4000年前からのクノッソス遺跡(クレタ島)

エーゲ海南端の島クレタ。4000年前からここで花開いた青銅器文化のクレタ文明(ミノア文明)はなかなか興味深い。ミケーネ文明と時代を共有するが、クレタ文明の方が古い。ミケーネ文明が城壁に囲まれた王宮をつくったのに対し、クレタ文明には城壁がない。戦いがあまりない平和な文明を類推させるという。

紀元前二千年紀初め頃から絵文字(クレタ聖刻文字)や線文字Aというまだ解読されていない文字が使用されていた。ミケーネ文明発祥の線文字Bより古い。ヨーロッパ初の文字文明ということで、ヨーロッパの史家には重視される。文字使用を文明の決定的基準と見る立場からはクレタ文明は特別なものになる。

(日本の縄文文化は文字を持たなかったが、1万5000前から土器を制作していた(世界最古)。三内丸山遺跡(青森県)みられるように高度な建造物もつくっていた。また中国の長江文明では、同じく文字をもたなかったが、7000年前の古い時代から稲作農耕を開始していた。)

自由な精神があったのではないか

クレタのミノア文明が残した作品に、形式にとらわれない自由な精神を感じた。例えば、イクラリオンの考古学博物館で次のような出土品を見た。

クノッソス宮殿跡で見つかったフレスコ画「百合の王子」(左)。くすんだ部分のみが出土した破片。それをジグソーパズルのように組み立てて復元を図った(後述)。
同じくクノッソス宮殿跡から出土した「雄牛跳び」のフレスコ画。
女神像などのテラコタ(素焼き陶器)土偶。紀元前12世紀頃の、北方からやってきた武力的なミケーネ文明に支配された後の作品だが、はやり開放的な感性を感じさせる。

クノッソス遺跡はイクラリオンの近郊

クレタ(ミノア)文明の最も重要な遺跡はクノッソスの王宮跡だ。英国の考古学者アーサー・エバンスが発掘、研究し広く知られrうようになった。クレタ島の最大都市イクラリオン郊外にあり、行きやすい。市内にそこからの出土品を展示する考古学博物館があるが、その近くエレフテリアス広場から市バス2番に乗れば30分ほどで行ける。

ミケーネ遺跡の入口。ギリシャ・東欧ではどこでもそうだが、お店や各種施設の前に、野犬か放し飼いかわからないが(おそらくその中間)、犬がだらしなく寝そべっていることが多い。こんなんじゃ番犬の役割を果たせないと思うが、一旦緩急あらば出動することが期待されていると思われる。少なくとも悪さをしようとする輩には抑止力になる。
クレタ文明の代表的遺跡(首都の王宮跡)クノッソス遺跡の風景。入口近くから東方向を望む。クノッソスには紀元前7000年頃から人が住み始め、紀元前3300年頃に青銅器の使用がはじまった。紀元前2000年頃にはクレタ各地に宮殿が建ち始めたが、その中でもクノッソスは主要なものだった。紀元前1700年頃の大地震で崩壊し、その跡に新宮殿が建てられた。新宮殿はより壮大で、それが今日のクノッソス遺跡の原型。石膏など高価な原材料を多用し、壁に多くのフレスコ画(漆喰の上に描く絵画)が描かれた。その文化的影響は全クレタからエーゲ海諸島、ギリシャ本土や地中海東岸のシリアからエジプトなどにも広がった。やがて巨大噴火の説もある自然災害や北からのミケーネ文明の侵入で衰退。紀元前1450年頃にはミケーネ文明の線文字Bが使われ始め、徐々にミケーネ人によるクレタ支配の拠点になっていった。しかし、それも紀元前1370年頃の大規模災害(噴火、地震、気候変動など諸説あり)で終止符を打たれ、宮殿は廃墟化した。
宮殿の一辺160メートル超、部屋は1200個以上あり、4階建ての構造もあった。城壁はないが、ミケーネ文明の王宮よりはかなり大きかった。また、周囲には750,000平方メートル程度の市街も広がっており、最盛期には約4万人が暮らしていたという。背景の丘が印象的だが、ミケーネ遺跡は三方を丘に囲まれ、一方(北)だけがイクラリオン市方向(つまり海方向)に開けている。城壁はないものの、やはり防御などを考えた場所に王宮をつくっていたのではないか。
出土した絵画、遺物などはイラクリオン考古学博物館に収められているが、そのレプリカが額に入れて遺跡現場に置かれている。建物もコンクリートで一部復元され、考古学者からは批判もあるようだが、見学者としては、石ころばかりを見せられて「貴重な遺跡だ」と言われても、あまりありがたみが湧かないのも事実だ。(ギリシャからクレタまで石ころばかりを見過ぎてしまった。)
「キャラバンサライ」の見事なフレスコ画。「フレスコ画のパビリオン」とも呼ばれる。紀元前1550年頃の作。南方向から来て宮殿に入る前にここで足を洗い、身を清めたと考えられる。それで発掘者のアーサー・エバンスが「キャラバンサライ」(隊商の宿)と名付けた。壁に直接描かれ、それなりにはがれ始めているので年代物の本物に見えるが、これも復元建物に模写を行なったもの
中央に立つクノッソス宮殿の北翼部。これもエバンズによるコンクリート復元だが、目立つ。
壁には、牛の絵が描かれていた。ここは4階建て構造だったという。
あった、あった。クレタ文明遺跡の象徴のようなカッコいいお姉さんの絵。王宮南翼から出土。ところがこれは女性ではなく、若き美少年、祭祀もつかさどった王、または王子だという。付けられたニックネームは「百合の王子」(Prince of the Lilies)。もともとばらばらの破片から組み立て、発掘方法もあまりプロフェッショナルでなく、欠けている部分は想像で補ったようだ。一人でなく二人だったなどの議論もあり、もしかしたらこの絵はまったくの近代の創作物になってしうまう可能性も。英文Wikipediaがこの辺の事情について詳しい。 2004年になっても、「クノッソスの司祭王フレスコ画:男か女か司祭か王か、それとも全く別物か」( “The Priest-King Fresco from Knossos: Man, Woman, Priest, King, or Someone Else?”)と題する論文が出るような状況だという。