ルゴジが第二の自由都市だった

偶然で、ルゴジの街を散策

災い転じて福となすという言葉あるが、失敗から思わぬ幸運が舞い込むことがある。旅などは失敗と間違いの連続だが、当てがはずれてもくさらず、これで何か別のいいことがあるかも知れない、と考えることにしている。

ティミショアラに来る際、間違ってルゴジで乗り換える切符を買ってしまったことを前に触れた。1時間半も待ち時間がある。ええい、これも何かの縁だろう、と街を散策してくることにした。

そしたらやはり「縁」であった。ルゴジ(人口5万、ティミショアラの東約50キロ)は、ルーマニア革命の中で、ティミショアラに次ぐ「第2の自由都市」だった。この事実はあまり知られておらず、地元の歴史家などが、「ルーマニア革命は、ティミショアラで始まり、ルゴジに伝播したことでブカレストを含めて全土に拡大した」と主張している。

ルゴジは、ティミショアラに通勤する者も居たし、そこに親戚・知人が居る人も多かった(電話で様子が伝わる)。報道管制で革命の報は他地域にはあまり伝わらなかったが、ルゴジは比較的早くから事態を把握していた。

ルゴジの1989年革命の記録

ティミショアラ ー> ルゴジ ー> ブカレスト

12月20日にティミショアラで革命派が勝利し「ルーマニア最初の自由都市」となったことも、迅速にルゴジに伝えられた。高揚するティミショアラの人々も、一箇所で勝利してもそれが全土に広がらなければ巻き返されることを恐れていた。その不安定な時期に、迅速に革命に呼応し、流れを確固としたものにしたのがルゴジだった。

この12月20日、ルゴジの市民は街頭に繰り出し、夜になると地区共産党本部などを襲撃・略奪した。人々は隊列を組んでは街を行進し、「チャウシェスク打倒」「共産主義体制打倒」を叫んだ。治安部隊の発砲で2名が死亡した。しかし、ここでも軍が本格的鎮圧から手を引き、深夜までには革命派が街を掌握した。

同日にティミショアラ、次いでルゴジと二つの街が自由都市になったという知らせが全土に伝わり、雰囲気が変わった。翌21日、ブカレストでのチャウシェスク演説集会は反体制集会に転化。22日、チャウシェスクがヘリコプターで共産党本部を脱出する。

ルゴジの闘いについてはウェブ上には英語情報があまりなく、ルーマニア語の資料がほとんどだ。それでもグーグル翻訳のおかげである程度のことまではわかる。詳しい論証はできないが、これも何かの縁だ。ここに書いておくことにした。

ルゴジの「聖母被昇天」正教会。この大聖堂前の広場に数万の人々が集まり革命の勝利集会が開かれた(上記動画参照)。この右手前に市役所があり、そのバルコニーからリーダーたちが群衆に向かって演説している。市役所前広場と言うべきだが、市役所の写真を撮り逃がした。「聖母被昇天」正教会は、「2 つの塔を持つ教会」としても知られるこの地方の有名バロック建築で、18世紀半ば、ガヴリル・グリアン大公によって建造されている。
ルゴジの街を流れるティミシュ川と市のシンボル「鉄の橋」。1989年ルゴジ反乱は、この「鉄の橋」から左岸、鉄道駅にかけての市中心部からはじまった。写真は、下流方向(この辺では北方向)を望んでおり、ティミシュ川はこの先ティミショアラ近郊を経てベオグラード東でドナウ川に注ぐ。

中世からの歴史ある街

ルゴジは中世を通じてハプスブルグ帝国とオットーマン帝国がせめぎ合う地で、軍事的・経済的に重要な位置を占めた。18世紀前半からは鍛冶、大工などドイツ系職人の移住が進められ、ティミシュ川左岸にドイツ人、右岸にルーマニア人の街が形成された。2地区間に唯一の橋があったが、1902年、そこに鉄の橋がかけられ、現在でも市のシンボルとなった。

カトリックの大聖堂もあった。19世紀半ばに建てられたネオクラシカル建築の聖霊降臨大聖堂。共産主義時代はルーマニア正教会に接収されていたが、1990年、全国に先駆けカトリックに返還された。
旧郡庁舎。19世紀半ばに建てられ、1948年まで郡の庁舎として使われていた。