クレタの景観 イラクリオン レシムノ ハニア マタラ

次はヨーロッパのある地域の景観だが、どこだろう。アルプス? レマン湖ほとり?

いずれもクレタ島の風景だ。エーゲ海南端の島クレタ。そこに急峻な雪山がある。明るい太陽のもとブルーの海が広がる悦楽の地…とはちょっとイメージが違った。冬行ったからでもあるが、クレタ島は四国の半分近い広がり(4.4割)があり、その中に2400メートル級の山脈が走っている。

1、クレタ西部、2400メートル級のレフカ・オリ(白い山)山脈。レシムノ(東)から望む。

2、クレタ中央部の同島最高峰イダ山(2456メートル)。同じくレシムノ(西)から。

3、レフカ・オリ山脈を北から望む。

4、最大都市イラクリオンから見えるイダ山系。

クレタ島地図。地図:OpenStreetMap

クレタ中心都市イラクリオンに着く

クレタにはこの船でやってきた。サントリーニ島からのフェリーは、アテネ(ピレウス)から直接来るフェリーよりも小ぶりだった。
クレタ島の最大都市イラクリオン(人口18万)の港には、中世ベネチア支配時代の砦(写真中央)がある。右遠方にはピレウスから来ている大型フェリー。
砦に入り、屋上に登ってみた。港が一望のもとに見渡せる。ピレウスからの大型フェリーも見える。
砦までの防波堤。さすがに防波堤だけあって、エーゲ海の荒波(右)も港内では静かになっている。防波堤がいい散歩道になって、散歩やジョッギングをする人も。イラクリオンの街がよく見える。中世の防波堤はこの砦までだったが、今はさらに先まで4キロほど続いている。
砦の中が博物館になっている。ヨーロッパ中世には、イタリア諸都市が地中海交易で覇権を握り、ベネチアは十字軍に乗じて東ローマ帝国を攻め、クレタなどを得た(第4回十字軍、1204年)。クレタ島はキプロス島と並ぶベネツィアの東地中海拠点となり、多くのヴェネツィア人が移住してきた。ベネチアの支配は1669年のオスマントルコによる征服まで続く。すでに東ローマ帝国領時代からこの地に砦はあったが、それをベネチア人が強化。Rocca a Mare(海の岩)と呼んだ。オスマン時代にはSu Kulesi(給水塔)と呼ばれ、それが現地の言葉Koulesとして残る。
防波堤の先まで行ってみよう。
防波堤の先端。ここまで4キロあり、空気もよく車も来ず、なかなかの散歩・ジョッギング・コースだ。
波止場先端からの港と街の眺め。近くの特徴的な三角山は見えるが、この日は雲で遠方の雪山(イダ山系)は見えなかった。
ベネチアは13世紀以来、街を強固な城壁で固めた。それが今に残る。城壁に沿って7つの砦と、1つの要塞(上記の港の城塞)がある。
むろん現在は城壁の外(左)にも市街が広がる。遠くにクレタ最高峰イダ山を望む。
市の中心部に立つアギオス・ティトス教会。ビザンチン時代の1961年に創建されたイラクリオン最古の教会。その後ベネチア時代にカトリック教会となり、オスマン時代にモスクとして再建された。ギリシャ領となった後の1925年から、再び正教会の教会に。雨が降ってきた。これまで東欧の旅で傘が欲しくなるほどの雨にはあわなかったが、ついにクレタで傘を買った。
イラクリオンのメイン通り「8月25日通り」。港から市の中心・ベニゼル広場をつなぐ。夏はこの辺は観光客でごったがえするはずだが、冬は閑散としていた。1897年8月25日、ここでトルコ人による虐殺があり、クレタ人約500名、イギリス兵17名が殺害された。以後、国際世論の高まりでトルコ軍はクレタから撤退。この日が、街のメイン通り名に刻まれた。
イクラリオンの近郊にはクノッソスの古代遺跡があり、その出土品がイラクリオン市内の考古学博物館に収められている。古代ギリシャ時代(古典時代)など他の時代の遺物も所蔵され、その中でこの彫刻がなぜか心に残った。墓地に収められた彫刻だが、父の死に対して妻や子どもが別れを告げている姿。古代ギリシャでは、墓地にはこうした死者を交えた彫刻を据えるのが習慣だったらしい。
西部の主要都市ハニアに出かけることにした。イラクリオンに次ぐクレタ第2の街で、1971年まではこちらがクレタ行政の中心だった。直通バスが1時間おきにあるのだが、この時間帯たまたま途中のレシムノまでしか行かないバスが来た。ちぇ、運が悪いと思いながら乗ったのだが、これが実は幸運だった。レシムノで降りると素晴らしい景色が広がり、思いもかけず、そこでたっぷり時間をとることになった。写真は西方向を望んだレシムノの街。右にベネチア時代の城塞の壁がはじまっている。遠くに見えるレフカ・オリ連峰の白い山々が息をのむほど美しい。天気がよかったのも幸運だ。
一方、東方向にはクレタ最高峰イダ山が見える。イラクリオンから見る反対側に相当。
ベネチア時代の城塞の上。1573年、オスマン帝国の攻撃に備えて街の北の高台につくられた。海と遠くのレフカ・オリ山脈の絶景が望める。城塞の建物はほとんどなくなっている。左の丸い屋根の建物はオスマン支配時代に建てられたもの。
静かなレシムノの住宅街。
次いで、きょうの目的地ハニアへ。なるほどベネチア風港町の風景だ。しかし、小雨交じりの天気になってしまった。ハニアは地中海からの北西風をまともに受け天気が悪くなるようだ。その防壁の後側となるレシムノは天気がよくなる、という構図らしい。
ハニアの街のたたずまい。
さて、次は島の南の方に行ってみよう。南部にはクレタとしては珍しく比較的大きな平原地帯「メサラ平野」がある。イラクリオン近辺と同じく、そこに古代から文明が栄えた。クノッソス宮殿と同時期のフェストス宮殿遺跡やゴルティスの都市遺跡だ。オリーブ油、ブドウなどの生産が盛んだ。
高台にあるフェストスの宮殿遺跡。クノッソスと同じく紀元前21世紀頃に建てられ、同17世紀頃に地震で崩壊し再建された。
しかし、クレタ南部のお目当てはマタラのビーチ。この海岸の崖に多くの洞窟があり、ここが1960年代後半~1970年代初めにヒッピーたちの世界に名だたる聖地になった。アメリカなどから多くの若者が集まり、この洞窟に住み着いて簡素(で奇妙)な生活を送った。有名ミュージシャンのジョニー・ミッチェルもここに住み「Carey」という歌をつくった。その他ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョップリンなどもここを訪れたという。
この辺の地形から穴をつくりやすかった。石器時代から人々が洞窟をつくり住んでいた。墓地としても利用された。そのもっとも最近の住人がヒッピーたちというわけだ。敬虔な正教徒である地元の反発を買い、やがて立ち退きさせらる。現在は考古学的史跡として公開されているが、住むのは禁じられている。ヒッピー文化に興味のある人達が訪れる。
2011年より毎年7月に3日間のお祭り「マラタビーチ・フェスティバル」が開かれ、野外コンサートなどが行われる。ヒッピー時代を懐かしむ人たちや若い世代が世界中から集まって来る。

平和を愛した「フラワーチルドレン」たちの思いは今も息づいているようだ。浜辺にウクライナ反戦の壁書きを見た。
マラタの村自体もヒッピー伝説やビーチで売り出し、観光開発が進んだ。ホテル、レストラン、別荘などが多い。冬なので閑散としていたが。