中世都市ブラショフ 「1987年ブラショフ反乱」

トゥンパ山へ登る

トゥンパ山から見たブラショスの全貌。残念ながら小雨の降る天気で、あまり遠くまでは見渡せなかった。
ブラショフは、急峻なトゥンパ山の麓につくられた中世城壁都市だ。写真の図参照。図の左が急崖になっており、こちらからは攻めて来られない(義経の鵯越の逆落し作戦も通用しないような急崖だ)。平野に面した前方(右)の方だけに防備を集中させることができる。
トゥンパ山にはロープウェイで登れる。
一気に山頂へ。ただしこの山頂付近(ロープウェイ駅の付近)には、見晴らしのいい展望台がない。どこに行けばいいのかの案内もなくて、一緒にロープウェイで登ってきた人たちは困った。結局、やや南の方に歩いて行くと眺望のよい場所があることがわかった。BRASOVの巨大な看板が出ているあたりだ。
下から見ると、ケーブルカー終点から右の方に大きなBRASOVの文字看板が見えるだろう(ロサンゼルスにあるHOLLYWOODの看板にあやかったか?)。その周辺まで行くと眺望が開ける。看板が下から見えるようにするためにも周囲の木々や枝を伐採しておく必要があったのだろう。
ロープウェイの時刻表もない。最終便もわからない。教えてくれる係員も居ない。それで私は歩いて下りることにした。ジグザグの比較的整備された山道がある。ロープウェイの往復券(25レウ)を買っていたが、登りでさほどの高度ではないことがわかったので、歩くことにした。小雨が降っていたのであまり歩く人はいなかった。登ってきたのは若者カップル2組、おじさん1人の計5人。下りていく人は理屈上はあまり出くわさないことになるが、ジョッギングで降りていく若者が居たのにはびっくりした(写真)。登りも走ってきたのかも知れない。
約1時間で下りてこれた。登山道入り口にところにサインが。ルーマニア語だけで読めないが、こんな野生動物が居るから気を付けよ、というサインだったのか。
その下にあった要塞跡。ブラショフの旧市街は城壁に囲まれていた。ヨーロッパの中世都市は皆城壁都市だ。

対岸の「白い塔」へ

こちらは対岸の小高い丘から見たブラショフの街とタゥンパ山。
「白い塔」と呼ばれる要塞がある丘だ。15世紀末に建てられ、城壁の外から防備の目を光らせた。

歴史博物館に1987年ブラショフ反乱の展示があった

博物館はまずは歴史博物館だろう。1989年民主化革命の展示を探した。しかしない。え、またか、と思う間ももなく、「1987年」に関する大きな展示があることに気づいた。ルーマニア語ばかりでよくわからないが、一つだけ当時の英文記事のコピーが飾ってあって、理解した。

実はブラショフでは、1989年革命の2年前に大規模な反乱が起こっていたのだ。共産主義下でブラショフは重工業の中核都市として北東部バコビナ地方を始め、周辺から多くの労働者を集めていた。それが不況で失業や賃金削減の波に洗われ、その一方チャウシェスク政権が対外責務の返済のため国民の生活支援をなおざりにしたため、ブラショフの労働者が大規模なストと暴動を起こした。1989年ティミショアラのように弾圧で多くの人が亡くなることはなかったが、こうした抵抗運動が確実に89年革命を準備していた。

89年革命の直接のきっかけとなったのはティミショアラの弾圧だ。しかし、それ以前から多くの都市で労働者の抵抗が起こっており、特に87年「ブラショフの反乱」は大規模なものだった。浅学にして知らなかった。

例えば、1989年ティミショアラの反乱で「偶然のヒーロー」として代表者的立場にたってしまった洗剤工場労働者Ioan Savuは、次のように述懐している

「私にとって革命は1987年末に始まっていた。その11月15日にブラショフの反乱で、何万という労働者が(チャウシェスク)政権の経済引き締め政策に抗議して街頭に繰り出し、何百人もが逮捕された。その時から私は何かが起こるのではないかと感じるようになり心の準備をするようになった。」

直接の革命にはつながらず、いわば「革命の聖地」はティミショアラに持って行かれたわけだが、ブラショフの人々はこの87年反乱を誇るべき歴史と捉えている。展示の詳しい内容はわからなかったが、それは感じられてよかった。

ブラショフ歴史博物館。8レウ(240円)だが、中で写真を撮る場合は追加料金25レウ(750円)だという。で、中の写真はない。

共産主義時代の記憶を留める博物館

歴史博物館、民俗博物館と回った後、何やら共産主義時代の記憶を記録する博物館のようなものがあるのに気づいた(Muzeul Amintirilor din Comunism、共産主義の記憶博物館、英語ではTales of Communism Museumと訳しているようだ)。新しいものらしく、ガイドブックなどには載ってない。入ろうとしたら35レウ(1050円)とあって足が止まった。民俗博物館で市内の全博物館が見られるチケットを25レウで販売していた。それより高い。変な話だ。この全館チケットを買えば、この35レウ博物館も入れるはずだ。

あきらめて宿に帰ったが、これは後で後悔するかも知れないという思いが強まり、再び出かけた。ウェブページには夜中の12時まで開いていると出ている。(似ているが、交流を主眼にした「博物館」Museum of Living in Communismと取り違えていた。)

夜8時ごろだったが、確かに開いていて、階段を上り2階の「博物館」に入った。共産主義時代の居住空間が復元されていて、そのキッチンのようなところにスタッフの女性が居た。びっくりしたようだ。博物館は午後6時に閉まったという。きょうは交流会のようなものがあったので遅くまで居た。どうやらカギをかけるを忘れていたようだ。

残念、詳しく見ることはできない。しかし代わりにこのスタッフの方から話を聞けたので逆によかったかも知れない。今年開館したばかりの「ベイビー博物館」だそうだ。特に子どもたちに昔のことについて知ってもらうにはいい施設だという。似たような施設は他にいろいろあるとのことだ。ティミショアラにもあるという。ウェブページによれば社会企業家的な運営をしていて、利益は困難を抱えた子どもたちの支援にまわすとある。なかなか面白い活動だ。

「共産主義の記憶博物館」。入口までの導入サインがなかなか凝っている。英語もある。
玄関を入るとすでに展示が始まり、階段を登っていくと、、
このドアが入口。革命の成果を声高に叫ぶのでもなく、共産主義時代の困難をこれでもかと示すのでもなく、ある種の懐古趣味も含みながら、家族や身近な人間関係の中に忍び寄る恐怖の時代を内面から理解するような手法を取っているようだ。共産主義時代の記憶が今なお人々の中に生きている以上、過去の拒絶は独特のニュアンスをもつものになる。