ギリシャからルーマニアへ

ゼレンスキーさん

夜行バス。座席で寝ているとだれかがトンと肩をたたく。
目覚めると前にゼレンスキーさんが立っていた。
いや、ウクライナ大統領ではなく、ルーマニア入国管理官だった。
国境審査でバスの中に入ってきたのだ。
そうか、この辺にはゼレンスキーさんのような顔だちの人が多いのか、と思いながらパスポートを渡す。
係官は乗客全員からパスポートや居住証を集めるとそれを事務所に持ち帰った。
なるほど、この国境では、乗客が外に出て事務所前に並ぶのでなく、バスに入ってきてパスポートを集める形なのだな。ギリシャ・ブルガリア国境とは異なる(後述)。

10月26日、Union Ivkoni社の長距離バスでアテネ(ギリシャ)を発ちブカレスト(ルーマニア)に向かった。バス・列車の予約サイト(BusBudを利用)によると1日一本この便があるだけだ。全行程22時間、: 78.73ユーロ(約1万2000円)。

(東欧地図)

アテネ出発は

出発は午前8時半。時差ぼけでまだ午前3時に目が覚めるので問題ない。ゆっくりして直前に荷物をまとめ宿を出る。この安宿には、特にチェックアウトの手続きはなく、ただドアから出るだけだ。(チェックインの手続きもなかった。メールで玄関と部屋の開錠パスワードを教えられるだけ。宿を出れば、また次の人のために別のパスワードが設定される。部屋に電話もドリンクも置いてないから追加清算が必要になることはなく、カギを返す必要もない。日本でも増えてきたが、非常に合理化された安宿方式だ。)

アテネにバスターミナルはいくつかあるが、ソフィア、ブカレスト行きの国際バスは市内のMetaxourgeio広場から出た。オモニア広場の西約500メートル。その広場東端にいくつかのバス会社が事務所をかまえ、Union Ivkoni社もそこに小さな待合所を設置している。同社はブルガリアのバス会社で、車体に大きくUnionBusと書いてある。行先表示にはピレウス(アテネ南西の港町)からアテネ、ソフィア、ブダペスト、ヤシ(ルーマニア北東部の都市)となっているが、アテネ発着所に現れた時、バスに乗客はおらず、ブダペストでもそこが終点だと言われた。

Metaxourgeio広場の東端にUnion Ivkoni社の事務所、待合所があった。
やってきたブカレスト行きのバス。

高速を順調に走る

ギリシャは相変わらず天気がよく、昼は暑くなる(20度台後半)。バスはアテネを出るまで1時間程度のひどい渋滞があったが、それ以降は高速道路を順調に走った。乗客は少なく、快適な旅だ。

バスは光速度道路を快調に飛ばした。野山は地中海性の乾燥した植生。
アテネ出発時にはバスはさほど混んではいなかった。ブルガリア国境に近いテッサロニキあたりから次第に混んできた。
海沿いは、まさに地中海的な街の風景。

トイレで苦労

予約情報にはトイレがあることになっており、実際座席フロアから見て下部、後部乗降口のところにあるが、鍵がかかっていて開かない。指をさして車掌に聞くと、首を振って使えないという(運転手はソフィアまで二人組で運転と車掌を交代でやっていた)。3時間おきくらいに休憩はあるが、車内トイレがないというのは、これは年寄りにはきびしい。この辺では走ってないが、西欧全体に走っている大手のFlix Busなら確実にあると思うのだが、少し心配になってきた。

席も予約表には39と明記してあるのだが、何と実際のバスには席番号が書いてない。乗って来る人は皆まごつく。車掌(運転手)に聞くと、前の方から1,2,3と数えていって、ほらここが39番だからおまえの席だ、となる。どうせガラガラなのだから見栄をはって示したのだろう、と思ったが、後で満席近くなり、ある程度厳格に席を決めていた。

チャンスをみてトイレに行かないと大変なことになる。ターミナルに着いたときは行かない方がいい。乗り降りが済めばすぐ出発するし、人が多くて混乱し置いていかれる危険がある。運転手もここでは行くなと言う。郊外のサービスエリアで休憩になるのでそのとき行く。

これもいちいち時間を指定しないようだ。だいたい常識的な時間をとって時が来れば乗客は帰って来るし数をかぞえてそろっていれば出発する。隣周辺を確認してもらえば常識的にはわかるだろう、ということらしい。

まあ、こんなものだ。大雑把だが、とにかくバスがちゃんと走ってくれればよい。実際、田舎に出れば高速道路走行は順調で、結局ブカレストにもほぼ定刻通りに着いている(翌27日の朝6時半)。

乾燥した地中海性植生に徐々に落葉樹が混じる

ギリシャの風景をずっと見ていると、少しずつ植生が変わっていくのに気づく。アテネ付近ではあまり草木のない乾燥した風土だったが、次第に緑が増えていく。オリーブのような常緑樹がほとんどだったのが、次第にポプラや白樺のような落葉樹も混じって来る。紅葉もはじまっているようだ。4年前(2019年晩秋)、バルト三国からポーランド、チェコ、オーストリア、クロアチア方面へとバスで行ったときを思い出した。あの時は、針葉樹林帯が、南下するにつれて、徐々に落葉樹が混じっていくのを観察できた。そして、地中海岸のスプリトに達したとき、それまでの曇り空が一挙に晴れ乾燥した青空になったのが印象的だった。植生も草木まばらな乾燥した地中海型になっていた。

テッサロニキを知っているか

夕刻頃、ギリシャ北部の都市テッサロニキに着いた。ギリシャ第二の都市(人口:市域32万、都市圏103万)だが、私たちにはなじみがない。ギリシャと言えばアテネ(人口:市域64万、都市圏304万)、そしてアクロポリスとパルテノン神殿だ。古代ヨーロッパ文明の元祖。そこから離れた北部ギリシャのことはあまり知らない。植生も違うが地形も違う。特に市の西部一帯には、これがギリシャかと思うほど広大で豊穣そうな沖積平野が広がる。起伏が多く海岸平野があまりないアテネ近辺とは様子が違う。

テッサロニキの街。
テッサロニキ南部には広大な沖積平野が広がる。

マケドニアだった

テッサロニキのバス・ターミナルに「マケドニア」バスターミナルと表示されていいるのを見て、ようやく合点がいった。この地はかつてアレクサンドロス大王(紀元前356年~同323年)が地中海からインドにまたがる大帝国を築いたヘレニズム帝国の祖地だったのだ。「バルバロイ」(異民族、野蛮人)と呼ばれながらマケドニアはギリシャ全体を征服し、さらにペルシャ、インドと当時のギリシャ人が考える「世界」を統合する大帝国を築いた。その帝国が生まれる経済的基盤がこの地の平原とそこでの農業生産だったのではないか。

テッサロニキのバスターミナルは「マケドニア」バスターミナルとの呼称だった。

別にマケドニア共和国ができてしまった

アレクサンドロス帝国が偉大なものになったからだろう、ギリシャ人はマケドニア人を異民族などとは呼ばず、ギリシャの正統的な一部ととらえるようになった。実際、古代マケドニア人の言葉もギリシャ語方言だったし、文化的にもギリシャ文化を広い世界に拡大する役割を果たした(ヘレニズム文化)。ところがこのマケドニアの一部(北西部)に社会主義ユーゴスラビアの解体の結果「マケドニア共和国」ができてしまった。ギリシャ人が怒るのも無理ないだろう。我々の誇る歴史的地域の一部がギリシャとは別の国として「僭称」されてしまったのだ。平成の大合併で歴史ある広域名がどこか一部の小自治体に名乗られてしまったような問題と同じだろう。マケドニア地方の5割はギリシャ、4割がマケドニア、1割がブルガリアに属し、特に古代マケドニア王国は主要都市を含めほとんどが現ギリシャ領域だった。

自治体名と違い、国名の対立は深刻だ。マケドニア共和国が隣国マケドニア地域に領土的野心があるのではと疑われ、実際同国憲法には「周辺国に住むマケドニア人の権利を擁護する」という憲法条項もあったという(ウィキペディア「北マケドニア」参照)。ギリシャはこの国名を拒否するだけでなくマケドニア共和国に対する経済制裁も発動、同国のNATO加盟にも拒否権を発動した。そして様々な紛糾の後、3年前の2019年、同国が「北マケドニア共和国」と名称変更することで何とか一件落着したという。

賑やかな乗客たち

テッサロニキで乗客がたくさん乗り、ほぼ満席になった。空席ばかりなので指定座席外に座っていた私も予約座席に戻された。なんとまあにぎやかなおばちゃんたちなのだ。大きな声で談笑する。しかも言葉も違うようでロシア語のように聞こえる(ブルガリア語はスラブ語系)。民族が変わると性格もこれほど変わるのか、と感心する。

そのおばちゃんたちもソフィア(ブルガリア首都)で皆下りた。別の人たちが乗ってきた。乗客のほとんどはこうした一部区間を利用する人達で、私のようにアテネからブカレストまで通しで乗る人は他に居なかった。

相変わらず賑やかな人たちで、いくつか外国語も話すらしいおじちゃんが、「お前はどこから来た?」と聞いて回っている。片言の英語で「ウクライナからだ」と答えた男が居たのにはびっくりした。おじちゃんも「おお、ウクライナなのか」と苦笑いする。若者だ。戦争中のウクライナの若者がこんなところを旅行しているのか。そういう人も居るということか。あるいは方角的に言ってウクライナに帰って戦いにはせ参じる? いや、うるさいおじちゃんをかわすために冗談で言ったのか。おじちゃんが私の前に来るまでに私も眠ったふりモードに入った。

ブルガリアとルーマニアで国境通過する

国境通過の話に戻るが、ギリシャとブルガリアの間は、バスから降りて事務所に並ぶ形式だった。面倒ではあるが、両国出入国管理窓口は隣り合わせで、いちどきに手続きを済ませられる。冒頭に書いたようにブルガリアとルーマニアの国境審査はこれと違い、係官がバスの中に入ってくる形。この方が通行客にとっては楽だ。前回の東欧の旅で何度も国境通過をしたが、この方式の方が多かったように記憶する。これだと両国国境事務所2か所で別々の審査があり時間がかかるが、ここでは1カ所でまとめて終わった。返されたパスポートにはブルガリア出国スタンプとルーマニア入国スタンプ両方が押してあった。合理化が図られている。

なお、ブルガリアとルーマニアは共に2007年にEUに加盟しているが、他のEU諸国との間で国境管理を行っている。国境審査を廃止した取り決めはシェンゲン協定(条約)だが、EU加盟国でもこれに加盟していない国がある。現在、クロアチア、ブルガリア、ルーマニアがEU加盟国ながらシェンゲン協定未加盟で国境審査を継続している。(このため、EU圏には通常3カ月しかビザなし滞在が認められないが、この3国に入ればそれぞれまた3カ月滞在できる、ということになる。この他、シェンゲン協定もEUも非加盟の他のバルカン諸国、EU離脱以前からシェンゲン協定に加盟していなかった英国などに出て帰ってきても同じことになる。)

両国国境審査まとめてやってくれたとすると、今居るのはどっち側なのだ。ブルガリアとルーマニアの国境には大河ドナウが横たわっている。走り出したバスから外を凝視したが、(暗くてわかりにくいが)大きな橋を渡る気配はなかった。ルーマニア側の国境管理事務所側ですべてを済ませたらしい。

バスはまだ暗いうち、ブカレストのミリタリ・バスターミナルに着いた(国際バスが着くというフィラレト・ターミナルではなかった)。近くに地下鉄(Metrou)のPacii駅があり、乗り換えながら比較的簡単に宿のある北駅(Gara de Nord)まで行くことができた。