片雲の風にさそわれて漂白の思いやまず…
え?雲の切れはしもないけど。ナミビア、カラハリ砂漠近くのサバンナ。毎日毎日、快晴で、突き抜けるような青い空ばかり続く。
狩猟採集民サン族の「首都」と言われるツムクェ。人類は猿人以来の数百万年間、狩猟採集民として野山を漂泊して生きてきた。定住は、つい最近、数千年前からに過ぎない。広大なアフロユーラシア大陸の南端で狩猟採集民として生きてきたサン族。片やその大陸東端までさすらってきた我ら日本列島人。共通するものがある。定住と近代文明の中にあっても、漂泊の思いやまず各地を放浪してしまう。西行から芭蕉から山頭火から、多くの放浪文学が列島の精神風土に残る。
時空を超えた場所に投げ出される
気がつくと荒野の中に投げ出されていた。近くに打ち捨てられた井戸があり、水道の蛇口から水が出続けている。人はだれもおらず、草木のない岩石原には静寂だけが支配していた。
ときに道路から人っ子一人いなくなるサバンナ村で、脳裏に去来するのは芭蕉より、少年頃読んだSF小説だ。何の小説だったか思い出せないが、時空間を移動する主人公が、タイムマシン事故で放り出された荒野の情景が上記だ。
どこなのか、いつの時代なのかわからない。人が消え、こわれた水道というインフラだけが動いている。それと同じ世界が、このカラハリ砂漠近くのサバンナの中にもあった。

このどこともわからない場所に放り出された主人公が、その後どうなったか思い出せない。元の時空に帰れたのか、荒野で新たに生きる方途を見出したか。水が出ているのでしばらくは生存はできたろう。
庶民が大挙して海外旅行に出る時代
列島の放浪精神は、私たち団塊の世代の時代、また新しい形で受け継がれることになった。1970年前後に活気ある青春時代を迎えたこの世代は、海外旅行の自由化で列島の庶民が大挙して国外に出る時代と巡り合った。(海外旅行自由化は1964年。以後、1ドル=360円固定為替制の終了、ジャンボジェット導入などで、64年年間13万人の日本人海外渡航者は、70年66万、75年247万、80年391万に増加した)。江戸時代の太平期に、伊勢講の大規模国内旅行が始まったのに次ぐ、列島の庶民が経験した新たな旅の時代の始まりだった。団塊の世代の間でも「脱日本」がはやり、海外貧乏旅行で新しい経験をする若者が増えていった。
何を隠そう、私もそうした時代の波に乗った一人だ。1973年に東南アジア・オーストラリアを放浪し、次いで北米に行って住み着き、引き上げる際に小田実『何でも見てやろう』を真似てヨーロッパ、アフリカ、アジアを旅し、日本で就職、子育ての後、2013年に退職してまたさすらいの旅を始めた。
「方法としての旅」
そしてこの旅人生の私の脳裏にずっとあったのが「方法としての旅」だった。「旅の方法」ではない。「方法としての旅」だ。何のための方法なのか何も言わない謎かけのような言葉。私はこの呪文を、早世した友人、石朋次から聞いた。彼も世界中を放浪し、アメリカにたどり着き、様々な日系人運動を組織した同世代人だった。彼が旅行記を投稿していた雑誌『思想の科学』が、「方法としての旅」の語源であることも聞いていた。
旅を続けるうち、この謎かけが私の頭の中でますます大きなものになってきて、後年、この言葉を徹底的に調べたことがあった。『思想の科学』1974年4月号がそのものずばり「方法としての旅」を特集していた。多くの論客が、方法としての旅の可能性について語っている。何と、私がバークレーでお世話になった室謙二兄が、その巻頭論文を書いているではないか。またまた別の友人にここで会うことになってしまった。
「方法としての旅」という言葉自体は、さらにその少し前、『芸術倶楽部』1973年12月号の特集「方法としての旅」に起源している。当時この言葉が疫病のように広がり始めていた。その『芸術倶楽部』編集後記でその回の責任編集者、今野勉が次のように書いている。
「「方法としての旅」というテーマは、天沢退二郎氏の「宮沢賢治論」や「作品行為論」を読んでいるときに思いついたものである。」「作品行為として自らの旅を方法的に意識化するということには、その方法によって、自らの内部に起こる反応や変化にたいする明確な期待と、その変化が自ら予測することのできない不確定さとの混然としている。この明確な期待と予測不可能性という混然とした境地がぼくの関心事であった。」(今野勉「編集後記」『芸術倶楽部』1973年12月、p.190)
いや何とも難しい。当時は難しい文体がはやったのは確かだが、とにかく、この言葉をつくったのは今野であることは確認できた。しかし、彼は、その意味するところを明確にはできなかったと正直に述べている。執筆者に依頼をする際、意図を説明できなかったのは責任編集者として怠慢だったと反省している。
この特集号には、「方法としての旅」の明確な否定も含まれている。例えば、
「一般的に言ってあらゆることを否定形のままに止めておく旅が方法でないはずはなく、また人生がずっと続く旅、旅の連続ならば、ことさらに旅のことを考えたりすることもない…」「旅というものが、方法としての旅というような、何ものかへ向けての、何ものかを用意するためのものでなく、一つの閉じられたものなのではないか…」「旅とは、それ自身、優れて旅に関する方法であって、方法としての旅などというものは成り立たない。あるとすれば、はじめに私がえんえんと述べたような、旅のしかた、旅のしきたりとしての方法なのである。」(原正孝「旅の方法・映画の方法」『芸術倶楽部』1973年12月号、pp.98-103)
ここまで言われては、テーマ「方法としての旅」の原稿をお願いした責任編集者・今野氏も形無しだったろう。
『芸術倶楽部』の特集から4カ月後、前述の通り『思想の科学』1974年4月が「方法としての旅」を特集。室の巻頭記事の文章はみずみずしく、今読んでも時代を感じさせない。『思想の科学』は、難解な文章がはやった当時、自分の感性に忠実に、具体的な体験の言葉を語る論調に特色があった。室はその代表のような存在だったと思う。
鴨長明の読み方
私はここで、鴨長明の新しい読み方を教えてもらった。長明は決して漂泊文学者ではないが、その根底にやはり彼なりの旅があったと、室は言う。少し長いが引用させて頂く。
「方丈記を書いた鴨長明は、熱心な旅行家というわけではなかった。しかしきわめて意識的・意図的な旅行家だった。彼は世の中の表面の事件の中から、その「時代」そのものを見ぬく眼力を持っていた。その力は、彼の現世的欲望以上に強かったので、結局、長明はの現世的欲望を捨てざるを得ず、京都をかこむ山々の一つに方丈の家をたててかくれ、目だけはランランと京都の方を見張っていたのだ。その長明が二度、きわめて意図的に世の中を知るための、いやもっと強い言葉が必要だ、彼は世の中を調査するために旅に出た。/一度目のそれは、方丈記の中に書かれてあるように、平清盛が都を福原(今の神戸)に移した時であった。/二度目の世の中調査旅行は、長明がすでに方丈の家に住むようになって後のことである。五六歳の長明は鎌倉まで、新しい政府・権力そして文化を見に出かけて行くのだ。そして方丈記は長明がこの鎌倉からの旅から帰った直後の二、三カ月の間に書かれている。しかし、おもしろいことにこの方丈記の中では、あんなに社会的事件とその中の人びとを描くことの名人である長明は、鎌倉のことを一行も書いていない。わざわざ日野山の方丈の庵から出て、五六歳と言えば当時はかなりの老人であろう、その老人が鎌倉を往復したのだ。そして多分この旅行が長明に方丈記を書かせた。/鴨長明は鎌倉のことを一行も書かないという禁欲的方法によって、鎌倉を、そして彼の生きて来た時代というものを書いた。彼は鎌倉旅行の紀行文はものしなかったが、その時、彼の眼力で見ぬいた時代そのものを、過去の事件、今の自分の姿を通して書き切ったのだ。〝芸術としての旅〞ではなく〝現実を認識す方法としての旅〞の実践家だった。」(同上、pp.9、10)
「現実を認識す方法としての旅」
室は長明以外に、モーツアルトや小田実の例も出している。「ヨーロッパ中をかけめぐる旅の中で、さまざまにちがった言葉、風習、建物、気候、人間、そして音楽を知」り、「それぞれちがった人びとを納得させ、感動させ」、「同時に…独得の音楽を作り出さねはならなかった」モーツアルト(p.8)。小田実については、「そのすぐれた旅行記の数々で(彼の書いた評論のそのほとんどが、旅行記だと言っても言いすぎではない)、私たちの眼を小田実の眼とともに世界の各地につれていってくれて、さまざまに新しい体験を私たちに共有させてくれるのと同時に、一つの簡単な原理を教えてくれた。肉体のともなった視点の自由な移動だ。彼の考え方の基本は、肉体を実際に移動しながら、同じことを考えつづけ、その考え方の変化を自分で確かめるという方法だ。」と書く(p.10)
まいった。50年前にすべてが語りつくされている。私は、石朋次や室謙二や小田実の敷いたレールの上を、独自に模索しながらではあるが歩いてきただけかもしれない。それは、大挙して海外に飛び出した私たちの世代たちが苦労して編み出してきた旅の方法だったのだと思う。
永遠を感じる瞬間
だが、西行や芭蕉につながる漂泊の旅が消えたわけではない。旅は何かの方法となる以前に、より本源的な体験としても我々の上にのしかかる。旅の中で、人々は永遠を感じる。そうした瞬間がある。普遍への啓示を得て立ち止まることがある。漂泊の文学者たちは、その体験があるからこそ、時代を越えてあくことなく漂泊に憑かれた。
むろん、次の廣末の言は正しい。「漂泊の旅でも、観念のなかで終始する旅ではなく、歩く旅であり、どこかに頼って泊まるたびである。生活の時間と完全に切れているものではない。生活の時間を全く無視することによっては、日常性からの脱出すら不可能である。このことに気づかないものもは、旅をうたうことはできても、旅をすることはできない。」(廣末保「遊行の時空」『芸術倶楽部』p.57)
世を超越した旅をしていると思っても、実際は現実のその時代の社会を動いているだけだ。異なる文化や、時に貧しい社会の中で苦労して食を確保し、清潔なねぐらを探し、ビザ取得や両替にきゅうきゅうとし、時には盗難や詐欺を恐れながら進む、ある意味平凡な日常よりはるかに厳しい現実社会と向き合う経験だ。そして旅人は、(その夢想からでなく)この極めて現実的な体験の中からこそ、様々な認識と学びを獲得している。
そして旅はつらい体験でもある。「分け入っても分け入っても青い山」と詠んだ山頭火にもそれが表れている。托鉢という困難な営為を続けながら、日本各地の村々を歩いてまわる。ああ、私はなぜこんなことをやっているのだろう、と嘆息することもあったに違いない。
それらはまさにその通りなのだが、その体験のはざまにふとした永遠を感じ取る瞬間があるのも旅だ。ごくまれにしかおそってこない瞬間だが、それがあるからこそ人は旅を止められず、漂泊の文学が続いてしまう。時代を越えて、垣間見られた普遍への想いを現代の旅人も共振してしまう。天啓というか解脱というか、何かの達観が生じる瞬間、あくせくした世の現実から超越してしまうあの体験はいったい何だったのだろう。「方法としての旅」は、なお、それが何の方法なのか不明のままだ。私たちは依然として、呪文の意味を解くべく求道の旅を続けている。
ツムクェはグローバル都市だ
この村周辺200キロには38のサン族集落がある。拡大家族のような数十人の集落が、サバンナ平原の間に隠れて散在している。まともな道路もなく、電気がない所も多く、井戸だけは最近地下水を掘り出せるようになって供給される。
周囲にブッシュの光景だけが広がるそれら集落から、1日に1便あるかないか出たトラックに乗り、このツムクェの街に来ると、日頃見たこともないような人がいる。ダマラ、オバンボ、カバンゴ、ヘレロなど他部族の黒人ばかりでなく、何ときょうは、ジャパンなどという東アジア系まで道を歩いていたではないか。
人口500人の巨大なグローバル都市で、パンや玉ねぎやジャガイモや、缶詰やマカロニや、いろいろ買って帰っていく。村では体験できない「お金を使う」という行為をここで体験する。
カラハリ砂漠の記憶
かつてこのカラハリ砂漠周辺のサバンナで暮らしていたときの記憶が、私たちの中にないか。DNAに刻まれていないか。
確か海の記憶はあった。広大にひろがる夏の海洋を見て、生命誕生のときにかえる海の記憶を感じたことがある。海は、その深い水の世界で私たちを生んだ。その命の源を今でもはぐくみ、その記憶を私たちの脳裏に蘇らせてくれる。
なら、それよりかなり最近のカラハリ砂漠の記憶も、当然、私たちの身体の中に残っているはずだ。乾燥した大地と、毎日、突き抜けるような青い空を見る。幸い今はこの地の冬なので、強烈な日射も耐えられないほどではなく、心地よい風がサバンナの平原を吹きわたっている。
あるいは、それよりずっと最近の時代、私たちの祖先が、ユーラシア大陸、その西域地方を経て東に移動してきた頃、シルクロードとも言われるその地の風景も私たちのDNAに刻まれている。砂漠と草原、オアシスの街と、天山や崑崙の山脈、そこに強い郷愁を感じてやまない。
なのに、私たち人類が発祥した地かも知れないこのカラハリ砂漠周辺について、私たちの記憶はどこか飛んでいるところはないか。この優しい風と乾いた日光から、紡ぎ出されてくる私たち体内の記憶は確認できないか。