上から建築物群を乱暴に組み替えるだけの専門家たちの「疑似科学」を批判し、都市の本質に迫るのだ。
「ジェイコブズの外部性」
ジェイコブズの1969年の著書Economy of Cities(邦訳『都市の原理』)などをもとに、彼女の都市・経済論は「ジェイコブズの外部性」 (Jacobs’ externalities)、「ジェイコブズのスピルオーバー」などと定式化されることになった。実に的を得た表現でわかりやすい。(「的を得た」は誤用とされるが、最近は「的を射る」より広く使われるようになったというー>Wordスペルチェック殿)
環境汚染など経済活動が市場外にコストを生むことは「負の外部性」として分析されるが、意図せず外部から便益を受けてしまうことを「正の外部性」という。企業など経済主体も都市という複雑生態系の中で正の外部性を与えられ発展している。ジェイコブズは、まさにそのように主張しており、「ジェイコブズの外部性」は見事な要約だ。
正直のところ彼女の議論は多様な事象を多方面から叙述し、しかも文才がありすぎて何を言いたいのかわからなくなるところがある(翻訳も苦労したであろう)が、都市による外部性の効果、都市生態系からスピルオーバーのことを言っているのだとまとめてもらうとよくわかる。
不勉強にして確信はないが、ジェイコブズ自身は著書の中で都市がもつ効果について「外部性」という言葉は使ってないと思う。だれが最初にこのような簡潔なくくりをしてくれたのかも不確かだが、グレーザーの1991年論文Growth of Citiesあたりではないかと思われる。ここでグレーザーは、特定産業に特化した都市が経済成長を生み出すとしたアルフレッド・マーシャル(1842年 – 1924年)以降の論客たちの名前をとった「Marshall-Arrow-Romer(MAR)の外部性」に対し、多様な産業を含む都市が成長を生み出すとした「ジェイコブズの外部性」を対置している。この2つは以後、「特化(specialization)説と多様化(diversification)説」「産業内(intra-industrial)外部性と産業間(inter-industrial)外部性」などとも言われている。
ジェイコブズはEconomy of Citiesの中で例えば、デトロイトの産業史を見ると、当初は製粉業を中心に機械工業、造船業、その後銅精錬業、さらに多様な日用品製造など複合的な産業構造があって、その中でガソリンエンジンをつくっていた造船関連企業が、以後デトロイトの花形産業となる自動車産業を生み出す母体となった、しかし街が自動車産業のみに特化してしまい次の時代の没落を招いた、といったような分析をしている。あるいは、英マンチェスターは1840年代に大規模工場による綿織物生産で栄えたがインドの綿工業に敗れると代替がなく没落した、バーミンガムは対照的に雑多な小規模産業があり、現在に至るまで活力を維持している、など。(これらジェイコブズの都市成長論は日本語では細谷裕二「ジェイコブズの都市論」によくまとめられている。)
「ジェイコブズの外部性」は核心を突いた言葉だが、経済的成長に狭く解釈されるきらいもある。つまり、多様な産業が同居しているので、その一部から、新しい環境に対応した次世代産業が生まれることが可能になる、といったような。しかし、彼女の理論の全体像を見れば、都市のマジックは単に産業分野のみに限られず、文化、社会を含んだ多方面の都市全体が関わり、その多様な全体が活性化されるから、その一部としての産業も活力を得る、という一回り大きな論理枠組みが存在していることを確認できる。
例えば商業店舗を問題にする場合も、都市計画家はこれを経済活動をする商業施設としか見ないが(商業施設ならスーパーマーケットの方がすっきりする、経済合理性がある、と考える)、ジェイコブズはそれを都市の社会的機能の全体から見る。
「店舗はそれ自体が社会的な施設です。特にバー、お菓子屋さん、軽食レストランがそうです。/店舗はまた店「先」の空間を提供します。そういった店先はありとあらゆる教会、クラブ、社会的啓発活動に場を提供します。それらの店先での活動は大変な価値があります。店先は人々が自らつくりだす公共施設なのです。時にそれが有名になることもあります。都市を本当に光り輝かせるものの多くはこの道のりをたどります。全体として小規模で、奮闘している活動のほうが重要だったりします。」(『ジェイン・ジェイコブズ都市論集』宮崎洋司訳、p.61)
こうした都市生活全体から経済も見る視点からは、フロリダのように社会、文化、芸術、さらに「ボヘミアン」まで含めたクリエイティブ環境を問題にして、そこから経済を考える理論こそ、ジェイコブズの都市・経済論をよく受け継いでいると思われる。