ロシアの侵攻を受けたゴリ

ゴリ北方には事実上の独立国たる南オセチア領域(人口5万6000人)が広がる。上記写真の大コーカサス山脈、その山麓のほとんどが南オセチアだ。最短で15キロほどしか離れていない。画面左手方向には首都ツヒンバリ(人口3万)も約20キロの距離にあるはずだ。

スターリン博物館のあるジョージア中央部の街ゴリは、2008年の南オセチア紛争の際、ロシア軍の侵攻を受けた。ゴリは、南オセチア領からわずか15キロしか離れていない。その「首都」ツヒンバリも20キロ先で、以前は両都市間に鉄道が走っていた。

南オセチア(現人口5万6000人)はイラン系のオセット人が多く住み、ソ連解体後の1991年に、グルジア共和国からの独立を宣言した。以後、ロシアも介入しグルジアとの間に深刻な対立が続いている。2008年8月にはロシア軍と南オセチア民兵による大規模攻勢があり、グルジア軍は南オセチアから駆逐された(南オセチア紛争)。国際的承認を受けていないが、以後、南オセチアは事実上の独立国となっている。大コーカサス山脈の北、ロシア領の北オセチア共和国との合併を目指す動きもある。

その南オセチア紛争(2008年8月9日~8月22日)の際、ロシア軍と南オセチア軍(事実上の民兵)はグルジア領内にも侵攻し、首都トビリシをうかがう攻勢を見せた。ゴリは8月13日までに制圧され、殺人や略奪が行われた。軍事的にはロシアが主勢力となったが、民族対立を反映して激しい略奪を行なったのは南オセチア民兵だったようだ

8月22日までにロシア軍は自発的にゴリ地域から撤退し、南オセチアに戻った。首都制圧は避けたわけで、ロシアは旧ソ連圏共和国に対して平然と侵略を行なうと同時に、自勢力圏内の民族対立をコントロールするなど統治者的振る舞いをする傾向もあることが確認できる。

ゴリの街の中心に高台があり、そこに中世城塞の跡が残る。ゴリ‘Gori’ の語源はジョージア語のgoraで、これは高台、丘の意。ゴリは山脈の間のコーカサス回廊に位置し、古代シルクロードのルートともなっていたようだ。そこにある高台は古くから防備の砦として有用だったが、9世紀に成立したバグラト朝ジョージアが城塞を整備。特に1630年代と1774年に現在の城塞の基礎が築かれた。この地は、モンゴル帝国、ティムール帝国、オスマン帝国、サファヴィー朝ペルシアなどが覇権を争い、1801年にはロシア帝国領となる。19世紀までには砦は徐々に重要性を失って放置され、1920年の地震で瓦解した。現在、一定の保全が行われ散策路などもつくられ、市民の憩いの場となっている。市内をはじめ、コーカサス山脈などの絶景が望める。
ゴリ城塞跡の南西部一帯には旧市街が広がる。やはり1920年の地震で崩壊したが、保全が進んでいる。
旧市街の一角にある聖大天使教会付近から見たゴリ城塞。
城塞から南方を望む。
城塞から北方を望む。南オセチアとコーカサス山脈。