アララト山はアルメニアの聖なる山

アララト山(標高5,137メートル)は、アルメニアの聖なる山だ。紀元前4世紀、アレクサンドロス帝国以後につくられた古代アルメニア王国はここを中心にアナトリア(現トルコ)東部からアゼルバイジャン地域を含む広域を含んでいた。アルメニア人は「アララトの民」と呼ばれ、神話から様々な民俗に至るまでアルメニア人の心の拠り所となっている。アララト山頂はまた、キリスト教世界では、ノアの箱舟がたどり着いた場所ともされている。アルメニアは301年、世界で最も早くキリスト教を国教に定めた国だ(「アルメニア教会」の設立)。アルメニア国章、大統領章にはノアの箱舟が載ったアララト山があしらわれている。ソ連時代の国章にはアララト山がさらに大きく描かれていた。Photo: Serouj Ourishian, Wikimedia Commons, CC-BY-SA-4.0
アララト山はアルメニアの首都エレバン(人口108万)からよく見渡せるが、残念ながらくっきりと見える日は少ない。私の滞在中は、この写真あたりが限界だった。朝早く比較的よく見える。この日も午前9時を過ぎると頂上付近は雲に隠れてしまった。宿近く、St. Sargisアルメニア教会付近から。
アララト山。エレバンの街を前景にアララト山の絶景が見られる定番観光スポット、カスカードから。
エレバン市内の観光ハイライト、カスカード。階段状の庭園・博物館だ。丘の上まで登っていける。するとそこに上記アララト山の絶景が。左側の地下構造の中にエレベーター(兼・美術展示場)があり、楽に登っていける。1971に建設開始、1980に1次計画完成。
拡大写真。アララト山には二つのピークがある。右が(雲に隠れた)大アララト山。標高5,137メートルだが、氷河が溶けて現在では5,125メートルになっているとも。左側(東南方)にはやや低い富士山に似た美しい成層火山の小アララト山がある。しかし、これも富士山より高い3,896メートルだ。
首都エレバンの街並みとアララト山。よく見える写真は、根気よくチャンスを待った方々の努力に頼るほかない。Photo:Serouj Ourishian, Wikimedia Commons, CC-BY-4.0

国の象徴が国外にある

このアルメニア象徴のアララト山があるのは、実はトルコ領だ。アルメニア国境から約30キロ離れている。エレバンの街からゆるやかなカーブを描いて上昇していく裾野は美しいが、その途上(アラス川)に国境が引かれ、アルメニア人は近づけない。

アルメニア人の歴史

アルメニア人の故地はアララト山南西のヴァン湖周辺で(当然、現トルコ領だ)、古代には現トルコ東部からアゼルバイジャンなど広大な地域に分布していた。メソポタミア文明のチグリス川、ユーフラテス川の上流部分の民族ととらえられる。旧約聖書に出てくるアララト王国は紀元前9世紀~同6世紀頃のアルメニア人国家であったとされる。東西交通路上にあり、通商にたけていたが、周辺強国に翻弄される歴史を歩んでいく。アケメネス朝ペルシア、ローマ帝国、パルティア、ササン朝ペルシア、ビザンツ(東ローマ)帝国、そして7世紀には、アラビアに成立したイスラム帝国に征服され、以後、イスラム化したトルコ人、イラン人、クルド人などの地方政権の影響も強まり、長期に存続したビザンツ帝国の他、セルジュク・トルコ、サファヴィー朝イラン、カージャール朝イラン、オスマン・トルコなどの支配を受けた。19世紀からロシア南下が活発化し、1828年に第2次イラン・ロシア戦争でカジャール朝が敗れるとロシア領に。第一次世界大戦中のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺、ロシア革命、トルコ革命、一時期のアルメニア共和国樹立などを経てソビエト連邦に組み込まれた。

16世紀までには東アルメニアはカージャール朝、西アルメニアはオスマン帝国が支配するようになっており、第一次大戦後にソ連が編入したのも東アルメニア地域だ。アルメニア人は現トルコ領を含む広範囲な歴史的アルメニアの領土回復を求めたが、当時の列強間の力関係の中では、トルコとソ連の手打ちで定められた国境に従う他はなかった。また、下記の通りトルコ領からアルメニア人が強制排除され、西アルメニアのアルメニア人はほとんどいなくなった。以後、第二次大戦、冷戦期を経て1991年にソ連が解体。国境線に大きな変更なくアルメニア共和国が独立した。

「20世紀最初のジェノサイド」

ロシアの侵攻と戦うオスマン帝国は、同じく帝国支配に抵抗するアルメニア人を危険視し、1915年4月~5月にかけてアナトリア東部(西アルメニア)からアルメニア人の強制移住を断行。この過程で多くのアルメニア人が虐殺されたとされる。同4月24にはイスタンブールの著名アルメニア人が追放され(後に多くが殺害)、これら一連の過程で、少ない推定で20万人、多くて200万人のアルメニア人が死亡した。アルメニア側はこれを「20世紀最初のジェノサイド」と規定し、この4月24日を虐殺追悼記念日としている。(トルコは、安全地帯への避難のための移住でありそこでの不幸な死亡、あるいは通常戦闘での死者などが含まれるとする立場。)

「交易離散共同体」

以上のような激動の歴史を経てきたアルメニア人たちは、多くが故地を逃れ世界中に散っていった。現在、アルメニアに住むアルメニア人より国外に住むアルメニア人の方が多い。2007年の調査では、全世界758万人のアルメニア人のうち、アルメニア本国に暮らすものは約4割の297万人。ロシア120万人、米国50万人などが多い。通商活動に秀で、独自の言語と宗教をもち、世界各地でアルメニア人居住地をもち続けたアルメニア人は、「交易離散共同体」を形成し、ユダヤ人と似たところがある。ともに近年になって故地付近に独立国家をもつことになった。

世界各地で活躍する著名アルメニア人がいる。例えば現在各種国際会議で苦しいウクライナ侵攻正当化論を展開するロシア外相、セルゲイ・ラブロフもアルメニア系だ。ベルリンフィル指揮者をつとめた「楽壇の帝王」カラヤン、露作曲家ハチャトゥリアン、テニス王者アガシ、仏歌手シルビー・バルタン(え、知らない?)、仏元首相バラデュールなどもアルメニア系だ。

アルメニア人ジェノサイド・メモリアル。アララト山が見える首都西部ツィツェルナカベルトの丘に1967年に設置された。
同上。アララト山は撮影者の裏手だが、この日はほとんど見えなかった。メモリアルの背景に見えるのは小コーカサス山脈の支脈ゲガム山地。
メモリアルの中。ここには「永遠の炎」が燃えているはずなのだが、献花で埋もれていた。訪問したのが4月26日で、虐殺メモリアル・デーの2日後のためこのような状態だったのだと思われる。学生、生徒など訪れる人も多かった。
メモリアル広場から地下に入るような形でジェノサイド博物館がある。亡くなった人たちの人生が示されている。

 ジョージア首都トビリシからアルメニアに入った

トビリシの宿近くのバスターミナルから、アルメニア首都エレバンまでのミニバスが朝10時に出ていた。しばらくは高原状の景色が続いたが、山岳地帯になる頃、アルメニアの国境検問となった。

国境検問所。アルメニア側から。何事も難所を通過してから、写真などは撮るべきです。
アルメニア側に入ると急峻な山が多くなった。3000メートル級の小コーカサス山脈地帯を越える。トビリシの標高は400メートルくらいだが、エレバンは約1000メートルで高原地帯となる。
同上。
高山があり、ところどころ高原も広がる。
首都エレバンの中心部、共和国広場。レンガ色の共和国政府ビルが南東角に立つ。共和国広場は丘の上に登る上記カスカード公園から一直線に南に向かう動線上に位置する。ソ連時代にはレーニン広場と呼ばれ、広場にレーニンの銅像があった。1991年4月13日に撤去。群衆が歓声を上げる中、銅像は「亡くなった人の遺体のようにトラックに乗せられ、蓋をあけられた柩であるかのように、広場のまわりを何度もまわった」という。
同じく共和国広場に面した国立美術館・歴史博物館。 
エレバンからさらに奥地のトルコ国境に近いギュムリに鉄道で向かう。実はこの鉄道、トビリシにも続いている。トビリシからエレバンまでミニバスで来たのだが、鉄道(夜行寝台)で来ることもできた。これから行くギュムリは標高1500メートルと「奥地」ではあるが、この鉄道の途上駅だ。バス・ルートよりはかなりの遠回りになる。2両編成のローカル列車だが意外とモダンな車両だった。
アララト平野を横切る。相変わらずアララト山はよく見えない。
平野部を過ぎると高原地帯に入り、眺めがよくなる。
トルコ国境線上にあるアクリアン貯水池が見えてくると、もうすぐギュムリだ。
右手にはアラガツ山(標高4095メートル)がよく見える。ただし、こちらも霞がかかり鮮明ではない。アララト山がトルコ領であるため、アルメニア領内の最高峰はこのアラガツ山だ。
アラガツ山の拡大写真。ギュムリの宿から。こちらは空気の澄んだ日だったが、右の木がじゃましてますね。ギュムリは平地で高い建物も見当たらず、宿の2階ベランダが唯一の撮影スポットだった。

トルコ国境に近いギュムリの街

アルメニア第2の街ギュムリ(人口11万)は、紀元前からの古い歴史をもつが、本格的に建設されたのは、19世紀にロシア領になってからだ。クマイリと呼ばれていた街は、1837年にアレクサンドロポルに改名された。ニコラス1世の妻アレクサンドラかた取った名前だ。ロシア帝政下で、東アルメニアではエレバンを越える大都市になり、コーカサスの芸術の街として名声を博した。(トルコ、イラン方面を狙うロシアの軍事的拠点でもあった。)

ソ連に引き継がれてからはレーニンの名前をとってレニナカンに改名。工業都市としても発展したが、1988年12月にアルメニア北部を襲った地震で大打撃を受ける。2万5000人~5万人が死亡し、13万人が負傷した。レニナカンでも多くの建物が崩壊し(5階以上の建物の62%が倒壊)、今でもその傷跡が残っている。20万あった人口は地震以後ほぼ半減し、現在でも11万人に留まる。

ソ連解体と独立後は、街の名前をかつてのクマイリに戻し、さらにギュムリに変えた。長い時代に口語の発音が変化し、かつてのKumayriが、Kumri、Gumri、さらにGyumriになっていたという。

ギュムリの中心、ヴァルタナンツ広場。広場の東側にソ連時代の市庁舎がたつ。
広場の南側には、市のシンボルとも言える聖救世主教会。1858年から1872年の間に建設され、1873年に奉献された。1988年の地震で崩壊したが、現在少なくとも外観は再建された。
広場の北側には神の聖母大聖堂。1884年完成。
ヴァルタナンツ広場広場からピースサークル広場まで続くリコボフ通り。歩行者天国のおしゃれな通り。
ピースサークル広場からさらに北にあがると独立広場。まわりに「いかにも」のソ連風建物が並ぶ。「レーニン広場」だったものが独立広場に変えられた。
街を歩くと、こうした重厚な帝政時代的な街並みも多い。
帝政時代の市名「アレクサンドロポル」を冠したホテルもあった。
私の宿はそんな高級ホテルではなかったが、低料金の割にはよいところだった。The Doctor’s Houseという名前の通り、医者の家族3代が住んでいた家をホテルに改造した。その医者の義理の母に当たる方が丁寧に管理していて、とても趣味がよく、かつ清潔だった。写真は2階の共同スペース。実は、1泊2000円を切る料金だったので、ここに長居しようとギュムリにやってきたのだ(アルメニアは意外と宿代が高く、個室だと通常2000円以上)。しかし、予約日を1カ月間違えていて、2泊しかできなかった。他は意外と高い宿ばかりなので、次を目指すほかない。アルメニアにもう少しとどまっていたかったのだが、前に前にと突き進む旅になってしまった。 
ギュムリから寝台列車でトビリシに帰る。そこからすぐバトゥミへの急行列車に乗り、安住の地、バトゥミ1泊1600円の宿を目指すのだ。寝台列車はトビリシ発なので、ギュムリには夜0時過ぎに来る。その夜の宿代も払ってゆっくり待機。乗り込みさえすれば私はすぐぐっすり眠れる。ところが、この列車は国境を越えるのだ。出国手続きと入国手続きで起こされ、特にジョージア入国手続きでは外に出て窓口に並ばされた。未明の眠い時にこれを強いられるのはつらい。写真はジョージア入国審査で停車する寝台列車。