アンカラ探索

アンカラでも、躊躇なくネット検索最安の宿を予約。イスタンブールの最安宿よりも安い1泊1200円でシャワートイレ付個室。明らかに洗って乾かした形跡のあるシーツがベッド・ブランケット双方に付き、お湯も出れば暖房もある。文句ない、あ、いやちょっとトイレからの「ぬめり臭」…気にしなければよい。

安宿で駅から遠かったのだが、アンカラの古くからの旧市街地ウルスに近かったのは意外だった。高台に観光名所「アンカラ城」の雄姿(写真)が望める。アナトリア文明博物館、古代ローマの神殿遺跡(アウグストゥスとローマの神殿)、古代ローマ浴場、野外劇場跡なども近い。
アンカラは基本的には20世紀に首都となってからつくられた近代都市だ。しかし、紀元前から砦などを作って人が住んでいた。紀元前8世紀にフリギア人が、紀元前3世紀にガラティア人がこの崖の上に砦をつくっていた。現存する砦は、東ローマ(ビザンツ)帝国時代の7世紀に建てられたもの。
宿のある北の方からこの砦に向かうと、対岸の崖には荒れた土地が広がる。かつてのスラムÇinçin地区で、2005年に始まる再開発で家屋が取り壊された薬物問題や犯罪の巣窟で、警察も入れないところだったという。追い出された人たちはどうしているのか。近くの近代的な高層アパートに移転したとは聞くが。
アンカラ城のふもとには古代ローマの野外劇場跡の遺跡があった。
近くには古代ローマの遺跡として重要な「アウグストゥスとローマの神殿」跡がある(写真左)。25〜20年頃に建造。初代ローマ皇帝アウグストゥスの功績を記した『神君アウグストゥスの業績録』のコピー碑文が残っていた。ローマにあった原本は消失している。ただ、この遺跡は、オスマン時代からの有名なモスク「ハジュ バイラム・モスク」(右)の隣、というよりほとんどその敷地内にあって、影が薄い。
やや離れたところには古代ローマの浴場跡も。ローマは広大な帝国内に何百という公衆浴場や野外劇場をつくっている。
オスマン時代のウルスの街を復元するかのような歴史的街並みが整備されている。きれいになったが、あまり「年代物」の雰囲気がなく、来る人も多くない。誤解を恐れず言えば、イスラム文化というのはある意味「近代」なのだと私は考えている。白壁の近代的住宅の雰囲気。宗教自体も偶像を禁じて直接に抽象的な神に対するなど、キリスト教に勝る近代的合理性を本来はもっていた。
さて、いよいよアンカラ城に入ろう。アンカラ城は城壁に囲まれた町。縦350メートル、横150メートルの横長の形。一番奥に、崖に面し内壁で囲まれた砦がある。写真は城壁町への入り口。左に時計台。
城壁の中は、オスマン時代の人々の街。入口付近は土産物屋も多い。
一番奥の砦の方に向かっていく。
これが砦の内側だ。何もない。ゴミやがれきが散らばっている。
下から見るとこうなのだが。昔の人にとっては安全保障こそが何よりも大切だった。こんな崖の上では作物を育てるのも水を使うのも交易もすべて難しかっただろうが、街は高台の、それも多くの場合城壁の中につくられた。
砦からはアンカラの町全体がよく見渡せる。
北方の丘に広がるスラム取り壊し跡の光景。人の住む家々の風景よりも、ずっと凄惨なイメージがある。野犬がこの辺に巣くっているようで、下の道路を歩いているとき、私も襲われた。ズボンのすそに嚙みつかれたが、幸い皮膚に到達しなかったので助かった。何年か前、ベトナムで犬にかまれたときは、狂犬病対策の複数回予防接種で大変だった。
アンカラ城の頂上、砦付近にも民家があって人が住んでいる。屋根に犬が居た。
こんな崖の上の吹きっさらしのところにも人が住んでいるのに驚いた。廃屋ではない。戸から出てきた住人と目があった。
アンカラ城を少し降りたところに、アンカラのもう一つのハイライト、アナトリア文明博物館がある。1997年にヨーロッパ最優秀博物館賞(European Museum of the Year Award)を受賞した博物館だ。トルコがイスラム化する以前、旧石器時代から東ローマ帝国時代までのアナトリアの文化遺産が展示されている。特に古代エジプト文明と同時期にアナトリアに起こったヒッタイト文明に力が入れられている。ヒッタイトは世界史上初めて鉄器を生産・利用した。また最近では、人類史を書き換えるとも言われるギョベクリ・テペ遺跡(トルコ南東部、紀元前1万年から紀元前8000年頃の神殿などの遺跡)の存在が明らかになっている。まだほんの一部が発掘されただけで、予備調査では1万4000年~1万5000年前の遺跡が眠る可能性も指摘される。メソポタミアよりも古い人類最古の文明は実はアナトリアに起こっていたかも知れない。
トルコ南部のチャタル・ヒュユク遺跡から出土した牛の壁画。チャタル・ヒュユク遺跡は紀元前7500年にさかのぼる世界最古の都市遺跡とみられている。
紀元前5750年頃の地母神像。大地の豊饒さを示す。
ヒッタイト(紀元前15世紀~13世紀)のレリーフ。ヒッタイトは鉄器の生産開始の他、このような戦車(チャリオット)の発明でも知られる。エジプト王国と拮抗して中東に帝国を築いた。
コジャテペ・ジャーミイ(モスク)。1987年完成時にはアンカラ最大のモスクで2万4000人が収容可能。88メートルの4つのミナレットをもち、白を基調とした建物が美しい。現在では、2万8500人収容可能のサバンチ・モスク、6万8000人収容可能のカムリカ・モスクなどさらに巨大なモスクがアンカラにできている。
アタデュルク廟。建国の父ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881 – 1938年)の霊廟として1953年に完成。アンカラが見渡せる丘の上にある。ちょうど衛兵の交代時間だった。
霊廟の中にあるアタテュルクの柩。防腐処理された遺体が眠る。
霊廟の下の建物が博物館になっている。アタテュルクの功績が示されている。霊廟に向かって右側から入り、この左手から出てくる。
街の中心クズライ地区の賑わい。
市の南西部ソグトズ地区には近代的な高層ビルが並ぶ。アンカラのバスターミナル(Astiターミナル)に近い。ここから長距離バスに乗ればこの界隈を通るだろう。
アンカラ駅の北側に韓国系の庭園があった。何だと思ったら朝鮮戦争で亡くなったトルコ人の慰霊碑だった。1950~53年の朝鮮戦争で、741人のトルコ兵士が死亡し、163人が行方不明になったという。
電車の中からも見えた丘の上に駆け登っている住宅街シェンテペ地区(写真中央)。行ってみたいと思った。何でも都市型ロープウェイが通り、眺めもいいという。ここも当初は違法建築が立ち並ぶスラム地域だったらしいが、新しく再開発された。地下鉄でロープウェイの起点イェニマハレ駅まで行けば簡単なのだが、事情で、 高速道路(Cumhurbaşkanlığı大通り、写真左側)の高速鉄道オーバーパスあたりから行くことになった(高速鉄道の線路は、見えないが、右下手前)。ちょうど、右手の方には公園緑地もあるようなので行きやすい、と思ったのだが…。
何とそこは、公園ではなく農地だった。横切れない。何件か古い農家があり、そこを通る道もあったのだが、犬が居て近寄れない。ここはアンカラ駅にも近い都市のど真ん中だ。そこにこんな広大な農地が残されているのが不思議だ。丘の方は見たとおり、密集した住宅街になっている。高台に家をつくり低地には住まないという風土が今の時代にも生きているのか。
道とは言えない農道を進んでいくとÇubuk川に阻まれる。橋はない。小さい川だが飛び越えられるほど狭くもない。結局遠回りして大通りに出て北方に向かった。
イェニマハレ・シェンテペ・ロープウェイの駅に着いた。町の上空をロープウェイが走る不思議な光景。ロープウェイは2014年6月に完成。起点・終点含めて4駅があり、全長3257メートル。標高差200メートル。アンカラの標高が850メートルだから、終点のシェンテペ駅は1000メートルを超えていることになる。日本でも、2021年に横浜のみなとみらい地区で都市型ロープウェイ「YOKOHAMA AIR CABIN」(総延長635メートル)が運行を開始している。
ロープウェイの乗り場。何と運賃は無料だった。高低差の大きい住宅地に住む市民への利便性を図ったということか。金曜の午後だったが、そんなに混んではおらず、ほぼ1人でキャビンを占領できた。106キャビンが動いており、1時間に最大2400人を運べるという。
いよいよ出発。
シェンテペ地区は、違法建築を取り壊した後、主に公務員の住居として大規模な再開発が行われた。ほとんどが中高層のアパートだ。
遠くの山並みも見えてきた。 
下の方を見ると、さきほど苦労して越えてきた農地も見える。日本ならまず低地に家が建ち、山には森が残されると思うのだが。
都市型ロープウェイだ。決して山の上に登るわけではない。終点に近づくと逆に下がる。前方が終点のシェンテペ駅。一番高いところまで来たから眺めがいい、とは言えないようだ。
はるばるロープウェイで登ってきて、降りたらそこに普通の街があった。駅前の街の賑わい。しかし、確かに標高が1000メートルを超えるだけあって、わずかに寒くなったのを感じた。公務員の街というから、中産階級の人々が住むのだろう。前日街の中で探してなかなか見つからなかったVodafone携帯の取り扱い店が駅前にすぐ見つかったことでもそれが確認できた。しばらくできていなかった料金トップアップがすぐできた。(トルコではTurktelのお店はたくさんあってもVodafoneのお店は少ない。)