トルコ黒海最大の港町サムスン
黒海南岸の都市サムスンに着いた。海の対岸はウクライナだ。こちら側は平和な暮らしがあるのに、対岸では悲惨な戦争が続いている。
トルコ語と韓国語
脱線するが、トルコ語って韓国語に似ている気がする。街で会話が聞こえてきて「お、韓国人かな」と思うことが何度かあった。音韻、響きが似ているということなのだが、トルコ語と韓国語を勉強している人も別の音韻の観点からそう感じるという。もちろん、同じアルタイ語系なのだから文法も当然似ているのだろう。
ということは日本語とも似ているのかも知れない。私にとってトルコ語は理解できない言葉だから聞いても日本語とは思わず「韓国語」に聞こえるということか。韓国人がトルコ語を聞いたら「日本語」に聞こえたりするのだろうか。
そんなことを考えているとき、次の目的地がサムスンになったので驚いた。サムスン(Samsun)は、韓国の電子機器メーカー、サムスン(Samsung)そっくりだ。しかし、いろいろ調べるとまるで関係ない語源のようで、ただの偶然だった。読者の中にも「なんでトルコにサムスンの街があるのか」と驚く人がいるかも知れないので、一言おことわり。
地中海に似ている
サムスンから東のトラブゾンに向かう。黒海南岸をずっと東進するわけだ。バスの窓から黒海がずっと見えている。天気がよいからだが、地中海地域を旅しているような気がしてきた。普段この地域は雨や曇りの日が多いらしいが、こ2,3日ずっと晴れている。黒海は黒くなく、青く映えわたる。太陽がまぶしい。
黒海沿岸は、冷涼なトルコ高原の北にあるので温暖なイメージはないだろう。しかし、実は緯度的にはベネチア、ジェノバ、マルセイユ、バロセロナよりも南なのだ。天気さえよければ地中海に見えておかしくない。かつて古代ギリシャの植民地があり、ベネチア人も交易拠点をつくっていたというのもわかる。黒海北岸のクリミアがソ連人にとって夏のバカンス地だったのだから、その南岸が地中海でもおかしくない。
中世トラビゾンド帝国の流れを汲むトラブゾン
そして夕刻、トラブソン(人口30万)に着いた。サムスンより一回り小さい港湾都市。しかし、歴史的伝統は負けず劣らず。1204年に東ローマ帝国の流れを汲む「トラビゾンド帝国」の首都となり、1461年にオスマン帝国に滅ぼされるまで独立王国を築いていた。
マルコポーロも最後はここにたどりついた
歴史的にトラブゾン(トラビゾンド)は重要な港湾都市であり、シルクロードの有力交易都市だった。黒海貿易、東方貿易の拠点の位置を占めた。イタリア商人にとっても中世トラビゾンドは黒海貿易の要衝であり、今でもイタリア語で、方向感覚を失うことを「トラビゾンドを見失う」(perdere la Trebisonda)と言うらしい。
1271年から1295年までユーラシアを旅し『東方見聞録』をものにしたベネチア商人、マルコ・ポーロは、陸路の旅をここトラブゾンで終え、そこから船でベネチアに帰っている。
20世紀初頭までイスタンブール、イズミールに次ぐ港湾都市として繁栄したが、第一次大戦後、東方のコーカカスがソ連領になるなどして交易拠点としての地位を減じた。冷戦終結後には復活の兆しがある。
おとぎ話の国のようなトラビゾンド
トラビゾンド帝国は、第4回十字軍の攻撃(1203年)で一旦はコンスタンチノープルを追い出されたビザンツ帝国(東ローマ帝国)が地方で再興を図ったいくつかの継承国家のひとつだ。しかし、その背景には、ジョージア王国など周辺勢力からの支持や、東西貿易・黒海貿易の海港拠点、アナトリア内陸を通じたイラン方面との交易などの経済的基盤があり、独自の世界を形づくっていた。1453年に、ビザンツ帝国が最終的にオスマン・トルコに滅ぼされてからも、このトラビゾンド帝国は8年ほど長らえた。ローマの伝統を受け継ぐ歴史的勢力は、1461年、このトラビゾンド帝国の滅亡ともに完全に途絶えた。
しかし、トラビゾンド帝国はこの地に250年以上にわたり繁栄をもたらし、正統的ローマの伝統とともに、キリスト教の信仰も興隆させた。西ヨーロッパから来た者たちは、このキリスト教世界の辺境で栄える「おとぎ話のような国」に魅了されたという。セルバンテスが『ドン・キホーテ』で、時代錯誤の主人公が、玉座に登りたいと願った王国として「トラピソンダ帝国」を出しているのも、そういう事情だろう。
ジョージア国境へ
さて、先を急ごう。トラブソンからさらに東に。ジョージアとの国境を目指す。いよいよコーカサス地方だ。
リゾート都市、バトゥミ
中央アジアに向かうのはやめた
黒海沿岸東進の後、コーカサス地方を抜け、カスピ海を渡り、シルクロード沿いに中央アジアに行く予定だった。旧ソ連国を多く訪問する。しかし、やめた。ジョージアからアゼルバイジャンに陸入国できないことがわかったからだ。アゼルバイジャンがロシア人の流入を阻止するため、一律に外国人の陸路・海路入国を禁止してしまった(空路入国は可)。
中央アジアに行くには、貨物船での渡海しかないカスピ海横断が最大の壁だと思っていた。しかし、こっちからアゼルバイジャンに入ることができない。急速にやる気がなくなった。ジョージアのトビリシからアゼルバイジャンのバクーまで飛ぶのはばからしいし、それなら2倍程度の航空料金を払ってカザフスタンのアスタナあたりまで飛んだ方がスムーズで安上がりでもある。しかし、それでは「シルクロードの旅」にはならない。そもそも、こんなに簡単に陸路を閉ざすようでは、期待されるロシアを回避したユーラシア・ミドル回廊の構築など遠い先の話だ、という気がしてくる。期待をかけて行く気力がなくなった。
陸路、鉄道でのユーラシア交通、というのは夢があるが、やはり現実的ではない。陸上の交通は多くの国を経なければならないが、民族が互いに対立して一貫したルートの構築は難しい。やはり、自由に航行できる海路に優位性がある。輸送量も段違いに大きい。「新時代のシルクロード」の夢が少し萎えた。
コーカサス地方はジョージア、アルメニアに留め、引き返すことにした。代わりに北方のウクライナ周辺、つまりハンガリー、ポーランド方面に向かえばいいだろう。
これから、ジョージア首都トビリシ、アルメニアのエレバン、ギュムリとまわり、またバトゥミに帰ってくるので、バトゥミについてはまた後で紹介する。