写真は、かつての独裁者チャウシェスクの宮殿「国民の館」だ。地上8階、地下5階、部屋数3107室。地上階床面積33万平方メートルは、建築時の1980年代、米国防省ペンタゴンに次ぐ世界第2位の巨大建築だったという。最初は「共和国の館」だったのが1989年の民主化革命でチャウシェスクが処刑されると「国民の館」となり、現在はルーマニア議会が入り正式名称は「議事堂宮殿」。これの建設のため1万世帯と10の教会が取り壊された。英語版Wikipediaによると、2020年現在の資産価値40億ユーロは世界で最も高価な政府ビルにランクされ、照明、電気、暖房費用だけで年間600万ドルかかり、中規模都市レベルに相当するという。
この宮殿の前(撮影者の後側)にはシャンゼリゼに似せた大通り(ウニリイ通り)があり、両側の高級アパートに共産党幹部らが住んでいた。
共産主義独裁の象徴のような場所だ。それが倒されて本当によかった。世界には、王宮など独裁の象徴が市民の憩いの場になったところもあれば、今も独裁者の拠点として君臨し続けているところもある。いろいろ考えると複雑な気持ちになる。

国立歴史博物館に民主化革命の展示がなかった
このような長きにわたった独裁政権の遺産は、倒されてからも社会に大きな負荷を残しているのではないか、ということが危惧される。ソ連の負の遺産も、現在のウクライナ侵攻の中にある意味継続されているわけだし。
その意味で、まず気になったのは、1989年民主化革命の記録・記念碑がどのような形で残さているか、だ。
最初は国立歴史博物館に行った。チャウシェスク大統領夫人が頻繁にパーティを催していたという立派な建物だった。しかし、この大きな博物館に民主化革命の展示はなかった。代わって、古代ローマ帝国の属州だった時代の遺品展示にかなりの重点が置かれていると感じた。ルーマニアはスラブ系の民族が多い東欧の中で、唯一ラテン系の伝統を保持する国だ。
この地域では、古来トラキア人系のダキア人が優勢で、原始的な国家を形成していたが、2世紀始めからローマ帝国の侵攻を受け、271年までダキア属州となっていた。ローマ帝国の領土としては唯一ドナウ以北に展開した地域であり、この2世紀間にローマ人の植民が進んだ。このときダキア人とローマ人を基礎とする現在のルーマニア人の原型がつくられたとされる。その後ゲルマン系の西ゴート族、スラブ系の人々など周辺の多様な民族の流入があり、ロマ(ジプシー)の人たちもヨーロッパで最も多いとされるなど、複雑な民族構成をもった国であることは間違いない。それでもローマの遺産は残り、言葉(ルーマニア語)もラテン系でありイタリア語にも似ているという。
ギリシャ人にとってバロバロイ(夷狄)の住む土地だったマケドニアが、アレクサンドロス大王の栄光を経て、ギリシャの不可分の一部に迎えられたのと同じ様に、ルーマニア人にとっても栄光の古代ローマはアイデンティティの根幹に据えられねばならなかったようだ。実際は多民族の混血で、とりわけ土着のダキア人の伝統がないがしろにされているのではないかと思う面もあるが、それよりローマの伝統の方が中心に来なければならなかったのだろう。

民主化革命の展示がなぜ軍事博物館に
1989年民主化革命の展示は国立軍事博物館にあった。なぜ軍事博物館なのか。かなり強烈な違和感を感じる。




「共産主義恐怖博物館」の計画
もっと本格的な民主化革命の展示がどこかにあるはずだろう、と思って調べていると、2019年7月、政府がルーマニア共産主義恐怖博物館 Museum of Communist Horrors in Romania (Muzeul Ororilor Comunismului in Romania)設立に向けた法律を発布したとのニュースを見つけた。「ルーマニア国民が共産主義の時代(1945-1989年)に経験した犯罪、虐待、拷問を示す博物館」だという。
当初、本稿冒頭の「国民の館」内につくるとの情報もあったが、2019年12月の政府発表によると、そこではなく、一時的に国立図書館内に設置する方針となったことがわかった。さっそく同図書館に出向くことにした。国民の館から「シャンゼリゼ通り」を東にずっと歩いて行った方にある。

受付でルーマニア語で書いた恐怖博物館名を見せると、あっちだと右の方を指さす。期待してその方面を探したが、それらしい展示がない。英語のわかる図書館スタッフに聞いたところ、「まだそのオフィスがあるだけで、展示はない」とのことだった。やむを得ない。探索もこれまで。