ピラミッドが残る 4500年前からのエジプト文明 

メソポタミア(現イラク近辺)に安々とは行けない今、行ける人類最古の文明の地はエジプトだろう。4500年前のピラミッドが今でもナイル河岸にそびえたっている。

ギザの三大ピラミッド。右からクフ王(146.6メートル)、カフラー王(143.5メートル)、メンカウラー王(65.5メートル)のピラミッド。もともとは、カフラー王ピラミッドの頂上付近に見られるように平らな化粧石で覆われていた。それがほとんどはがされてしまったので階段状に見える。このためクフ王ピラミッドは現在138.5メートル、カフラー王ピラミッドも頂点部分が少し削られて136.4メートルになっている。また、三大ピラミッドの左にさらに小さなピラミッドが見えるが、これは、付属する3つの王妃ピラミッド。撮影角度の関係で一つに見える。高さは30メートル程度。
夕暮れのピラミッド。
夜のピラミッド。晩に、ライトで照らされてショーが行われる。
スフインクスは三大ピラミッドのすぐ前にある。

最大のクフ王ピラミッド。紀元前2570年建造、高さ146.6メートル(原型)、底辺230メートル四方、傾斜51度50分40秒。
背景にカイロの街。ピラミッドの姿に何も解説を付ける必要はないのかも知れない。ただそこに存在する。悠然と、4500年もの間。

三大ピラミッドがよく見える高台のスポット。観光客が多い。
近づいてみよう。最も大きいクフ王のピラミッド。高さ146.6メートル(原型)、底辺230メートル四方。

ここからピラミッドの中に入れる。
狭くて急な階段がある。
中に空洞の部屋がある。
古代エジプト文明の出土品の多くは、カイロ中心部の考古学博物館に収められている。
2021年に正式オープンしたばかりのエジプト文明博物館(National Museum of Egyptian Civilization)。上記考古学博物館が遺物の保管場所という感じなのに対して、こちらは来館者に興味を起こさせるような展示。マルチメディアを駆使した展示も多い(紫色のミイラは映写画像)。先史時代からイスラム時代までの文明史が一つの大ホールの中に納まっている。地下には22体のミイラ(王18人、王妃4人)が展示されている。またこれとは別に、ギザのピラミッド近くにも大エジプト博物館(The Grand Egyptian Museum)が建設されており、2023年中にも開館の予定。
ピラミッドにラクダはつきもの。しかし、言っておくが、客引きプレッシャーがすごい。悠久の時の流れに浸っている余裕はない。現実の商売の世界に引き戻されること請け合いだ。それでよい。4500年前の昔も今も、人は食うために必死だった。
泊まった宿はピラミッドのすぐ近くだった。だいたいこの宿場周辺は、観光客相手の仕事を終えたラクダや馬たちが厩舎に帰っていく通り道だ。つまり通勤路。ロマンチックに聞こえるが、実は道がラクダ・馬糞でいっぱい。芳香も漂う。
街路に出てくるラクダもあり。
42年前にもピラミッドに来ているが、その時ピラミッドは砂漠の中にある印象だった。もちろん今もそうだが、その「小砂漠」のかなたに1000万都市カイロのスプロール化が進行していた。写真はギザのピラミッド砂漠域からさらに西方向を望んだ光景。2021年のカイロ人口は市部1010万人、都市圏万2190人と巨大化している。ギザのピラミッドはむしろ都市圏中心部近くになった。砂漠は農業時代には無価値だが、巨大都市の時代にはこんなありがたいものはない。何もない所に自由に高速道路を張り巡らしどんどん住宅街を開発していける。思い起こせば、米カリフォルニア、ロサンゼルスなども半砂漠地帯だった。
例えばこの郊外都市「オクトーバー6市」は、ピラミッドの西20キロの元砂漠地帯の住宅街。ギザのピラミッドがカイロ中心部から10キロなのに対して30キロ離れている。現在人口50万で将来的には600万都市になるという。GMエジプトなど大企業本社が立地し、スズキ、大宇など大手メーカーも工場をもつ。カイロ郊外には広域環状高速道路(全長400キロ、2018年完成)が走るが、そこまでさらに20キロはある。
こちらは、ピラミッドのナイル西岸とは逆になるが、東岸の郊外都市ニューカイロ市。カイロ中心部から25キロ離れた砂漠の中。現在人口50万で、将来的には500万になる予定という。
市中心部のカイロタワーからギザのピラミッド方向を望む。はるかかなたにうっすらと三角形が見える。現在でもカイロ市内にピラミッド(原型で146メートル)を越す高層ビルは多くない。(ただし、カイロ中心部から東へ50キロ、砂漠の中の新首都に393メートルの「アイコニックタワー」が建設中。)
母なるナイル。上流方向。カイロ市内でいくつか三角州をつくる。世界最長の大河だが、乾燥地帯を流れてくる上、灌漑その他で大量の取水もあり、幅(流量)は大きくない。都市域に囲まれて利根川下流程度にしか見えない。42年前にずっと南スーダンの方まで行ったが、そちらのナイルの方が雄大だった。
母なるナイル。カイロ南のヘルワン付近の船着き場で。

ピラミッド造営は職を与える人民救済の公共事業だった?

ピラミッドは奴隷をこき使ってつくらせた巨大建築、ではなく、農閑期に仕事のなくなる人民の生活を支えるため行った公共事業だ、との説がある。ドイツ生まれの英国の物理学者にして考古学者のクルト・メンデルスゾーン(1906~1980年)が1974年の著作The Riddle of the Pyramids(邦訳『ピラミッドの謎』1976年、文化放送)で発表した。明確な史料や物証はないが、それを否定する証拠もなく、ある程度受け入れられているという。(なお、王の墓ではないということもほぼ確定したようだ。)

何とすばらしいことだ。そしてこのピラミッドは4500年たった今でも、人民の生活を確固として支え続けている。コロナ禍以前の2019年、エジプトには1300万人の外国人観光客が訪れ、観光収入は130億ドルに上った。観光関連産業はGDPの12%を占め、観光関連の労働者は全体の約10%、約250万人に上るという。ギザのピラミッドのみでは年間1470万人が訪れるという(国内旅行者を含むと思われる)。あこぎな客引きやぼったくりタクシーを含めて250万の人々が4500年前の人民救済事業からいまだに生活の糧を得させて頂いているのだ。泰然と存在し続けるピラミッドにあらためて驚嘆せざるを得ない。

高さ数千メートルの構造物がそびえるる

結果として人民救済になる側面はあっただろう。しかし、人民救済なら新田開発や灌漑工事、あるいは古代ローマのように競技場や浴場をつくってもよい。用途不明の巨大建築をそのためにわざわざつくらないだろう。では何のためのものか。一歩踏み込むと、専門家の間でもまだ謎だらけだという。祭祀施設、日時計、天体観測所、穀物保管所、貴金属保管所、災害からの避難所…?

今でもピラミッドに近づくとその150メートルの高さと幅200メートル広がりに圧倒される。その感覚から、素人目には建設の狙いは明白のように思える。ただただその巨大さだ。神々しいまでの巨大さを実現してそこに王朝権威の根源を示した。

数百メートル級の高層建築が普通の現代的感覚からこれを見てはいけない。当時は、恐らく最高で十数メートル程度の建築しかなかったはずだ。そこに150メートルのピラミッドをつくってしまった。10倍だ。現代で言えば数百メートルの高層ビルしかないところにいきなり高さ数千メートルの構造物が現れたようなものだ。しかも横にも広い山のような存在で、表面が白く輝く数千メートルの高さの人工構造物。そこで人々が何を感じるか考えてみたらいい。ただただ恐れおののく。しかもそこにはオリオン座や天の川など天空との近似がある云々、夏至のときの光線の方向云々、恒星シリウスとの位置関係云々、などいろいろ細工も仕込まれている。全宇宙の運行と連動するファラオが存在している、と人民におののかせるに充分な仕掛けだった。

人類が生み出した最古の国家・王朝は、その根拠となるこのような構造物をつくった、つくる必要があった、という事実をここでかみしめておきたい。

3000年続いた文明、が滅びた

エジプトでは紀元前3150年頃に統一王朝が築かれ、紀元前2500年頃までにはギザの三大ピラミッドが揃い、最後の王朝プトレマイオス朝が紀元前30年に滅ぶまで古代エジプト文明は3100年以上続いた。

徳川300年どころではない、3000年だ。この時代の中の人々はその文明に始まりがあり終わりがあることを認識できたろうか。その社会は太古の昔から未来永劫に続く世界そのもので、ナイル川は8月頃から10月頃まで毎年定期的に氾濫して沃土を与え、ピラミッドは河岸の人々の生活をずっと見続けていた…。

しかし、考えたいのはその悠久の歴史ではなく、それが滅びたということだ。紀元前30年にローマの軍門に下り、その後東ローマ帝国下を経て、639年にイスラム帝国に滅ぼされる。その後、1517年からのオスマントルコ時代を含めてエジプトは全面的にイスラム化される。かつての太陽神崇拝の古代宗教はローマ時代のキリスト教を経てイスラム教に取って代わり、言語さえもアラビア語に置き換えられていった。そびえつづけるピラミッドはそこで何を見たのか。偉大な古代文明の子孫たちはその継承者であることもほぼ忘れ去った。過去の文明の人たちは現代のエジプトを見て何を思うだろうか。

いや、それでいいのか。1万年以上続いた縄文文明に居た人々はある時点から中国文明を受け入れ、150年前からは欧化し、太平洋戦争後にはかつての戦争相手国アメリカの文明にどっぷりつかってきた。かくいう私も…

もうよかろう。エジプト以上に変わり身の早かった我々は彼らをよく理解できる。言語、宗教も含めて一つの文化を維持することよりもっと大切なことがある。エジプト文明は、新しく現れた先進文明イスラムにどっぷり染まった。そして今では、むしろアラブの盟主になっている。もっと大切なこと、常に新しい環境と歴史的変遷の中で人々がたくましく生きること、そういう人としての強さの大切さを人類最古の文明は示しているかも知れない。活力あるカイロの喧騒に身を置きながらそんな理解が芽生えた。

イスラム時代のカイロ

ピラミッドを見てしまった後は、他の観光名所に行く気がなくなった。カイロに何しに来る?ピラミッドでしょう。で、ぶらぶら街を歩き回ったのだが、「あれ、何かこの辺アジア人多いな、中国人かな、日本人かな」という場所が所々ある。それが観光名所だった。写真は古い中心市街アズハル地区のムイッズ通り。イスラム尖塔が林立し、まわりに土産物店が多い。
アズハル地区の中心に立つモスクやマドラサ(高等教育施設)の複合施設。左がファーティマ朝時代970年創建のガーマ・アズハル、中央がオスマン朝時代1774年に建てられたガーマ・アブル・ダハル。
そこからアタバ広場付近までは、活気ある市場、スーク・イル・アタバが広がる。人出が尋常でなく、早く歩けずウォーキング運動にならない。
アズハル地区の北、ムイッズ通りの北端周囲には城壁が残る。ナスル門付近。11世紀のファーティマ朝時代に建てられた。

コプト教徒の街「オールド・カイロ」

それよりさらに古い7世紀。アラビア半島に成立したイスラム帝国は、現カイロの地にあったバビロン城を攻略し、この地をエジプト支配の拠点とした。カイロの始まりだ。その地が「オールド・カイロ」として現存する。写真は、その入口に立っている聖ジョージ修道院。同教会は10世紀頃に建てられたものだが、かつてのバビロン城はこの場所に立っていたという。
オールド・カイロの中。この辺は陶器製造所が集中している場所だった。オールド・カイロは原始キリスト教の流れを組むコプト教の人々が今でも暮らす。コプト教は東ローマ帝国内で異端とされ弾圧されていた。それで7世紀にイスラム勢力が入ってきたとき、コプト教徒はキリスト教だが、イスラム勢力に協力した。イスラム時代を通じてコプト教を保持し、言語も古代エジプト語に近いコプト語を守った。現在、エジプト人口の約1割がコプト教徒という。これまで知らなかったが、さすがエジプト、単純には割り切れない深い歴史があるものだ。
コプト教徒の文化を伝えるコプト博物館で。宗教画にはビザンツ絵画の影響が見られるが、ユーモラスな感じもある。キリスト教の修道院は、エジプトの砂漠で修業したコプト教徒の共同体から生まれたという説明があり、興味深かった。

シタデルを拠点にしたイスラム王朝

カイロ東部の丘にそびえるシタデル(城塞)。再びイスラム王朝時代に帰るが、11世紀末からはヨーロッパからの十字軍の侵攻がはじまり、エジプトではアイユーブ朝時代の1176年、十字軍に対応するため、現カイロ東部のムカッタの丘に堅固なシタデルが築かれた。その後もオスマン朝に至るまでこの要塞が強化され、700年にわたり支配階級の居住区となった。
シタデルからは市内が一望のもとに見渡せる。
むろん、シタデル内にモスク(ガーマ)もつくられた。比較的新しいオスマン朝時代の1857年に建造されたガーマ・ムハンマド・アリ(写真)が壮大だ。巨大ドーム型でイスタンブールのモスクをモデルにしている。
内部もイスタンブールのブルーモスク、アヤソフィアなどを彷彿とさせる。
1874年に完成したムハマンド・アリー朝の宮殿「アブディーン宮殿」。欧化政策を進めるイスマーイール・パシャが建てたもので、シタデルを拠点にしていた王朝がこれを機にここに移転。現カイロ中心部に近い。1952年のエジプト革命で革命勢力が宮殿を包囲。王朝は崩壊し国王は国外追放となった。現在、宮殿は大統領府となり、一部は博物館として公開されている。

現在の中心街

現在のカイロの中心部。高台から徐々にナイル近くに移動してきたことになる。右の赤っぽい建物が考古学博物館で、その右(南)一帯がタヒール広場。市の中心と目され、2012年「アラブの春」運動ではここで大規模なデモが繰り返された。
「アラブの春」でのタヒール広場デモ。2011年2月8日。Photo: Mona, Wikimedia Commons, CC BY 2.0
この移り変わりをナイル川はずっと見続けてきた。文化が変わり、言語が変遷し、王朝が倒れ、ピラミッドさえいずれ朽ちようとも、ナイルの流れは続くだろう。