ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡(サラエボ)

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(人口42万)。山に囲まれ、1984年には冬季オリンピックも開かれた美しい街だ。しかしボスニア・ヘルツェゴビナでは1990年代のユーゴスラビア紛争の中でも最も悲惨な殺し合いが行われ、20万人が命を落とした。サラエボも4年間にわたり周囲をセルビア側の軍に囲まれ(「サラエボ包囲」)、高台からの狙い撃ちなどで1万人以上の死者を出した。市内には当時を記録する博物館・記念館がいくつもある。

「人道に対する犯罪と虐殺」博物館

残虐な報道写真には慣れていると思っていた。サラエボの「人道に対する犯罪と虐殺」博物館(Museum of crimes against humanity and genocide 1992-1995)。展示は陰惨なものだったが、事実として認識しようという態度で臨めた。撃たれた人が最後の息をしているビデオを見るまでは。

その人は街路に横たわり、血を流して大きく息をしていた。いや息というより、生物の最後の兆候が激しくうごめく感じ。あと少しで「遺体」という物体に変わる。その直前の生体反応、どうしようもなくだれも対応できない生物の反応が路上で生起する。その動きを映像がとらえた。

激しく動揺してやはり後は平静に展示を見られなくなった。人が、生きている人が、まわりの人が、家族が、あんな状態になったらあなたはどうするのか。人でありながらもはや人でなく、生体反応をする生物組織になっていた。

1991年から10年あまりにわたって各地で続いたユーゴスラビア紛争の中でもボスニア・ヘルツェゴビナ紛争はとりわけ残虐な殺し合いが行われ、1992年から1995年の間に死者20万、難民・避難民200万、その他無数の負傷者、レイプ被害者を出した。首都サラエボ(人口42万)には、その悲惨な戦争の傷跡をとどめようとする多くの博物館・記念館がある。

普通、博物館は写真撮影に制限を設けているのだが、このサラエボの「人道に対する犯罪と虐殺」博物館の入口にはどうぞ写真撮影をして多くの人に伝えてほしい、と表示されていた。
特にひどい大量虐殺があったところが地図上に図示され、説明があった。
遺体がつつまれていた毛布。そして殺りくに使われていたであろう刃物。最も残酷な写真や遺物をここに載せるのははばかれる。鋭いナイフだけでも戦慄を覚える。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

ユーゴスラビア解体の中で、1991年6月のスロベニア、クロアチア独立宣言に続き、1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。人口約430万人のうち44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人だった。セルビア人は独立に反対して北部に「スルプスカ共和国」を独立させ、ユーゴスラビア連邦軍とともに、ボスニア・ヘルツェゴビナ軍と戦闘状態に入った。当初セルビア人、ユーゴスラビア連邦軍が優勢だったが、NATOによる空爆などが行われ、1995年10月にセルビア人側が停戦に応じた。

多くの地域で市民の虐殺が行われ、特に1995年7月には東部スレブレニツァで8000人以上のボシュニャク人が虐殺されるジェノサイドが起こった。首都サラエボも1992年4月から1996年2月までユーゴスラビア連邦軍、スルプスカ共和国軍により包囲され(「サラエボ包囲」)、市場への砲撃や街路への銃撃などで市民に多数の死傷者が出た。1万2000人が死亡、5万人が負傷し、うち85%は一般市民だった。殺害と強制移住で、市の人口は紛争前の64%、33万人に減った。

「サラエボ包囲」博物館

こちらは「サラエボ包囲」の博物館(Siege of Sarajevo Museum)。1992年から1996年にかけて市全域が包囲され、銃撃、爆撃を受けた。1万2000人が死亡、5万人が負傷。
同上。
同上。

戦争子ども博物館

子どものための小さな戦争博物館もあった。「戦争子ども時代博物館」(War Childhood Museum)。こちらには残忍な写真や遺物はなく、子どもの普通の生活の中にどのように戦争が入り込んでいたかをわかりやすく示す。確かに子どものための、残虐さに訴えるだけでない展示館が必要だ。Photo: Anida Krečo, Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館・歴史博物館

古代からの歴史、民俗、植物・動物相など全部そろった「ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館」。この右手に「歴史博物館」があり、そこにも若干の戦争展示があった。
ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館に戦争当時と現在の街が比較できる多数の写真があった。今まで外で見てきた風景がその時どんな姿だったかわかって驚いた。てっきり戦後に建てられた新しいビルとばかり思っていた。ごく最近のことだったのだと改めて理解。
例えばこの国立博物館の斜め向かいにある黄色い建物。戦争当時は「ホリデーイン」で(現在はホテル・ホリデー)、世界中から取材に来たジャーナリストの拠点となった建物だ。前の通りが市のメイン通り「ズマイヤド・ボスネ(Zmaja od Bosne)通り」。包囲したセルビア勢力から通行人の狙い撃ちが行われ、「スナイパー通り」と言われていた。1995年までに1,030人が狙撃され、225人が死亡した(うち60人が子ど)。

歴史的な街に銃痕が残る

サラエボ地域は、ローマ帝国に征服されて以来、ゴート族、スラブ人などが居住していたが、サラエボが本格的に発展するのは1429年にオスマン帝国の支配下に入ってから。イーサ=ベグ・イサコヴィッチ知事の統治下で、1461年以降、現在旧市街の基礎が築かれた。

近代において、オスマン帝国はロシア、オーストリア勢力に徐々に押されていき、1878年のベルリン条約でボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権はオーストリア=ハンガリー帝国に移った(1908年に完全併合)。

このような歴史的経緯から、サラエボ地域は異なる民族、宗教が共存する多文化的環境が存在していた。

サラエボ旧市街の中心バシュチャルシヤ。商業の盛んな通り・広場であり、モスク(左)やバザーがある。やや遠方の複数の丸い屋根がブルサ・バザールで、トルコのブルサからもたらされた絹織物が売られていた。
広場の中心にある水飲み場セビリはサラエボの象徴とされる。1891年築。
バシュチャルシヤ地区の伝統的商店街。金属加工品、陶器、宝飾品などが中心だったが、今では雑多な土産物店も。
オーストリア勢力の台頭により、キリスト教(カトリック)の教会も建てられるようになった。写真はボスニア最大の大聖堂「イエスの聖心大聖堂」。1884年に建設がはじまり、1887年に完成。
オーストリア・ハンガリー帝国時代の1894年に建てられたサラエボ市庁舎。1949年に国立・大学図書館(National and University Library of Bosnia and Herzegovina)に転換された。1992年、サラエボ包囲の際セルビア勢力の砲撃により、150万冊の蔵書(貴重資料15万5000点)のほとんどが焼失した。1996-2013年に修復され、2014年に文化施設として再オープン。式典会場、コンサート、展示などに使われている。
多くの建物は修復されきれいになっているが、一般のアパートなどでは、戦争の傷跡がそのまま残っている。狙撃されて穴の開いた壁を街の至る所で見る。

 

同上。残酷な写真よりも、こうして現実の中に残る傷跡を見ることで戦争の悲劇がリアルに伝わってくる。何気ない日常の中に突き刺さる銃弾。
同上。

もう一つの歴史的な場所

サラエボはもう一つ、世界史的事件の発端となった重要な場所がある。1914年オーストリア・ハンガリー帝国皇位継承者のオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、訪問中のサラエボ旧市街で、ボスニア系セルビア人に暗殺された。これをきっかけに第一次世界大戦が勃発した。いわゆる「サラエボ事件」だ。世界史の教科書には必ず出てくる。

サラエボ市内中心部を流れるミリャツカ川。そこに多くの橋がかかるが、旧市街の山沿いに近いあたりのラテン橋(写真)付近で、セルビア民族主義者の凶弾が大公夫妻の命を奪った。実はその日、暗殺企図は2回目だった。1回目は大公夫妻車列への爆弾投げつけで、これは失敗した。市庁舎(左やや後方)での式典の後、その負傷者見舞いに一行のオープンカー車列は病院に向かった。暗殺未遂があったばかりなので、川に沿った小道アペル・キー(写真左)をいっきょに(写真こちらの方向に)走り抜けてくる予定だったが、連絡ミスで、当初の予定通りラテン橋のたもとを右に曲がってしまった。ちがうちがう、まっすぐ行くんだというポティオレク総督の号令で馬車が停まったところに偶然、暗殺集団の一人、ガヴリロ・プリンツィプが居た。自動車に身を乗り出し、至近距離から2人を撃った。
現在その暗殺場所は同事件に関する市博物館になっている。ラテン橋の北側のたもとだ。その前の街路に大公夫妻が乗っていた車を模したオープンカーが置いてある。この道をまっすぐ行けばクロックタワーなど旧市街中心部に出る。
暗殺の現場を描いた当時の新聞記事の挿絵。右手前の犯人プリンツィプが、車上の大公フェルディナントと妻ゾフィーを撃った。Drawing: Achille Beltrame, Domenica del Corriere (Italian Paper), Wikimedia Commons, Public Domain

その後の歴史

この暗殺事件の後、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の対立が深まり、7月28日に開戦。当時の勢力関係からセルビアにロシアが加担し、オーストリアにドイツ帝国が付き、やがて第一次大戦の全面戦争に拡大していく。オーストリア・ハンガリー帝国内ではセルビア系に対する暴動が起こり、ボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアではセルビア系住民に対する虐殺も行われた。サラエボでは暴動初日だけで2人のセルビア人が殺害され、約1000件のセルビア系住宅、店舗などが襲われた

一方で、セルビア人民族主義者の間ではプリンツィプは今でも外国支配にたたかった英雄だ。2014年のEU主催サラエボ事件100周年記念行事に対し、ボスニア・ヘルツェゴビナ内セルビア人側(スルプスカ共和国)は参加を拒否。逆にプリンツィプの銅像を建てたという

第一次世界大戦も、それを引き起こした暗殺事件も、ボスニア・ヘルツェゴビナではまだ「歴史」になっていない。当時からの民族対立がつい最近も悲惨な殺し合いとしてこの地の人々に降りかかったばかりなのだ。