人類はいつから笑いを獲得したのだろう。ネアンデルタール人は笑ったのか。
初孫が出生1カ月で我が家に移ってきたとき、まだ笑わなかった。
しかしその後少しずつ笑いのような表情が現れ、
生後2カ月を過ぎた今、明確に笑う。
声は立てないが、こちらがあやすと、ニコニコ笑みを浮かべる。
すると対するこっちはもうメロメロだ。
赤ちゃんよりも大きな笑みを浮かべ、抱きかかえては付近をうろつき回ることになる。
初めてJちゃん(初孫)が来たとき、癒された。
「可愛い」ではなく、「癒された」だ。
「可愛い」は上から目線で、優越者の気持ち。
「癒される」のは対等、もしくはより上からの心的影響のことだ。
森林浴と似ている。何らかのホルモン物質がそのとき私の体内に分泌されるに違いない。
黒目がちの澄んだ無垢の目、
まだ人見知りしないじっと見つめる視線に、
小さな手足をばたばたさせる動作に、
一人で体をよじって興じる姿に、
ふー、くぅーという甘いささやきに、
いや何もせずともただ横たわる小さな体に、
すやすやと寝る寝顔に、
だっこすると感じる小さく柔らい重量感に、
癒されている。
見ているだけで癒される。
だが、あかちゃんは大人を癒すためだけに存在しているのではないこともすぐに知らされる。
強烈に泣き、なだめても止まらないときがある。
だっこし続けると相当腕が疲れる。
オムツを替えたり風呂に入れたりするのは大変だ。
孫は子どもより可愛いという。
いいとこ取りをしているからだ。
「かわいい」「かわいい」といっときお相手し、
手に負えなくなったら親たちに渡してしまえる。
「可愛い」感情とその体験だけが刻まれる。
泣き続ける場合、かなりが母親のおっぱいを求めるときだ。
これは仕方がない。渡す以外ない。
そうでない場合も、大泣きするときがある。
こちらはおろおろするばかり。
だが、わかってきたことは、大泣きも赤ちゃんに必要な運動なのかも知れない、ということ。
寝返りを打てないから仰向けで手足をばたつかせる。
大人がこんなに手足を動かしたら変だろう。
それと同じく大あくびをし、ひゃっくりをし、
そして口びるを震わせて大泣きする。
そうやって肺呼吸や喉を含めて全身の筋肉がつく。
たっぷり泣いた後はぐっすり寝てくれる。
そういうパターンなんだ。
四六時中親だけで面倒見たら大変だ。
真夜中も頻繁に起き、なだめたりだっこで歩き回る。
おむつ、おっぱい、ふろ。
産後うつ、育児ノイローゼなども生じる。
深刻だ。子育てを美しくだけ考えてはいけない。
この世界に現れてまだ2カ月。この濁悪にまみれた世界はどういう風に見えているのだ。日々、淡々と生息しているようだが、まったく未知の異なる世界。カルチャーショックも相当なものだろう。何しろ、他の人間ばかりでなく、空気、光、重力さえも初体験なのだ。そして大泣きやオッパイ、おむつ、衣類をつけること、フトン、壁、窓、おもちゃなどすべて。
祖父母の(特にこの祖父の)手伝いは限られているが、それでも少しは役立っていると思いたい。
大人が4人がかりでJちゃんに対応している。
4,5人も子どもが居た昔はどうやっていたのだ。
大人4人が、一人の赤ちゃんに入れ替わり立ち代わりお相手する。
泣けば「おお、じいちゃんを呼んでいるのか」と言いながら近づく。
孫のご機嫌で家中振り回されて、
J様は我が家の女王だ。