侵略に非軍事的にたたかう課題

ロシアのウクライナ侵攻がはじまって無力感にさいなまれている人が多いだろう。私もそうだ。

私の場合、ここ1年程の執筆活動の仕上げとして電子本を出版したちょうどその日にウクライナ侵攻がはじまった。苦労して書いた2冊(『サンフランシスコ圏:「郊外型」から「都市型」シリコンバレーへ』と『自転車で行くSFベイエリア』)を大々的に売り込もうと宣伝文も用意していたが、原稿(書籍ファイル)をアマゾン(KDP)にアップロードしたのとほぼ同時に、ロシアがウクライナに攻め込んだ。街づくり、都市経済、起業家精神、自転車走行促進、などを懸命に書いてきたが、それがいっぺんに色あせた。宣伝する気がなくなった。

すべて平和だからできること、考えられることだ。まかり間違えば核を含む大規模な戦争に発展しかねない状況を前にして、無力感に陥った。私は何をしているのか、こんなことを書いている時か…。かといって私にはウクライナ情勢を分析する力もないし、軍事評論も書けない。何ができるのか…。わかってはいる。平和だからできることを私たちは続けるべきだし、だからこそ全力で平和を守ろうとするのだ、と。しかし…

国際政治の冷酷な現実

国際政治・軍事の冷酷な現実を思い知らされた。核をもった強大国があからさまに侵略行為を行なっても、人類社会は有効な手を打てない。言葉では激しくロシアを非難しても、実際に戦うのは弱小のウクライナ軍とウクライナ市民だ。申し訳ないしもどかしい。人々を殺害し徐々に首都に迫る軍隊を、外から見るばかりだ。

イラクがクエートに侵攻したとき(1990年)は、5か月後にアメリカを中心とした多国籍軍がクエートどころか、イラク本国に攻め込んでいる(湾岸戦争)。今回の侵略で言えば、当事国ロシアに軍を進めるようなものだ。やはり、相手が核をもった軍事大国であれば、そういう対応はできない、やらない。結局は軍事力で国際紛争での対応が決まるという冷酷な現実を認めざるを得ない。だから北朝鮮も核を持ちたがるのだろう。

ウクライナの人々は限られた武器で、本当にヒロイックにたたかっている。何もできないこちら側としてはまったく申し訳ない。そして軍事的な抵抗が強いほど、侵略国内部も含めて反戦の気分が高まるのも国際政治の冷徹な現実だ。これが簡単に制圧されているなら、一時の非難はあるものの、すぐに既成事実化した現実への対応に変わっていくだろう。1960年代に米国内でベトナム反戦運動が高まったのは、ベトナム民衆の屈強な抵抗があって米国内も苦しんだからでもある。ウクライナの人々の犠牲を顧みない抵抗が全世界での、そしてロシア内での反戦活動を高めている。

むろん、アメリカやNATO軍がウクライナに行ってロシア軍と戦わないのは正しい選択だ。そんなことをすれば大国間の核戦争に拡大する可能性がある。あくまでもウクライナ国民とウクライナ軍に戦ってもらうというのは冷酷だが止むを得ない判断だ。その代わり欧米諸国は武器援助はする。特に兵士が担いで持ち運びできるジャベリン対戦車誘導ミサイルは現在でも有効なはたらきをしているようで、アメリカはこれを継続供与しているとみられる。ドイツやスエーデンなど長年の禁を破り武器援助を始めた西欧諸国も多い。

私は一般的には武器援助には反対だ。しかし、このようなあからさまな侵略に対して、人が運べる短距離射程の極めて防御的な武器(ジャベリン)を供与することも一概に否定すべきなのか。ウクライナ市民には素手で戦車の前に立ちふさがって抵抗せよと言うのか。ベトナム戦争のときだって、ベトナムの人たちは、強大なアメリカを前にして、ソ連などから供与された武器で戦っていた。単純な平和主義・戦争反対が国際政治・軍事の過酷な現実の前に揺さぶられるのは確かだ。

その他、金融決済ネットワークSWIFTからの排除をはじめとした経済制裁、文化活動上の抗議・制裁、パラリンピック出場停止、SNSでの情報拡散、各国での反戦活動などの動きが高まっている。国連決議も無力だがないよりましか。これらが独裁者プーチンにどれだけ効果あるか、即効性はなくても、長い目でじわりじわり効いて来ることを願うばかりだ。超大国のあからさまな侵略・暴力に対し、どのような非軍事的対抗が可能か、かつ有効なのか。第三次世界大戦になるのを回避しながら、非道を効果的に阻止する非軍事的な方策を模索・開発していくことが、現代世界に課された重要課題になっている。