国の象徴が国外にある
このアルメニア象徴のアララト山があるのは、実はトルコ領だ。アルメニア国境から約30キロ離れている。エレバンの街からゆるやかなカーブを描いて上昇していく裾野は美しいが、その途上(アラス川)に国境が引かれ、アルメニア人は近づけない。
アルメニア人の歴史
アルメニア人の故地はアララト山南西のヴァン湖周辺で(当然、現トルコ領だ)、古代には現トルコ東部からアゼルバイジャンなど広大な地域に分布していた。メソポタミア文明のチグリス川、ユーフラテス川の上流部分の民族ととらえられる。旧約聖書に出てくるアララト王国は紀元前9世紀~同6世紀頃のアルメニア人国家であったとされる。東西交通路上にあり、通商にたけていたが、周辺強国に翻弄される歴史を歩んでいく。アケメネス朝ペルシア、ローマ帝国、パルティア、ササン朝ペルシア、ビザンツ(東ローマ)帝国、そして7世紀には、アラビアに成立したイスラム帝国に征服され、以後、イスラム化したトルコ人、イラン人、クルド人などの地方政権の影響も強まり、長期に存続したビザンツ帝国の他、セルジュク・トルコ、サファヴィー朝イラン、カージャール朝イラン、オスマン・トルコなどの支配を受けた。19世紀からロシア南下が活発化し、1828年に第2次イラン・ロシア戦争でカジャール朝が敗れるとロシア領に。第一次世界大戦中のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺、ロシア革命、トルコ革命、一時期のアルメニア共和国樹立などを経てソビエト連邦に組み込まれた。
16世紀までには東アルメニアはカージャール朝、西アルメニアはオスマン帝国が支配するようになっており、第一次大戦後にソ連が編入したのも東アルメニア地域だ。アルメニア人は現トルコ領を含む広範囲な歴史的アルメニアの領土回復を求めたが、当時の列強間の力関係の中では、トルコとソ連の手打ちで定められた国境に従う他はなかった。また、下記の通りトルコ領からアルメニア人が強制排除され、西アルメニアのアルメニア人はほとんどいなくなった。以後、第二次大戦、冷戦期を経て1991年にソ連が解体。国境線に大きな変更なくアルメニア共和国が独立した。
「20世紀最初のジェノサイド」
ロシアの侵攻と戦うオスマン帝国は、同じく帝国支配に抵抗するアルメニア人を危険視し、1915年4月~5月にかけてアナトリア東部(西アルメニア)からアルメニア人の強制移住を断行。この過程で多くのアルメニア人が虐殺されたとされる。同4月24にはイスタンブールの著名アルメニア人が追放され(後に多くが殺害)、これら一連の過程で、少ない推定で20万人、多くて200万人のアルメニア人が死亡した。アルメニア側はこれを「20世紀最初のジェノサイド」と規定し、この4月24日を虐殺追悼記念日としている。(トルコは、安全地帯への避難のための移住でありそこでの不幸な死亡、あるいは通常戦闘での死者などが含まれるとする立場。)
「交易離散共同体」
以上のような激動の歴史を経てきたアルメニア人たちは、多くが故地を逃れ世界中に散っていった。現在、アルメニアに住むアルメニア人より国外に住むアルメニア人の方が多い。2007年の調査では、全世界758万人のアルメニア人のうち、アルメニア本国に暮らすものは約4割の297万人。ロシア120万人、米国50万人などが多い。通商活動に秀で、独自の言語と宗教をもち、世界各地でアルメニア人居住地をもち続けたアルメニア人は、「交易離散共同体」を形成し、ユダヤ人と似たところがある。ともに近年になって故地付近に独立国家をもつことになった。
世界各地で活躍する著名アルメニア人がいる。例えば現在各種国際会議で苦しいウクライナ侵攻正当化論を展開するロシア外相、セルゲイ・ラブロフもアルメニア系だ。ベルリンフィル指揮者をつとめた「楽壇の帝王」カラヤン、露作曲家ハチャトゥリアン、テニス王者アガシ、仏歌手シルビー・バルタン(え、知らない?)、仏元首相バラデュールなどもアルメニア系だ。
ジョージア首都トビリシからアルメニアに入った
トビリシの宿近くのバスターミナルから、アルメニア首都エレバンまでのミニバスが朝10時に出ていた。しばらくは高原状の景色が続いたが、山岳地帯になる頃、アルメニアの国境検問となった。
トルコ国境に近いギュムリの街
アルメニア第2の街ギュムリ(人口11万)は、紀元前からの古い歴史をもつが、本格的に建設されたのは、19世紀にロシア領になってからだ。クマイリと呼ばれていた街は、1837年にアレクサンドロポルに改名された。ニコラス1世の妻アレクサンドラかた取った名前だ。ロシア帝政下で、東アルメニアではエレバンを越える大都市になり、コーカサスの芸術の街として名声を博した。(トルコ、イラン方面を狙うロシアの軍事的拠点でもあった。)
ソ連に引き継がれてからはレーニンの名前をとってレニナカンに改名。工業都市としても発展したが、1988年12月にアルメニア北部を襲った地震で大打撃を受ける。2万5000人~5万人が死亡し、13万人が負傷した。レニナカンでも多くの建物が崩壊し(5階以上の建物の62%が倒壊)、今でもその傷跡が残っている。20万あった人口は地震以後ほぼ半減し、現在でも11万人に留まる。
ソ連解体と独立後は、街の名前をかつてのクマイリに戻し、さらにギュムリに変えた。長い時代に口語の発音が変化し、かつてのKumayriが、Kumri、Gumri、さらにGyumriになっていたという。