黒海南岸を東に サムスンートラブソンーバトゥミ

トルコ黒海最大の港町サムスン

黒海南岸の都市サムスンに着いた。海の対岸はウクライナだ。こちら側は平和な暮らしがあるのに、対岸では悲惨な戦争が続いている。

黒海に面したサムスンの街。海上のかなたにウクライナ…は見えない。
黒海のこちらがわでは穏やかな生活が続いていた。港近くのサムスンの庶民街。
サムスン港。サムスン(人口70万)は、トルコ黒海沿岸の最大都市にして、最大の港を有する。ウクライナとも活発な貿易があった。
サムスンの街。山が迫り平野がほとんどない。トルコの黒海沿岸はどこも急峻な山岳が海に迫る地形だ。ただサムスンの場合、すぐ西(写真裏手)でトルコ最長のクズル川が、東(写真遠方の山向こう)でイーシル川が黒海に注ぎ、それぞれ比較的大きな沖積平野をつくっている。それがこの街が発展する要因の一つだったのではないか。
イーシル川河口にできた沖積平野。山が後退している。
郊外に拡張する住宅街。郊外の広々とした地域でも、一戸建てでなく高層階マンションが建つのがトルコの(あるいは東欧、ヨーロッパの)特徴だ。
同上。広大な面積に一戸建てが広がるアメリカ的郊外よりいいのではないかと思う。
サムスンの歴史は古く、紀元前8世紀頃から古代ギリシャ人が植民都市Amisosをつくっていた。その後、ペルシャ、ローマ、セルジュク・トルコなどの支配を経ながら、中世には一時期ジェノバ人の交易都市ともなっていた。15世紀にオスマン・トルコに征服されたが、ジェノバ人たちは逃亡の際、街を破壊したとさえれる。そのため歴史的な資産はあまり残っていない。近代史では、ケマル・アタチュルクの軍勢が1919年、この街から革命の戦いを開始したことで知られる。トルコ革命はサムスンに始まり、イズミールで完結したことになる。

トルコ語と韓国語

脱線するが、トルコ語って韓国語に似ている気がする。街で会話が聞こえてきて「お、韓国人かな」と思うことが何度かあった。音韻、響きが似ているということなのだが、トルコ語と韓国語を勉強している人も別の音韻の観点からそう感じるという。もちろん、同じアルタイ語系なのだから文法も当然似ているのだろう。

ということは日本語とも似ているのかも知れない。私にとってトルコ語は理解できない言葉だから聞いても日本語とは思わず「韓国語」に聞こえるということか。韓国人がトルコ語を聞いたら「日本語」に聞こえたりするのだろうか。

そんなことを考えているとき、次の目的地がサムスンになったので驚いた。サムスン(Samsun)は、韓国の電子機器メーカー、サムスン(Samsung)そっくりだ。しかし、いろいろ調べるとまるで関係ない語源のようで、ただの偶然だった。読者の中にも「なんでトルコにサムスンの街があるのか」と驚く人がいるかも知れないので、一言おことわり。

地中海に似ている

サムスンから東のトラブゾンに向かう。黒海南岸をずっと東進するわけだ。バスの窓から黒海がずっと見えている。天気がよいからだが、地中海地域を旅しているような気がしてきた。普段この地域は雨や曇りの日が多いらしいが、こ2,3日ずっと晴れている。黒海は黒くなく、青く映えわたる。太陽がまぶしい。

黒海沿岸は、冷涼なトルコ高原の北にあるので温暖なイメージはないだろう。しかし、実は緯度的にはベネチア、ジェノバ、マルセイユ、バロセロナよりも南なのだ。天気さえよければ地中海に見えておかしくない。かつて古代ギリシャの植民地があり、ベネチア人も交易拠点をつくっていたというのもわかる。黒海北岸のクリミアがソ連人にとって夏のバカンス地だったのだから、その南岸が地中海でもおかしくない。

サムスンのバス・ターミナル。中央の大型バスに乗り、黒海沿いを東のトラブゾンに向かう。
黒海沿岸はずっとこんな風景が続いた。左手に青い海、右にはアナトリア高原から張り出した山。平野の少ないリアス式海岸で、黒海がボスポラス地峡決壊の大洪水で形成されたという説が納得できる。
黒海が地中海に見える。
海の色も深い青。
途中、このような港をいくつか見た。黒海は多様な民族の交易の海であり、1992年に沿岸諸国で黒海経済協力機構(BSEC=Organization of Black Sea Economic Cooperation)を結成している。現加盟国は12か国で、そこにはウクライナもロシアもトルコも入っているのだが。

中世トラビゾンド帝国の流れを汲むトラブゾン

そして夕刻、トラブソン(人口30万)に着いた。サムスンより一回り小さい港湾都市。しかし、歴史的伝統は負けず劣らず。1204年に東ローマ帝国の流れを汲む「トラビゾンド帝国」の首都となり、1461年にオスマン帝国に滅ぼされるまで独立王国を築いていた。

高台から見たトラブソンの街。

マルコポーロも最後はここにたどりついた

歴史的にトラブゾン(トラビゾンド)は重要な港湾都市であり、シルクロードの有力交易都市だった。黒海貿易、東方貿易の拠点の位置を占めた。イタリア商人にとっても中世トラビゾンドは黒海貿易の要衝であり、今でもイタリア語で、方向感覚を失うことを「トラビゾンドを見失う」(perdere la Trebisonda)と言うらしい。

1271年から1295年までユーラシアを旅し『東方見聞録』をものにしたベネチア商人、マルコ・ポーロは、陸路の旅をここトラブゾンで終え、そこから船でベネチアに帰っている。

20世紀初頭までイスタンブール、イズミールに次ぐ港湾都市として繁栄したが、第一次大戦後、東方のコーカカスがソ連領になるなどして交易拠点としての地位を減じた。冷戦終結後には復活の兆しがある。

トラブゾン港に船が入ってくる。
歴史あるトラブゾン港。中央の岬の先、旗が建っているあたりが、かつてイタリア商人などが拠点をおいた「ヨーロッパ地区」。その手前がフェリー発着場。2014年から停止されているロシア領ソチとのフェリー便がこの5月に再開するとの報道もある。
トラブソンでも例のごとく「個室最安ホテル」に泊まったのだが、港と黒海がよく見える4階の部屋だった。やはり何かの因縁がある。写真は部屋の窓からの眺め。
歩行者天国になった市のメインストリートKahramanmaraş通り。
メインストリートの中心部。銀座四丁目相当か。
この通りに沿ってトラブゾン市博物館があった。美術品を中心としたトラブゾン博物館が改修中で入れなかったが、こちらで十分内容ある展示が見れた。
トラブゾン市博物館の中。この地域の歴史、民俗の展示があり、トラブビゾンド帝国の歴史も知ることができた。すぐれた博物館があるということは素晴らしいことだ。その地域の歴史的文化的アイデンティティを明確に掲げてくれる。トルコの単なる一地方都市でなく、独自の歴史を歩んだトラビゾンドの世界があったことを教えてくれる。その歴史があったから、こういう素晴らしい博物館もできた。
同上。

おとぎ話の国のようなトラビゾンド

トラビゾンド帝国は、第4回十字軍の攻撃(1203年)で一旦はコンスタンチノープルを追い出されたビザンツ帝国(東ローマ帝国)が地方で再興を図ったいくつかの継承国家のひとつだ。しかし、その背景には、ジョージア王国など周辺勢力からの支持や、東西貿易・黒海貿易の海港拠点、アナトリア内陸を通じたイラン方面との交易などの経済的基盤があり、独自の世界を形づくっていた。1453年に、ビザンツ帝国が最終的にオスマン・トルコに滅ぼされてからも、このトラビゾンド帝国は8年ほど長らえた。ローマの伝統を受け継ぐ歴史的勢力は、1461年、このトラビゾンド帝国の滅亡ともに完全に途絶えた。

しかし、トラビゾンド帝国はこの地に250年以上にわたり繁栄をもたらし、正統的ローマの伝統とともに、キリスト教の信仰も興隆させた。西ヨーロッパから来た者たちは、このキリスト教世界の辺境で栄える「おとぎ話のような国」に魅了されたという。セルバンテスが『ドン・キホーテ』で、時代錯誤の主人公が、玉座に登りたいと願った王国として「トラピソンダ帝国」を出しているのも、そういう事情だろう。

トラビゾンド時代につくらたスメラ修道院。険しい山岳の崖をくりぬいてつくられた。Photo: Bjørn Christian Tørrissen, Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
市内には、コンスタンティノープルのアヤ・ソフィアに似せて、小さいながらトラビゾンドのアヤ・ソフィアも建設された。
トラブゾンの街を守る城壁。1世紀のローマ帝国時代からビザンツ、トラビゾンド、オスマンの時代を通じて増強されてきた。
城壁の前でちょうど桜が満開になっていた。4月半ばだった。

ジョージア国境へ

さて、先を急ごう。トラブソンからさらに東に。ジョージアとの国境を目指す。いよいよコーカサス地方だ。

トラブソンのバスターミナル。国境の町まではマイクロバスになる。
トラブソンの街を抜ける。道路は依然として片側二車線の高速道路に近い道だ。
右にはポントス山脈に至る山地帯がせまる。
左には黒海。ずっと同じ構図のルートが続く。
リセの街を越える頃には、前方に白い山並みが見えてきた。ポントス山脈の4000メートル近い高峰だろうが、そろそろ南コーカサス(小コーカサス)の山脈ともつながってきているはずだ。
同上。
やがて、国境に近いホパの街が見えてきた。
その街を越えると、国境越えの長いトラック車列。
そしてトンネルを抜けると、この国境検問のビルが現れる。ここでトラブソンからのミニバスは終点。ビルの中で出国手続きをして、長い廊下をずっと歩いて行って建物の向こう側でジョージアの入国手続きをする。ジョージアに入ったらまた別のバスを捕まえてバトゥミまで行く。

リゾート都市、バトゥミ

おお、何とものすごいところに来てしまった。バトゥミは黒海東岸有数のリゾート都市。高級ホテルやリゾートマンションが林立する。「黒海の真珠」と言われるが、カジノ産業も発達し「黒海のラスベガス」とも言われる。
同上。
おお、ここはどこだ。南カリフォルニアのサンタモニカかベニスビーチか。
同上。
巨大なカジノ場もあるぞ。
おお、日本庭園まである。

中央アジアに向かうのはやめた

黒海沿岸東進の後、コーカサス地方を抜け、カスピ海を渡り、シルクロード沿いに中央アジアに行く予定だった。旧ソ連国を多く訪問する。しかし、やめた。ジョージアからアゼルバイジャンに陸入国できないことがわかったからだ。アゼルバイジャンがロシア人の流入を阻止するため、一律に外国人の陸路・海路入国を禁止してしまった(空路入国は可)。

中央アジアに行くには、貨物船での渡海しかないカスピ海横断が最大の壁だと思っていた。しかし、こっちからアゼルバイジャンに入ることができない。急速にやる気がなくなった。ジョージアのトビリシからアゼルバイジャンのバクーまで飛ぶのはばからしいし、それなら2倍程度の航空料金を払ってカザフスタンのアスタナあたりまで飛んだ方がスムーズで安上がりでもある。しかし、それでは「シルクロードの旅」にはならない。そもそも、こんなに簡単に陸路を閉ざすようでは、期待されるロシアを回避したユーラシア・ミドル回廊の構築など遠い先の話だ、という気がしてくる。期待をかけて行く気力がなくなった。

陸路、鉄道でのユーラシア交通、というのは夢があるが、やはり現実的ではない。陸上の交通は多くの国を経なければならないが、民族が互いに対立して一貫したルートの構築は難しい。やはり、自由に航行できる海路に優位性がある。輸送量も段違いに大きい。「新時代のシルクロード」の夢が少し萎えた。

コーカサス地方はジョージア、アルメニアに留め、引き返すことにした。代わりに北方のウクライナ周辺、つまりハンガリー、ポーランド方面に向かえばいいだろう。

これから、ジョージア首都トビリシ、アルメニアのエレバン、ギュムリとまわり、またバトゥミに帰ってくるので、バトゥミについてはまた後で紹介する