人類から社会主義の夢を奪った男

ジョージア(グルジア)中央部ゴリのスターリン博物館前に立つジョセフ・スターリン(1878~1953年)の銅像。いまどき、彼の銅像が残るのはここくらいではないか。2010年までは市役所前に堂々と立っていた。一旦は撤去されたが市民の希望で博物館前に再設置。

敬愛するスターリン閣下の生誕地に来た。個人崇拝による独裁で数百万人を粛清し強固なソビエト国家を築いた人。鉄壁の社会主義をつくった、というのではなく、社会主義への夢を徹底的に砕いた。人類に二度と社会主義の夢を見られなくした。

そのスターリン閣下は、コーカサス地方ジョージア(グルジア)の出身だ。ロシアを核としたソビエト社会主義共和国連邦の独裁者が、その辺境コーカサスから出たというのは不思議だ。その点だけはこの帝国の平等主義の汲むべき長所だったかも知れない。

コーカサス地方は、西の黒海、東のカスピ海にはさまれ、北に標高5000メートル級の大コーカサス山脈、南に3000メートル級の小コーカサス山脈(アララト山を含めると5000メートル級)がそびえ、その間に平野や高原が広がる特異な地形をもつ。そのやや西寄り中央部にゴリの街(現人口4万5000人)がある。

スターリンは、この小さな町で1878年12月、靴職人の家に生まれた。父はアルコール依存症で家庭内暴力を振るい、スターリンが4歳の時、母は息子とともに家を出る。スターリンは以後母に育てられた。1894年、16歳のとき、約70キロ離れたトビリシ(現ジョージア首都)の神学校に入るが、在学中マルクス主義に目覚め、1899年に退学。一時気象台などにも勤務するが、1901年頃から非公然の革命家としての生活を送るようになる。

ゴリの街からは北に大コーカサス山脈がよく見える。
その街の中央公園(スターリン公園)の中にスターリン博物館がある。
スターリン博物館の全容。博物館前面に、スターリンの生家が展示されている。
スターリンの生家。家族はこの左側部分を借り、父は地下の工房で靴をつくっていた。スターリンは4歳までこの家に住んだ。
博物館の左には、スターリンが1941年から使っていた専用鉄道車両が展示してある。83トンある装甲車両で、各地に出かける際、これを機関車につないだ。第二次大戦末期のヤルタ会談などに行くにもこれを使ったという。
スターリン博物館の中。
小さいころから、政治家としての全盛時代までを示す。英語はないのでわからないが、独裁や粛清など否定的なものは含まれていないようだ。
おお、スターリン閣下、こんなお若いときもあったのですね。このころは、純粋な革命への情熱にかられていたのでしょうか。
なんと、ご婦人方にも大変人気があったような。
おお、この写真は世界史の教科書でも見ましたよ。ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相とクリミア半島のヤルタで戦後処理を話し合ったのですね(ヤルタ会談、1945年2月)。
スターリン執務室の調度品。ここから世界史を動かす(くるわす?)数々の号令が発せられたか。
番犬たちよ、君らはどういうお方の博物館を守っているか知っているのか。安らかに眠り給え。

スターリン博物館は、1951年に事業が始まり、スターリン死後4年の1957年にオープンした(フルシチョフらによる「スターリン批判」の1年後)。1989年のソ連崩壊とその後のグルジア独立で、一旦はこの博物館は閉鎖されるが、地元住民の意向に沿い再オープンし、「ブラック・ツーリズム」スポットとして人気を博している。

2008年にロシアのグルジア侵攻を含む南オセチア紛争が起こり、スターリン博物館を「ロシアによる侵略の博物館」に改編する計画が示された。しかし、これも2012年にはゴリ市議会で反故にされた。博物館正面に掲げられていた「この博物館は歴史の改ざんであり、ソ連の典型的プロパガンダである。史上まれにみる血塗られた体制を正当化する試みである」という表示も2017年に撤去された。

私が閣下を敬愛するのと違って、町の人々が本気でスターリニズムに心酔しているわけではない。「おらが村から出たもんがすごい有名人になった」という単純な郷土自慢の心情とのこと。郷土も含めてその支配領域の人々に多大な苦しみを与えたスターリンだが、少なくとも現在は、「ブラック・ツーリズム」の人気スポットとして、郷土になにがしかの経済的恩恵をもらたしているようだ。

ゴリ北方にそびえる5000メートル級の大コーカサス山脈。美しい景色だが、青年スターリンはこれをどのように見ていたか。あの山脈の向こうには広大なロシアがある。革命運動の位階を登っていく広大な世界を思い描いていたか。
ゴリ中心部に立つゴリ城塞。そのまわりに旧市街が発達した。コーカサスの交通の要衝に位置するゴリは古くから地方勢力の衝突する場となり、この地に砦が築かれてきた。紀元前から建造の跡があり、現在の城塞の基礎は1630年代、ジョージア王ルスタム・ハーンの施政下で築かれたとされる。今もゴリ市街を見下ろす砦は市民の憩いの場となっている。スターリンも革命運動に疲れたときこの砦に来て心を休めることはなかったか。

スターリン体制の負の遺産に世界はきちんと目を向けたか

スターリンの恐怖政治についてはすでに語りつくされと言われるが、必ずしもそうではない。ソ連崩壊後に多くの秘密文書が明らかになり、その実態が詳しくわかってきた。しかし、その頃には社会主義、ましてやスターリンへの関心は薄れ、徹底した認識共有には至らなかったきらいがある。その意味で、それ以後出された研究書、極秘資料集などにより注目したい。例えばステファヌ・クルトワ編『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧』(The Black Book of Communism: Crimes, Terror, Repression, 1999、原仏語版は1997年)、現在28巻に及ぶ『共産主義の記録』(Annals of Communism)シリーズ(英露語版)などだ。

これらによると、ソ連共産党第20回党大会(1956年)のフルシチョフの秘密報告は、第17回党大会(1934年)で選出された中央委員139人のうち98人、代議員1966人のうち1108人が粛清(処刑)されたことを明らかにしたとされる[クルトワ他『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧(ソ連編)』、p.204]。幹部でも、というより幹部の方があぶなかった。当時のソ連でスターリンの粛清を批判するのはまず不可能で、ソ連内の共産主義者に責を負わせるのは難しい面がある。しかし、秘密警察から直接狙われていたわけでもない西側の人々が「共産主義体制とその首領を讃える歌をうたい続けた」のはどうなのか、とフランス人であるクルトワは問い、西側の人々に対し次のように言う。

「「私は知らなかった」と答える者も、たくさんいるだろう。共産主義体制はその特別な防衛の仕方を秘密にしてきたから、たしかに知ることは必ずしも容易ではなかった。だが、しばしばこの無知は戦闘的な信条からくる盲目の結果にすぎなかったのだ。しかし四〇~五〇年代以降、多くの事実が知られ、疑問の余地のないものとなってきた。今では多くの追従者が昔の偶像を放棄したが、彼らはそっと目立たぬやり方で見捨てたのだった。」[前掲書、p.19]

数百万から数千万の犠牲者

秘密解除された強制労働収容所(クラーグ)管理局や内務人民委員部(NKVD。KGBの前身)などの文書によると、ソ連では、例えば1937~1938年だけで、157万5000人が逮捕、134万5000人(85%)が有罪、68万1692人(有罪の51%)が処刑された[前掲書、pp.202-203]。

しかもこれには粛清された共産党幹部の数はほとんど入っておらず、当時強制移住されて死亡した者(37年に極東の朝鮮人17万2000人が中央アジアに移住させられている)、獄中で拷問を受けて死亡した者、強制収容所で死んだ者(37年に2万5000人、38年に9万人以上)、収容所への移送途中に死んだ者は含まれていない。アーチ・ゲッティらは、「1930年代の拘禁中の死亡数」を200万人と推定している[アーチ・ゲッティ、オレグ・Ⅴ・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道 ―スターリンとボリシェヴィキの自壊1932~1939年』(川上洸、萩原直訳)大月書店、2001年、p.624]。

クルトワらは、例えば1932~1933年のウクライナで400万人が餓死するなど、意図的に起こされた飢餓、さらに強制労働なども虐殺の一形態としてシステマチックに用いられたとしている。政治的粛清だけでなく、1920年からのコサック解体(ラスカザーチヴァニエ)に見られるナチズム同様の民族ジェノサイド、そして1930~1932年の「クラーク(富農)撲滅」などに見られる階級ジェノサイド(出生に基づく虐殺)があったことも示す。共産主義による虐殺は歴史的にナチの虐殺に先行しており、アウシュビッツ収容所長が、強制労働による虐殺の参考にソ連側の資料を収集した事実なども示した[前掲書、p.23]

ソ連極秘資料集『共産主義の記録』シリーズの創始者でディレクター、ジョナサン・ブレントは、「1928年から1953年に至る25年のスターリン治世下での犠牲者数については推計にかなりのばらつきがあるが、現在では少なくとも2000万人だったと考えられている。彼は欧州史最悪の大量虐殺者とされる」と結論付けた[Jonathan Brent, *Inside the Stalin Archives: Discovering the New Russia*. Atlas & Co., 2008, p.3]。

深刻な検討が依然求められている

今や、社会主義やマルクス主義などはかつての輝きを失った。だからであろう、私たちと同世代の人たちには、社会主義にも一定の役割は果たした、と見直しをはかる人たちもいる。それはそうかも知れない。しかし傍系であろうと特殊な一部であろうと、人類史に突出する残虐な抑圧体制を生み出してきたことはまぎれもない事実だ。「社会主義は決して悪いものではないが、特殊ロシア的な事情にゆがめられて…」という理屈をよく聞く。しかし、「国家主義は決して悪いものでないが、当時の特殊ドイツ的事情にゆがめられて…」などとナチズムを語ることはできず、それと同レベルの惨禍を社会主義はもたらしたことをまずは深刻に受け止めなければならない。現在残った社会主義国も人類史の未来を照らすような役割を果たしているとはとても思えない。日本の左翼運動にも多くの否定的部分があった。ロシアのウクライナ侵攻にも、かつてのソ連帝国の残滓がそこここに見え隠れする。

一つにはカルトの問題がある。一方で「宗教はアヘンだ」と言いながら、特定教義を偏狭に信奉し全一的な宗教的運動に走る。差異・逸脱を認めない激しさ。マルクスの時代からの人に対する激しい論難。日本語では「スターリンの個人崇拝」というが、あれは英語では「Personality Cult of Stalin」という。カルトだったのだ。そのような視点を含めて、なぜあのような20世紀の特異な現象が現出したか、その検討抜きに安易に「積極面もあった」などとは言えない。(私も検討努力の一端を、『東アジア帝国システムを探る』第8章で試みた。)