北マケドニアで民族を考える

アレクサンドロス大王の巨大な騎馬像

この圧倒的な騎馬像は何だ。言わずと知れたアレクサンドロス大王だ。紀元前4世紀、マケドニア(ギリシャ北部)から出てバルカン半島からインダス流域までの巨大帝国を築いた英雄。そしてここはそれにあやかる北マケドニア共和国の首都スコピエだ。高さ22メートルに及ぶこの銅像はどれだけこの国の人々がアレクサンドロス大王を誇りとし入れ込んでいるかを十分に語る。市の中心となる広場にそびえ、北マケドニアの人々を見下ろす。

アレクサンドロス像が立つのは首都スコピエの中心、マケドニア広場だ。すぐそばをバルダル川が流れ、そこに15世紀に築かれた石橋(カメン・モスト)がかかっている。これも市の象徴だ。

同上。バルダル川は意外と流れが速く、まだ上流であることがわかる。

アレクサンドロスが剣を向けているのは東の方向だ。アナトリア半島から、イラン、メソポタミア、エジプト、インド西部、中央アジアまで征服した。近代にスペイン、ポルトガル、英仏欄など「西欧」が発展する以前、富の中心は東だった。ヨーロッパの英雄たちはこぞって東に向かった。東アジアで北方遊牧民が南の中華を目指したように。(日本など東夷は西<大陸、半島>を目指した。古代から近代に至るまで。)

そしてアレクサンドロスの目指す東にはこの凱旋門が立つ。東方遠征で華々しい戦果をあげたアレクサンドロスはここから凱旋してくる、という設定だろう。

これはフェイクか?

12月11日、北マケドニアの首都スコピエに着いた。着いてすぐ、なんだこれは、フェイクか、と思ってしまった。マケドニアという国自体に大きなクエスチョンマークがつく。

まず、なぜ「北マケドニア」というかというと、1991年の独立時にはマケドニア共和国と言っていたが、ギリシャから文句をつけられた。勝手にマケドニアを名乗るな、と。そりゃそうだろう、マケドニアというのはギリシャ北部、特にテッサロニキあたりを中心にした地域だ。現在の北マケドニア周辺にもかかるが、辺境であったことは否めない。古代マケドニア人は、ギリシャ語の方言を話すギリシャ人だった。そこからアレキサンドロス大王(紀元前356~同323年)が出てインド北西部に至る大帝国をつくった。この栄光の帝国祖地名を横取りしてしまったというのだから、ギリシャが怒るのも無理もない。日本の市町村名でも、その地域全体を指す著名な地名を、そのはずれの小自治体が名乗ってしまってひんしゅくを買う場合がある。それと同じだ。

しかし、北マケドニアは海なしの小国だ。外との連絡を保ち経済を成り立たせるためにはギリシャを怒らせたらまずい。2019年に国名を「北マケドニア共和国」に変えた。まあそれでギリシャも納得したのではなかろうか。

多民族国家ユーゴスラビアから抜け出て、1991年、マケドニアという小さい独立国をつくった。長野県と新潟県を合わせたくらいの国だ。それでマケドニア人だけの国になったのかというと、必ずしもそうではなくてマケドニア人は54.21%で、アルバニア人29.52%、トルコ人3.98%、ロマーニ2.34%、セルビア人1.18%、ボスニア人0.87%、ブラフ人0.44%とかなりの多民族国家だ(2021年、北マケドニア統計局集計)。これは重要なことだ。複雑に民族が絡み合った地域では、いくら民族自決で独立国家をつくっても、堂々巡りのようにその小さい独立国にやはり多様な民族が存在し、その共生の課題が存在する。「独立」ですべてが解決、ではないことを示す事例の一つだ。

そしてさらに、そのマケドニア人というのはほとんどブルガリア人だ。マケドニア語とブルガリア語はよく似ており、互いにコミュニケーションが可能だ。ブルガリア人はマケドニア人のことをブルガリア人だと思っているという。ブルガリア政府もマケドニア語はブルガリア語の方言だとし、この問題の対立を中心に、北マケドニアのEU加盟に拒否権を発動している。

ブルガリア人というのは、中央アジアからやってきたテュルク系の人々が、6世紀ごろからバルカンに大量に入ってくるスラブ系と混血・同化した人たちだ。現在では南スラブ系に分類されている。古代マケドニア人とはかなり離れた人たちと言える。

え、北マケドニアっていったい何なの? と思ってしまった。いろいろ歴史的な経緯はあったと思うが、どうしてこんな国が出来たのか。しかも1991年にユーゴスラビアから独立するにあたり、他の旧ユーゴスラビア地域であれほど憎しみの民族間紛争が起こったのに、ここではあまり起こっていない。比較的スムーズに独立を達成している。実に不思議だ。

そもそも民族はフェイクである

いや、北マケドニアよ、よくやってくれた。そもそも民族というのはフェイクだ。それを見事に示してくれた。民族は、近代化の過程で、その地域の住民を「国民」にまとめ他と激しく競い合って発展する必要から意図的・目的的に形成された。地理的に連続的に変化する多様な人々を一つの民族モデルにまとめ上げるのだから無理が出る。人種的・言語的・文化的に必ずモデル的な中央ができ、その外はマイノリティ化される。多数民族とその犠牲になる少数派集団が必ずできる。しかし、つくりあげられた民族は求心力をもち、他と激しく競争して近代国家づくりにまい進するエネルギーを生んだ。

どのようにしてこのフェイクがつくられるか。均質性が高くこの民族国家の幻想に浸りやすい日本でも、実は民族は意図的に、意識的につくり出された、ということを明らかにしてくれたのが、岡本雅享の大著『民族の創出――まつろわぬ人々、隠された多様性』(岩波書店、2014年)だ。私の荒っぽい議論に巻き込むなと氏からお叱りを受けるかも知れないが、私は同書から多くを学んだ。比較的均質性の高い日本でもそうだったのだから、これがバルカンでは、さらにあやうい形で現れてもおかしくない。

スコピエはマザーテレサの出身地

北マケドニア共和国のもう一つのシンボルはマザー・テレサだ。インドでの慈善事業などでノーベル平和賞も受賞したマザーテレサ(本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ)は、1910年、当時オスマン帝国内コソボ州だったスコピエ(当時は「ユスキュプ」)で生まれている。家はこの地域では珍しいカトリックで、母はアルバニア人、父は少数民族・アルーマニア人(ルーマニア人と同系)で、アルバニア独立運動の闘士だった。

さてそうすると、現存諸国の中でどこがマザーテレサの栄誉を自分のことのように讃える国になるのか微妙になる。アルバニアかコソボか北マケドニアか。テレサはスコピエで生まれ18歳までここで育った。確かにこの街出身だと誇れる根拠がある。スコピエの街の至るところにテレサの記念碑があり、彼女の言葉などが刻まれている。

街の中心にあるマザーテレサ記念館。そして、この街の至る所にテレサの記念碑が建てられ、彼女が語った意味深い言葉の数々が刻まれている。

マザーテレサ記念館の中は博物館のようになっており、彼女の遺品や当時の写真などが展示されている。

テレサが生まれた家があったところ。街の中心マケドニア広場のすぐそばで、アレクサンドロス大王像も見える。

コソボと北マケドニア、テレサをめぐりライバル関係?

なるほど。これでわかった。北隣コソボの首都プリシュティーナで、一番の目抜き通りが「マザーテレサ通り」に命名され、人口の9割がイスラム教徒なのに、政府の肝入りで首都中心部に巨大なローマン・カトリックの教会「マザーテレサ大聖堂」が建てられていた、その理由がわかった。マザーテレサはコソボ人でありアルバニア系の偉人だ。それが、隣国(マケドニア)に横取りされてはたまらない。負けるものか。そういう民族と国家の威信をかけたライバル精神があったのではない。アルバニアでマザーテレサがどう扱われているか見ていないが、同じような競争心が動いているに違いない。

隣国コソボの首都プリシュティーナ中心部のマザーテレサ大聖堂(2017年完成)。大多数がイスラム教徒の国で政府がローマン・カトリックの大聖堂を建てた。

バルダル川の北には中世城塞、バザール

スコピエの北、旧市街に隣接してそびえる城塞。東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年 – 565年)の時代の基礎の上に、10~11世紀にブルガリア帝国の首都だった時代に整備されたとされる。ユスティニアヌス大帝は、イタリアから南スペイン、北アフリカなどかつてのローマ帝国の領土をかなりの程度回復させた皇帝として知られる。

城塞から見下ろすスコピエの街(人口55万)。

同上。スコピエは山に囲まれている。

城塞に隣接する旧市街にたたずむムスタファ・パシナ・モスク。スコピエがオスマン帝国の支配下に入ってすぐの1492年に建てられた。

マケドニア博物館の衝撃

マケドニア博物館で、ガツンと頭をたたかれたような衝撃を受けた。そこには、「フェイクだ」と茶化していたマケドニア民族主義についてまったく別の見方が展示されていた。

マケドニア博物館の正面。旧市街に隣接、もしくはその中にあるが、旧市街から入ると、混沌としていてなかなか見つけにくい。城壁の登り口付近にあるムスタファ・パシナ・モスクの裏側に入る形で行くとよい。

マケドニア人の民族自決に向けた闘いを展示する近代史関連のコーナー。マケドニア博物館は、その他民俗、美術などいろいろな展示があるが、衝撃を受けたのはこの近代史関連展示だ。

展示説明でまず目についたのは「the portion of Macedonia under Greek rule」「the portion of Macedonia within Greece」(ギリシャ支配下のマケドニア地域)という言葉。これが頻繁に出てくる。「北マケドニア」の歴史を展示した博物館なのに、なぜギリシャ側のマケドニア地域にこれはど言及するのか不思議に思った。むしろ、そちらを中心にマケドニアの歴史を語っているように見える。

全体を見て納得した。この「マケドニア博物館」はマケドニア民族全体の歴史について語っているのだ。その中心は当時も今もギリシャ支配下の南部地域、テッサロニキを中心にしたエーゲ海沿岸平原部にあり、民族自決の闘いも主要にはそこを中心に行われてきた。だからこの地域を外すわけにはいかない。

そしてたたかったが、結局南部はギリシャに組み込まれてしまった。具体的に言うと、第二次大戦後、北部はユーゴスラビア連邦の一部、マケドニア共和国となって一定の自治を得たが、残りはギリシャに取られてしまった。マケドニア全体を独立させようとしたのだが、英米の後ろ盾を得たギリシャにはかなわなかった。ユーゴスラビア側もまあ北マケドニアだけもらえばいいか、ということでそのうち手を引いた。ギリシャの中に取り残された南マケドニアからは国外に逃げる大量の難民が出て、結局南マケドニアの自立、マケドニア全体の民族自決は夢と消えた。そういう風にこの博物館の展示は解説しているのだ。

地図上でも、わざわざ「ギリシャ支配下のマケドニア」(マケドニア地域南部)にスポットライトを当てている。

衝撃を受けて、改めてその解説展示をすべて写真にとって(幸い写真撮影は禁止されていなかった)、後でゆっくりと読んでみた。こんなことを言っている。

「ギリシャ支配下のマケドニア部分は、Goce Delchev、Krste Petkov Misirkov、その他多くの有力マケドニア活動家が生まれ育った土地だ。マケドニアの革命組織が結成された地であり、テッサロニキの諸団体が多大な勇気と犠牲をもって戦い、バルカンに解放を求める人々の国があることを全ヨーロッパに示した土地だった。さらに、イリンデン蜂起[訳注:1903年にオスマン帝国の支配に抵抗したマケドニア人の反乱]などの闘いが起こった地域でもあった。」

「[しかしながら]、打ち続く戦争と破壊、そして第二次世界大戦と特にギリシャ内戦期(1946~1949年)を通じた暴力的移民政策で、ギリシャ支配下のマケドニア部分で差別、非民族化、同化が進行した。」「内戦の中で、ギリシャ支配下のマケドニア部分のマケドニア人は、連邦マケドニア人国家への統合という理念をめざし、これに積極的に参加した。しかし、列強の政治的介入、ユーゴスラビア連邦人民共和国の支援停止、[同国から支援が来ていた]国境の閉鎖などにより、マケドニアの人々とエーゲ海部隊[南マケドニア人の部隊]の最も悲惨な脱出が起こることとなった。」

ギリシャ国家がこれを見たら怒るだろう(もう見ているだろうが)。現ギリシャの北部、テッサロニキ周辺のマケドニア地域は、マケドニアとして、しかもその中心として独立べきだったのだが、ギリシャに取られてしまったと言っている。マケドニアの民族自決は挫折させられてしまったと言っている。じゃあ、君らこれを取り返そうというのか、という非難がギリシャからすぐ来そうだ。

フェイクだと冗談めかして言っていた私も頭をガツンとたたかれた。民族の形成がフェイクのような形にしか終わらざるを得なかった理由、民族の形成を妨げられた不当性を、この展示は強く訴えていた。

この博物館は、旧市街のはずれの分かりにくい所にあり、それほど立派な博物館でもない。ギリシャにとっても取るに足りない博物館かも知れない。以前ここにあったアレクサンドロス大王時代のものを中心にした豊富な考古学資料は別途「考古学博物館」の方に移された。その考古学博物館の方は、街の中心、アレクサンドロス大王像にも近い立派な博物館だ。来館者もたくさんおり、スコピエの目玉博物館になっている。しかし、近代資料など残りを展示する「マケドニア博物館」は閑散としていた。私が来館している1時間半の間、他に一人の訪問者もなかった。話を聞いた若い博物館員が「若い人が興味をもってくれないので困る」と嘆いていた。

巨大なアレクサンドロス大王像や、マケドニア共和国という名前には次々抗議を繰り出すギリシャだが、こんなマイナーな博物館にまでは口を出さなかったのだろう。が、かなり刺激的な展示だ。エーゲ海部隊(Aegean Cavalry)という言葉も使っている。Aegean Macedoniaという言葉は、マケドニアが現国家を越えて広域のマケドニアを統合していく拡張主義のニュアンスがあって禁句になっている言葉のはずだ。

第二次大戦後、民族形成に挫折する

ギリシャ北部を中心としたマケドニア人が全体的な民族形成に失敗していく経過を博物館の展示解説に沿ってさらに詳しく見てみよう

「ギリシャ支配下のマケドニア人たちは、新しく建国されたユーゴスラビア連邦の中にマケドニア人民共和国がつくられたことを大いに歓迎した。…1945年4月23日、ユーゴスラビア共産党(KPJ)とマケドニア共産党(KPM)の主導でギリシャ内マケドニア人の大衆組織「マケドニア人民解放戦線」(NOF)が結成された。」

「1946年3月31日、ギリシャの反政府勢力がKaterini地方のLitihoroで蜂起し、ギリシャ内戦がはじまった。…1946~47年の間、ギリシャ内マケドニア人はギリシャ政府との戦いに積極的に参加し、ギリシャ民主軍(DAG, Democratic Army of Greece)の中央・西部マケドニア部隊兵士の4分の3を占めていた。DAG総司令部は、1947年12月23日の臨時政府樹立までの間、立法行政権能を行使したが、その基本政策としてギリシャにはマケドニア人というマイノリティが存在することを認知し、マケドニアの文化を発展させるため、自らの言語で教育を受ける権利があることを認めていた。1947年から48年の間、民族語で教える87の学校がつくられ、約1万人の児童生徒が在籍していた。」

「ギリシャとマケドニアの反政府勢力は、1947~49年の内戦の間、解放区もつくっていた。1947年5月8日にはギリシャ内マケドニアの大衆組織NOFが初の会合を開き、1948年1月13日には、NOF初の議会(Congress)がKosturarea(Kastoria)のV’mbel(Moskoholion)の村で開かれた。その時点でのDAGの兵士は約2万5000人(うちマケドニア人1万0147人)だった。」

「内戦の中で1948年春から2万8000人から3万人にのぼる14歳以下の子どもたちの国外避難が行われた。これはギリシャ共産党(KPG, Communist Party of Greece)とDAGの主導したもので、ユーゴスラビアが全面的に協力し、東側各国も積極的に受け入れに応じた。子どもたちはユーゴスラビア国境のDupeniやLiuboinoの村に入り、さらにスコピエ近くのBitolaやMatkaやベオグラードに組織された受け入れセンターに入っていった。」

「1949年7~8月のグラモス(Gramos)の戦いで米国の全面支援を受けたギリシャ国軍が勝利すると、DAGの残余兵55,881人はアルバニアに退避し、そこからソ連など東側諸国に散っていった。内戦ではマケドニア人2万1000人の命が奪われ、5万人がギリシャの民族浄化策から逃れ難民となった。これが、この地域のマケドニア人が、ギリシャにおける民族的権利を獲得する夢の終わりを告げるものだった。」

国外に逃れたマケドニア人たちの再会

展示は、国外に逃れたマケドニア人たちのその後も追っている。特に、子どものとき諸外国に送られ大人になった人たちの再会の様子が下記のように記される。この博物館展示もそうした人たちの尽力によるところが大きいのでは、と思わせる。

「1988年6月30日~7月3日、スコピエで、難民となった子どもたちの再会集会が開かれた。ヨーロッパ、オーストラリア、カナダ、米国などから約1万人が集まった。1989年12月23日には、スコピエで、ギリシャ下マケドニア地域出身のマケドニア人の再会を目指す「エーゲ海マケドニア子ども世代難民協会」が結成された。諸外国でも同様の団体を結成する動きが強まった。その目的はマケドニア人としての民族的・文化的・言語的・歴史的アイデンティティ推進のため文化的精神的連携を獲得し、世界の他の民族とともに生きる現代の多文化的生活の中への統合を目指すことだった。」

博物館では、国外に退去せざるを得なくなったギリシャ下マケドニア人の子どもたちのオブジェが展示されていた。

歴史に翻弄された人々と民族

世界には、自らの民族と民族国家の形成に失敗し、大国内の少数民族に甘んじる他なかった人々がたくさんいることを私たちは知っている。その代表とも言えるのがクルド人だろう。人口は2000万とも3000万とも推定され、トルコ、イラン、イラク、アルメニアにまたがって暮らし、「中東ではアラブ人、トルコ人、イラン人につぐ大きな民族であるが、国家を持たない最大の民族となっている」。

マケドニア人も同じような苦しみを歩んだ訳だが、しかし、その辺境の地にかろうじて「北マケドニア共和国」をもつことができたのはクルド人と異なる。どこで違いが出たのか。歴史の成り行きの違い、それに翻弄されてきたプロセスがわずかに異なった、としか言えない。冷戦があり、ユーゴスラビアという社会主義国が生まれ、その連邦に組み込まれた自治共和国としてマケドニア国家が生まれた。

辺境につくられる自治州、自治区、自治共和国などは、多様性と共生を保証する優れたシステムと言えるが、見方を変えれば大国の支配戦略の一つにもなり得る。隣国の一部を自国内に直接編入してしまえば正当性に疑問が生まれ、国際社会からつまはじきにされる。より賢いやり方は、そこの少数民族の民族自決を保証する体裁で組み込むことだ。自治州、自治区、自治共和国になって頂いた上で連邦国家に参加させる。つまり、大国が隣国の少数民族問題を活用して自国内に取り込むのだ。一旦取り込めば長い目では同化が進むだろうしどうにでもなる。わかりやすいので例に出してしまうが、例えば中国の新疆ウイグル自治区では本当の「自治」が機能しているか。香港の一国二制度の「高度な自治」の長期的効果は何か。

マケドニア人の場合は、その故地の一部が、冷戦下のユーゴスラビア連邦の中に「人民共和国」として組み込まれ、その後ユーゴ解体のどさくさの中で幸いにも独立することができた。そういう歴史的な偶然で、今日、マケドニア人の国がまがりなりにも現存している面がある。クルド人の地域は、不幸にも、そういう冷戦の境界線から遠いところにあった。

大国間の武力と力関係で世界の国境線が決まってきた近代史の中で、各民族の国境は様々に変遷し、ある民族は民族国家を形成し、ある民族は少数民族化し、ある民族は民族形成にも失敗する。あるいは、ある民族(の原型)は出自を完全に忘れて強大国家にアイデンティティを一致させ、その急先鋒として強い愛国主義に走る。あるいはその強大な民族国家中枢の人々が実はそういう周辺出自の人びとばかりだった…。そんないろんなドラマが繰り返されてきた。その先にどういう未来を見ていくのか難しい課題だが、少なくとも、その非情な歴史的翻弄の深みを、まずは重く受け止めることから始める他ない。

人口の3割を占めるアルバニア系

北マケドニア(総人口2,097,319人)では、マケドニア人の人口は54.21%にすぎず、少数民族の中の最多アルバニア人は29.52%と約3割に上る(2021年、北マケドニア統計局集計)。これは少数民族の規模として非常に大きい。例えば、多民族国家として知られるスイスでは、最大多数のドイツ語話者は63.67%で、最大の少数派フランス語話者は20.38%だ。カナダで英語を母語とする人は56.9%、フランス語を母語とるする人は21.3%。マレーシアではマレー系が69%で、中国系が23%だ。アルバニア人が多いのはアルバニアに近い西部、コソボに近い北部だが、首都のスコピエも人口の22.9%がアルバニア系だ(2002年)

スコピエの旧市街バザールにはアルバニア系が多い。

同上。屋内にある野菜市場。

何とバザール入口にアルバニアの国旗(赤字に黒い双頭の鷲のイメージ)をたなびかせている。アルバニア人の「民族の旗」でもあるのだが、このようなものを隣国北マケドニアで大っぴらにたなびかせていいものであろうか。私としては胸がさわぐ。

 

一か所だけではない。複数個所にこれを見る。旧市街は決してアルバニア人だけのものではないはずだ。

スーパーの窓ガラスには米・英・仏・マケドニア・EUの旗とともに、アルバニア国旗が。まあ、こうすれば少しは穏当と言える。が、これで旧市街あちこちにある旗が単に民族でなく、アルバニアという国の旗であることが明白になったとも言える。

マケドニア人の宗教がキリスト教の東方正教会(マケドニア正教会)であるのに対して、アルバニア人の宗教はイスラム教だ。旧市街にもモスクが複数ある。(そしてその前にもアルバニアの国旗が)

旧市街を歩くのは楽しい

中世そのままのような旧市街、大勢の人でむせ返るバザール。多様な人々と多様な店、活きのいい人々の声。そこを歩き回るのは楽しい。歩きながら「いったいこの国は何なのだ」という思いに再びとらえられた。いろいろな人々を受け入れて寛容だ。核となる多数派民族もどれだけ正統なのか少し怪しい(そういう国の方が民族的抑圧は少なくなるのかも知れない)。ユーゴスラビア解体時には、他地域であれほど凄惨な民族紛争があったのに、ここではまるで手品のようにそれと無縁で無事独立してしまった。隣国で、セルビアからアルバニア人のコソボ国家が独立するのも認めたし、ギリシャから国名「マケドニア」に文句が来れば一応「北マケドニア」に変えた。

そしてアルバニア人を含め、いろんな人々が暮らす。いいではないか、アレクサンドロス大王、大いに結構。古代の英雄でも何でもいい、それで統合が得られるのなら、どんな人の巨大銅像を建ててシンボルにしたっていい。スコピエの旧市街をさまよってそんな感慨にとらえられていた。