都市とは(5) アメリカにおける「郊外」の拡大

「郊外型」として始まったシリコンバレー

歴史家のジェイソン・ヘプラーは、シリコンバレー黎明期の一シーンを次のように描き出す。

「1956年のレーバーデイ[訳注:9月の第1月曜日の祭日、この年は9月3日]、トラックの一団が、サンフランシスコの南、サンタクララ郡に向かっていた。荷台には600家族の荷物、そしてロッキード社ミサイル宇宙研究所の機器類が積まれていた。1カ月後、ロッキードのサニーベイル・キャンパスが操業を開始した。やってきた家族の多くは、南カリフォルニア・バーバンクの同社施設からサニーベイルに移動して来た。/彼らをここに引き寄せたのは、成長し始めたエレクトロニクスの研究開発事業、コンピュータ機器などのための半導体等電子部品製造などの良質な雇用だった。移住者にとって、安価な住宅、牧歌的な景観、快適な環境は非常に魅力的なものだった。地元の開発推進者、企業リーダー、そして新しい住人たちも同様に、米北東部・中西部の斜陽化し汚染された都市工業モデルと異なるモダンな未来を夢見ていた。/この種の仕事と製造過程では、煙突、巨大倉庫、その他工業時代の象徴物は必要とされなかった。北カリフォルニアを明るい未来経済に導くサンタクララ・バレーの約束は、たちどころにこの地に「シリコンバレー」のニックネームをもたらすこととなった。」(Jason A. Heppler, “How Silicon Valley industry polluted the sylvan California dream,” the Conversation, November 16, 2017)

シリコンバレーの基礎になったのはスタンフォード大学の技術開発と、国防省などから流れた潤沢な研究資金だったと言われる。1933年に、現シリコンバレーの中心に位置するサニーベイル市地域にモフェット・フィールド海軍飛行場が建設され、その周辺にロッキード初め高度技術軍需企業の集積が進んだ。世界最大の軍事技術企業ロッキードは、1950年代~1980年代までシリコンバレー最多の従業員を擁していた。そこにリクルートされる技術者たちに、「クリーンな郊外型のハイテク産業」のイメージが提示されいたことをヘプラーの叙述はよく示している。

シリコンバレーの基礎の一つとなったモフェット・フィールド海軍飛行場(1933年設置)。冷戦後の1994年に米航空宇宙局(NASA)に移管され、モフェット・フェデラル飛行場、及びNASAエイメス研究センターとして使われている。写真は 1983年当時、西から東を望む(The U.S. National Archives, Public Domain)。滑走路と格納庫の向こう側にロッキードの諸施設。写真枠外の左手にスタンフォード大学、右手にサンノゼ市中心部などがある。

ヘプラーはこの後、バレーのクリーンなイメージにも関わらず、トリクロロエチレンなどIC洗浄用塩素系溶剤による地下水汚染など、この地がハイテク汚染地域に変わっていく歴史を詳述していくのだが、私たちはここでシリコンバレーの「郊外型」ハイテク工業地域としての出発を確認するにとどめる。

アメリカの典型的な郊外住宅地。コロラド・スプリング市。似たような庭付き一戸建て住宅が並ぶ。高速道路から道路が伸び、どの家も車道に面している。行き止まりになる道路が多く、地域を通って先に行くことが難しい。写真:David Shankbone, (CC BY-SA 3.0), Wikimedia Commons

アメリカ郊外住宅地がつくられてくる過程を解説する動画。不動産開発業者・建築家ウィリアム・レビットの果たした役割が大きい。

大量生産・消費社会のサバービア

アメリカに来たばかりの頃、図書館で、太平洋戦争時の新聞マクロフィルムを見て驚いたことがある。広告欄にコカ・コーラの宣伝があり、豊かそうな家庭で明るい笑顔でコーラを手にする人々が活写されていた。戦中と言えば、日本はハチマキ締めて竹やり訓練をし「欲しがりません勝つまでは」と叫んでいた時代だ。しかしその時、アメリカ側には戦後日本の高度経済成長期と変わらない豊かな生活があった。これじゃ戦争負けるわけだ、と思った。

「三種の神器」など家電の普及で湧いた日本の1960年・70年代高度成長時代。アメリカでそれは1920年代に起こっていた。フォードがベルトコンベアの自動車大量生産を開始したのが1913年。1930年にはすでに全米世帯の55%が自動車を保有していた。1920年代は「耐久消費財革命」(consumer durables revolution)があったとされ、ラジオ、蓄音機、電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機などが急速に普及した。1930年のフォード従業員100世帯対象の調査では自動車を保有していたのが47、ラジオ36、ミシン5、電気掃除機19、電気洗濯機49、アイロン98世帯だった(石川和男「合衆国における耐久消費財の普及と背景」)。

日本もアメリカに40年遅れ、第二次大戦後にこうした大量生産・大量消費を経験する。しかし、全世界を席巻したこの20世紀消費革命の中で、日本が明確には経験しなかった分野がある。サバービア(郊外住宅域)の拡大だ。いや、日本でも、高度経済成長時代、大量の人々が地方から都市に流入し、それが家庭を持つに従い郊外地域が拡大した。1960年に560万人だった郊外人口は70年1,068万人、80年1,449万人、90年1,688万人と増えている(内閣府「郊外化とその後の都市回帰」)。しかし、国ごとに都市構造、郊外の定義が異なるので厳密な比較は難しい。日本では郊外といっても団地やマンションなど集合住宅が多く、また自家用車より鉄道などでの通勤が主流であることから、アメリカ型の車交通を基礎にした一戸建て住宅型の郊外化は、明確には起こらなかったように見える。根底には人口密度の違い、土地の狭小さも関係している。

アメリカでは、1880年に28%だった都市人口が1920年には50%を超えた(上記石川論文、p.23。基準が違うので単純比較できないが、この年の日本の「市区」人口は20.8%)。19世紀末には、郊外鉄道の普及にともない富裕層が郊外に出る動きがはじまっていた。1920年に全米家庭の約半数が持ち家となり、1922年から29年にかけて年平均88.7万戸が建設されている(同上、p.24)。しかしこれは、1929年の大恐慌、第二次世界大戦という時代変化の中で押しとどめられた。これが再燃しさらに本格化するのは、戦後、大量の若者が戦地から戻り、空前のベビーブームが始まった1940年代後半からだ。アメリカでも、住宅分野での本格的大量消費社会は家電分野に数十年遅れて出現したことになる。

1945年段階で、戦地から帰った若者などのための住宅が全米で500万軒不足していた。1947年になっても除隊者の三分の一が親戚家族、友人の家での同居を余儀なくされていた(以下、主にBecky Nicolaides, “Suburbanization in the United States after 1945“参照)。こうした中、1944年GI法で退役軍人局(VA)の各種プログラムが強化され、ニューディール政策で設置されていた連邦住宅局(FHA)が住宅建設を強力に支援することとなった。本格的な郊外住宅地の建設がはじまる。

「加熱する需要と連邦政府からの新たな支援策に対応し、一群の建設・不動企業が住宅の大量生産に向けて住宅建築を近代化していく。新世代建設業者たちは若く大胆でクリエイティブだった。多くは移民の第二世代だった。ロサンゼルスのフリッツ・バーンなど戦前の業者が開拓し戦時大規模建設事業で洗練された技術を用い、事業者たちは住宅建築を効率化した。資材と間取り設計を標準化し、ドアや窓の別途量産を行ない、熟練組織労働者の必要を最小化するため工程の分割化をはかった。建設の規模は拡大した。戦前の「大規模」建設会社が年25件の家を建てたのに対し、1940年代末までに大規模業者は年数百軒を建てるようになった。年間の住宅建設着工は、1944年の14万2000件から1950年代の150万件に増えた。」(上記ニコレイズ論文

郊外住宅地大量生産の先陣を切ったのは、不動産会社Levitt & Sonsを父から受け継いだウィリアム・レビット(1907年- 1994年)だった。海軍で大量生産建設方式に熟達した彼は1949年に、ニューヨーク州ロングアイランドにレビットタウンを建設。1万7000戸が入る同ニュータウンが戦後アメリカの一戸建て住宅「サバービア」の先駆けとなった。Levitt & Sonsはその後も各地で大規模開発を進める。1950年代半ばまでには米最大の建設業者になり、年間2000戸以上の住宅をつくるようになる(上記ニコレイズ論文)。

初代レビットタウンは量産方式で、10年たたない間にジャガイモ畑を人口8万人の郊外都市に変えた。どの家も同じ間取りで、夜帰った住民は間違って別の家に入ってしまうような出来事もあったという。量産効果で住宅価格は7000ドルに抑えられ、住宅ローンは月29ドルだった。ニューヨーク都市部でのアパート家賃が月90ドルだった時代だ(Khan Academy, “US history: the growth of suburbia“)。

郊外住宅地は、アメリカンドリームそのもののクリーンで健康なイメージで売り出された。上記論文でニコレイズは言う。

「郊外は戦後『アメリカン・ドリーム』の実現を意味していた。健全な家族と親しみある隣人に包まれた暖かく幸福な場所であり、家電その他最新の製品にあふれた家での心地よい暮らしだった。雑誌やTVコマーシャル、不動産開発業者らがこうしたイメージを飽きることなく振りまき、サバービアで繁栄する満ち足りた白人家庭を描いた。連携した売り込みが熱を帯びる。不動産業者は家そのものを売り、住宅関連雑誌は郊外の暮らしについての記事を掲載し、その傍らには電気冷蔵庫、ガス調理台、テレビ、掃除機など家庭用品の鮮烈な広告が躍る。明るくモダンな郊外住宅の内装を背景に家庭生活を楽しむ人々が居る。」

表1 米都市圏の人口推移 郊外域の割合など、1940年–2010年

    (単位:1000人)
米人口 都市圏人口(市部+郊外) 米人口に対する割合 郊外人口 米人口に対する割合
1940 131,669 60,293 45.8% 17,666 13.4%
1970 203,302 139,500 68.6% 75,500 37.1%
2010 308,746 258,318 83.7% 157,575 51.0%

出典:Becky Nicolaides, “Suburbanization in the United States after 1945“. データ・ソース:U.S. Census Bureau, 2010 Census, Summary File 1, American FactFinder; U.S. Bureau of the Census, Census of Population: 1970, vol. I, Characteristics of the Population, pt. 1, U.S. Summary, section 1 (Washington: Government Printing Office, 1973), 258.

自動車社会

当然ながらこうした郊外住宅地サバービアは、広く普及した自家用車による交通を基礎としていた。自動車登録は1945年の5.2人に1台から1964年の2.7人に1台にまで上昇。車交通が鉄道では支え切れない広大な地域へのアクセスを可能にした。1956年連邦高速道路法により、全長4万1000マイル(6万6000キロメートル、地球1周半)に及ぶ全米州際高速道路網(Interstate Highway System)の建設が急ピッチで進む。公式に計画完了が発表された1992年までに総額1140憶ドル(2019年ドル換算5300億ドル)が投入され、米国の車社会化と郊外化を後押しした。発展するサバービアに大規模なショッピングセンターがつくられ、さらに企業も立地してくるようになる。経済の中心も大規模に郊外に移る。シリコンバレーもこうした時代背景の中でつくられていった。上記論文でニコレイズはミュラーを援用して次のように言う。

「1945年からはじまったサバービアの経済的発展は、1970年以降、成熟期に入る。1976年の重要な研究で、地理学者ピーター・ミュラーは、市外都市(outer city)の台頭を詳述した。巨大都市圏のハイウェイが交差する周辺に商業中心地区、オフィス団地、広域ショッピングモール、企業本社が集積するようになったことを表す彼の用語がこのアウターシティだ。ミュラーは、『サバービア』はすでに『現代アメリカ都市の本質』であって『アーブ』(都市)の『サブ』(副)ではなくなった、と結論付けている。1970年代初期までに郊外地域の雇用が初めて市部の雇用を上回り、郊外の『エッジ・シティ』が国の経済の中枢を占めるようになった。ワシントンDCのベルトウェイ、イリノイ州ショームバーグ、ボストンのルート128沿線、シアトルのレドモンド、ベレレビューなどのハイテク郊外、そしてカリフォルニアのシリコンバレーなどが台頭した。」(上記ニコレイズ論文