「スポーツに政治を持ち込まない」という政治

北京パラリンピックにロシアとベラルーシの選手の参加が禁じられた。スポーツと政治の関係が改めて焦点となった。

ロシアのウクライナ侵略は政治の話であって、それをオリパラに持ち込むのはけしからん、という論理が通用するだろうか。スポーツは平和でなければできない。街にミサイルがぶち込まれる中でスポーツなどできない。このスポーツの根幹・土台を破壊する行為を拒否することを「政治」と言うことこそ、あからさまな政治だ。実際この侵略戦争の中でウクライナのバイアスロン・ジュニア代表チームの一人が亡くなっている。スポーツがスポーツのためにこそ声を出さなければならないときがある。それを「政治」とすることの方が極めて政治的だ。

むろん、スポーツ選手には個人的な責任がなかっただろうし、参加できなくなったのは気の毒とは思う。しかし、スポーツ自体を禁じたわけではない。国家から資金その他あらゆる援助を得て練習し、その背景を背負って出場する。それを「純粋スポーツ」とだけは言えない。

例えば、ある高校に独裁校長が居て、他校に組織的な殴り込みをかけるようなことをしていた場合、その高校野球チームの甲子園出場を禁じるのは正当かつ必要な行為だ。高校野球の根幹を揺るがすようなことをする組織に拠っているスポーツチームの参加は認められないし、それを拒否し、反対することはスポーツにとって根幹的なことだ。

確かに、それがスポーツの根幹を破壊する暴力か、あるいは政治的な対立なのか細かいところで判断が難しい時もあるかも知れない。今回の侵攻でも、ウクライナも核を持とうとしている、ロシアと対立する軍事同盟に加わろうとしている、とこれを「政治的な対立」に相対化したがる勢力もいる。だが、主権国家の国境を戦車が大規模に進軍していく行為が侵略であることはだれの目にも明らかではないか。

その辺の判断は最終的には人々の間の総体的な民意で決まる面もあるかも知れない。パラリンピックに参加するスポーツ選手の間でさえ、このような勢力を容認してスポーツすることは耐えられず、その多数の声が正当に反映されて国際パラリンピック委員会決定につながった、と見る。