1989年12月、私たちは革命というものを、ほぼ同時進行でテレビで見ることになった(動画サイトで当時のニュース映像など参照のこと)。東欧で無血の民主化が進む中、一国だけ頑強な共産主義独裁を貫いていたルーマニア・チャウシェスク政権が12月22日倒れた。過程で多くの血が流れた(死亡者推定1100人)。21日、共産党本部バルコニー2階から、動員で集めた群集の前でチャウシェスクが演説を始めたが、市民の声の中で中断に追い込まれる。翌22日、無数の市民が共産党本部に押しかけ実力で侵入・占拠する。チャウシェスクは正午頃ヘリコプターで脱出した。以降も治安部隊の執拗な抵抗が続くが、趨勢はここで決まった。
(12月21日、チャウシェスクの演説集会が次第に反体制集会に変わり中断に追い込まれえ行く様子がTV映像に記録されていた)
チャウシェスクはその後、逮捕され、簡易裁判で死刑を宣告され、即日処刑された。1989年12月25日のクリスマスだった。この祝日に裁判と処刑、遺体のTV映像がライブで全土に流された。その後もクリスマスごとにこのイメージが警告なしで流され、子どもにとっては衝撃だったとの証言がある。当時4歳だったCarmen Paunは、横たわる老人(遺体となったチャウシェスク)がかぶっていた帽子がおじいちゃんの帽子に似ていたことを鮮明に覚えている、と証言している。
歴史の舞台・革命広場
革命の中心的な舞台となったのは、市の古くからの目抜き通り、ヴィクトリエイ通りに位置する革命広場(旧宮殿広場)だ。ここに権力の牙城、共産党本部の建物があり、政権崩壊前日のチャウシェスク演説もここで行われた。
1989年12月の革命広場。中央が大学図書館。その陰に隠れるように共産党本部がある。国軍は市民についたので、戦車が市民に対峙しているわけではない。Photo: Neoclassicism Enthusiast, Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0.
旧共産党本部から道路を挟んだ西側には国立美術館がある。19世紀創建の宮殿が社会主義政権下で美術館に転換された。広場周囲で最も目立つ建物であり、革命広場も1989年以前は「宮殿広場」と呼ばれていた。
ある意味、チャウシェスクは有能な政治家だったのかも知れない。若いうちはソ連を公然と批判するなど東欧でも際立って柔軟・自主の路線を歩む政治家だった。しかし、その支配は24年に及んだ(共産党書記長1965–1989年、大統領1974–1989年)。秘密警察による厳格な監視社会をつくり、対外債務を解消するため国民の経済生活を締めあげた。それらがスキなく有能に管理され、独裁体制は倒れる直前まで盤石に見えた。しかし、こういうところでこそ最も苛烈で暴力的な反乱と革命が起こってしまうのだ。歴史の皮肉というか、人の世の道理というものを感じる。プーチンの支配もすでに22年に及ぶはずだ。
大学広場周辺の記念碑
革命広場から500メートルほど南東に離れた場所に大学広場がある。ブカレスト大学の建物が多いところで、ここでも革命で多くの犠牲者が出た。そこに「革命メモリアル」があり、いろいろな慰霊碑やオブジェがあった。