典型的なバルカンの歴史を歩んできたコソボ

コソボはバルカンの典型だ。民族が入り乱れ、反目し、長く被支配の歴史を歩んできた。コソボはセルビアに支配されていたアルバニア人が2008年になって独立を宣言したヨーロッパで最も若い国。当のセルビアを含め、国際的には完全には承認されていない。

バルカンの先住民

アルバニア人はバルカンの先住民族だったと言われる。紀元前1000年頃からバルカン半島西部にイリュリア人(Illyrian)と呼ばれる人々が住んでいた。紀元前4世紀頃から、古代ギリシャ人の記録に現れる。彼らの言葉であるイリュリア語は印欧祖語から分かれたインド・ヨーロッパ語系統であることは各種資料から知られる。明確な歴史叙述を残さぬまま、7世紀ごろイリュリアの記録が途絶える。現在アルバニア人の住む地域にその後大規模な植民や住民構成変化が認められないことから、このバルカン先住民が現在のアルバニア人につながるのではないか、アルバニア語はイリュリア語の系統を引くのではないか、との仮説が出され研究が進められている。

夢のある話ではある。同時代には、ヨーロッパ北部にはケルト人もいたはずだし、南ロシアにはスキタイも居たはずだ。移動してくる前のゲルマン人やスラブ人はどこに居たのか。イリュリア人もそうした、あるいはそれ以外の多様な民族の交差によって生まれ消えた集団だったのだろう。「西バルカンの先住民」と原理的に考えることはできないかも知れない。しかし、古来先住集団の一つの系統を引いている可能性は、彼らへの関心を高める。

ことごとく侵略されてきた

彼らの歴史はものの見事なまでに被支配の歴史である。アルバニア人は紀元前1000年にはすでにバルカン西部に居住していたが、前8世紀に古代ギリシャの植民活動で都市がつくられていく。例えばアルバニア第二の都市にしてアドリア海沿岸の港湾都市ドゥラス(当時のEpidamnos)などもその一つだ。前3世紀にはローマ帝国の属州イリュリクムとなり、帝国が分裂すると東ローマ、後のビザンチン帝国に組み込まれ、6世紀ごろからはスラブ人(セルビア人など)の進出でバルカン南西部に追い詰められた。中世にはブルガリア帝国、セルビア王国などの支配を受け、15世紀初めからはトルコのオスマン朝に支配され、400年間イスラム帝国の統治下に入る。

オスマン帝国下でアルバニア人はイスラム化し、セルビア王国の故地ともされるコソボ地域に徐々に入植し、やがてそこのの多数派になった。露土戦争(1877年 – 1878年)でロシアがオスマンを破ると、セルビアがオスマンから独立。バルカン戦争(1912年 – 1913年)でオスマンのバルカン半島支配が最終的に終わってアルバニアが独立した。その戦争の一時期、コソボ地域がアルバニア領になったが、すぐセルビア王国領に変わった。

第一次大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領下におかれ、戦間期はセルビアを中心としたユーゴスラビア王国に支配され、第二次大戦がはじまる1939年にはイタリアに併合され、次いでドイツの占領下に置かれ、1945年にドイツが降伏すると今度はソ連に「解放」された。コソボはユーゴスラビア連邦の中核を構成するセルビア共和国内の自治州となった。

1989年の東欧革命でユーゴスラビア国内にも民主化と独立の機運が高まり、コソボのアルバニア人も独立を求めるが、セルビアは逆にこれを弾圧。それまで認められてきた一定の自治まではく奪する。アルバニア人は「コソボ解放軍」(UCK)を結成して武装闘争を行ない、セルビア側もこれを強硬に弾圧。「民族浄化」の危機が叫ばれ、数十万のコソボ難民が出る中で、NATOは1999年、「人道介入」でセルビアを空爆する。セルビアはコソボから撤退するが、今度はコソボ内セルビア人が報復を恐れ26万人が難民としてセルビアに入る。そして自治に向けた交渉がまとまらないままコソボは2008年、一方的にセルビアからの独立を宣言した。しかし今でも国連に加盟できていない。2022年3月現在、国連加盟国193カ国中、コソボの国家独立を承認したのは118カ国にとどまる。この連綿と続く被支配の歴史、不安定な地位問題など、コソボはバルカンの苦しみを典型的な形で体現し続けている。

コソボの人たちはアルバニア国旗を掲げる

微妙な問題として国旗の問題がある。コソボで休日やお祭りの際掲げられるのがほとんどアルバニアの国旗なのだ。コソボの人口の92%がアルバニア系なので、心情的にはそうなるのだろう。しかし、モンテネグロ、セルビア、北マケドニア、ギリシャなどアルバニア(とコソボ)の周辺諸国にもアルバニア人が多く住む地域がある。これらを全て合わせて「大アルバニア」の形成を目指しているのではないか、という懸念が常に周辺諸国にはあるのだ。それを知っていると、コソボでコソボ国旗よりもアルバニア国旗の方が圧倒的に多く掲げられることにやや心がさわぐ。コソボ国旗は政府機関など公的なところに掲げられるにとどまる。

首都プリシュティーナ中心部の歩行者天国にかかげられたアルバニアの国旗。
マザーテレサ大聖堂にも祭りの日にはアルバニア国旗。
レストランその他商業施設も軽いノリでアルバニア国旗(左)を掲げるようだ。(右の丸い旗?は何なのか不明。)

コソボの国旗は、下記写真のように、青地にコソボの地図が入り、上部に6つの星がついているものだ。2008年の独立宣言のときに採用された。しかし、この旗が一般の人々の民家その他に掲げらるのをほとんど見ない。皆アルバニア国旗をかかげる。アルバニア国旗は、オスマン・トルコの支配に抵抗した民族の英雄、スカンデルベグ(中世アルバニアの君主、1405年 – 1468年)が考案し使っていた紋章だ。「スカンデルベグの鷲」と言われ、アルバニア人には思い入れが深い。単にアルバニアという国の旗とだけは言えず、「民族の旗」と言うべきなのかも知れない。

それに対し、2008年に採択されたコソボ国旗はなじみが薄い。しかし、ここには明確な思想が示されている。6つの白い星はコソボに住む6つの民族、アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ロマ、ゴーラ人、ボシュニャク人を表している。多民族の国として存在しているということを明確に表現する。アルバニア人だけの国ではないのだぞ、ということだ。施政下にあった国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)への配慮、周辺諸国をはじめ国際社会に理解を得るための配慮などもあったと思われる。しかし、残念ながら人気がないようだ。

コソボ国旗(写真上部)は政府の公式な機関などで掲げられる。これは、コソボ独立に協力を惜しまなかった米クリントン大統領への謝意を示し、目抜き通りをビル・クリントン通りと命名したことを示すビルボードだ。まさに公的な掲示であり、特に国際的なまなざしがあるところなので、このコソボ国旗こそ適切・穏当ということになろう。
しかし、コソボのアルバニア人の心情として向かうのは祖地アルバニアの大地なのだ。墓地にアルバニア国旗が掲げられているのを見た。死んでアルバニアの民族的伝統に帰りたいのだ。
同上。1999年、NATOの空爆下で激化したアルバニア系とユーゴスラビア軍の戦いで戦死した人を鎮魂する地域の慰霊碑のようだ。
住宅街で珍しくコソボ国旗(右端)を見て感動した。しかし、よく見ると、アルバニア国旗、ドイツ国旗、アメリカ国旗もあり、支持する好きな国の国旗を掲げたものらしい。ここの住人の方の思想性に興味を持ったが、少なくとも民間では、コソボ国旗はこういう形でしか掲げられないのか、とも思った。

大アルバニア主義は誇張されているか

2007年の国際連合開発計画(UNDP)の調査によると、コソボのアルバニア人のうちアルバニアとの統一が望ましいと考える人は2.5%に過ぎなかった。大アルバニア主義は誇張されている可能性もある。アルバニアはコソボより経済が遅れていて、連合してもメリットがないという意見もあるようだ。しかし、例えば2001年2月、アルバニア系が人口の3割近くを占めるマケドニアでアルバニア系の民族解放軍(NLA)が武装蜂起し、これにコソボの武装勢力も介入してマケドニア軍との間で戦闘が起こるなど問題は皆無ではない。散発的とも言える事件だが、2014年10月にはセルビア対アルバニアのサッカー試合中に、「大アルバニア主義」の旗を掲げたドローンが飛来したことで乱闘が起こった。大アルバニアの旗とは、6カ国にまたがるアルバニア人多住地域の地図に「スカンデルベグの鷲」をかたどったものだ。

コソボ内の少数民族セルビア人への適切な対応を含め、今後この国がその歴史に相応しい尊厳ある方向に進んでいくのを望みたい。