宇宙に存在していること

宇宙論を読んで、どんな本でもいいが、例えば須藤靖『不自然な宇宙  宇宙はひとつだけなのか?』(ブルーバックス)という秀作を読んで、宇宙の究極はますます曼荼羅の世界に近づいていると思う。

人類はまだ他の惑星にさえ行っていないが、太陽系のその上位構造の銀河系のさらにその集合の半径138億光年の「観測可能な我々の宇宙」のその先にはさらに無限のマルチバースがあり、つまり私たちに似たクローン宇宙もあり、それらマルチバースの外には物理法則さえ異なるさらに高次のマルチバースがあり、そしてそれらは因果関係の外にあって、物理的に検証不能で…。

曼荼羅の世界だ。

だが、その広大な宇宙に思いを巡らせ、あるいは幻惑され、そのすぐ後に4月の光に満ちた近所の住宅街を散策すると、私はこの広大無辺な宇宙の一部に確かに存在していることを感受する。それは神的に、奇跡として与えられる体験。身体もこの宇宙に確かに存在し、その摩訶不思議な世界の一部であることには違いない。どれだけ広大無辺な曼荼羅の世界であるにしても、あるいは私たちがいかに極小の存在であるにしても、私はその一部であることには違いはない。時間的にも、永遠の時間の中の瞬時に生存しているだけにせよ、私はその一部を確かに体験している。

私はこの曼荼羅世界を観想しているのではない。認識しようとしているのでもない。それ以前にその一部として存在してしまっている。出現してしまっている。だからどこよりも、何よりも、この一点からこそ、世界の真実は現出させられている。木々の緑が、青い空が、人々の息遣いが、それを愛する私が、それらを感性的に体験している私が、真実の本体として現出している。