ツムクェ集落、1959年に設立
ツムクェ集落は、ナミビアがまだ南ア統治下にあった時代(1920~1990年)の1959年に設立された。1969年には南アの人種隔離政策の一環としてツムクェ地区全体がサン族向けのホームランド「ブッシュマンランド」に指定されている。ツムクェ集落が設立される以前はツムクェ地区全体で約250人のサン族ジュホワン人が住むだけだったが、以降、流入が増え、1970年代までに900人のジュホワン人が地方から転居し、ムクェ集落は過密化・スラム化した。範囲を限定されたブッシュマンランドでは狩猟採集経済が成り立たず、政府援助を期待しての流入だったとされる。ジュホワン人の多くが環境変化に耐えられず、アルコール依存症、犯罪など生活の退廃が進んだ。ツムクェ集落は「死の場所」とまで言われるようになる。
ジョン・マーシャルの支援活動
この状況下で1981年、ツムクェの諸問題にかかわってきたアメリカ人人類学者・映画製作者ジョン・マーシャルが、住民が元の集落に戻って自立的な生活ができるよう「牧牛基金」(Cattle Fund)を設立して支援活動を強めた。牧畜・農業などで地域開発を進めるNGO「ジュワ・ブッシュマン開発財団」Ju|Wa Bushman Development Foundation (JBDF)も設立された。現在のナミビア・ニャエニャエ開発財団Nyae Nyae Development Foundation of Namibia (NNDFN)の前身だ。1986年にはこのJBDF支援で、地域住民組織Ju|Wa Farmers’ Unionが設立され、これがニャエニャエ農民協同組合(Nyae Nyae Farmers’ Cooperative、NNFC)となり、さらに1998年、本格的な地域的自治組織、ニャエニャエ保全区(Nyae Nyae Conservancy)の設立につながる。
伝統的土地への権利
1990年に独立を達成した当時のナミビアには理想主義的な空気があった。独立闘争を戦った南西アフリカ人民機構(SWAPO)の新政府は、アパルトヘイト下にあった土地制度の改革に着手。そこでツムクェ地区で進められていた改革事業が重要な役割を果たした。独立の翌1991年に開かれた土地改革・土地問題会議(Land Reform and the Land Question Conference, held in Windhoek in June-July 1991)で、ツムクェの活動家たちは自らの実践と先住民の視点を積極的に提起した。
SWAPO政府は当初、例えば5ヘクタールずつなど土地の平等分配を行なう方針をとった。しかし、ツムクェのサン族は、伝統的な共同的土地利用の実践を進めており、別のやり方を主張した。居住地、小規模農地、狩猟採集地などが適切に配置されたサステナブルな伝統的共同的所有地ノレ(n!ore)を単位に土地への権利を回復する方途を求めた。
拡大家族のような村
ニャエニャエ保全区では、住民のほとんどが、広大なサバンナに散在する区内38の小村に住んでいる。それぞれがそのノレに対応する村だ。村人はほぼ一つの拡大家族で、25~50人で構成される。かつては各ノレは、そうした村が狩猟採集で生活を維持できる十分な野生動物、植物、水が確保される面積だったという。部族的性格の強い村で、基本的に他の人々は住むことができない。「ノレに住む権利は両親から受け継がれるが、婚姻により他のノレの居住権も得ることはできる。ジュトアン人はこのノレ制度を現代的な状況に適応させ、今でも土地分配と資源利用の基礎にしている」とのこと(資料1、p.96)。
こうした伝統的自治を維持する努力の中で形成されたのが、地域住民参加型の自然保護機関「保全区」(Conservancy)だった。1998年に発足したニャエニャエ保全区(Nyae Nyae Conservancy)はナミビア初の保全区であり、この形態の環境保全制度がやがて全国に広がっていく。
保全区(コンサバンシー)
ツムクェ地区(選挙区)には東部にニャエニャエ保全区(Nyae Nyae Conservancy)、西部にナジャクナ保全区(N‡a Jaqna Conservancy)の2つがある。ツムクェ集落自体はニャエニャエ保全区に囲まれているものの、保全区には属していない(域外)。しかし、同保全区を含めてその他重要政府機関のほとんどがここに事務所をおく。
ナミビアでは国土面積の17%が国立公園と何らかの保護地区になる一方、20%がこうした保全区の管理下に置かれている。全国に82の保全区があり、ニャエニャエ保全区(約9,000平方キロ)が、前述の通り最古。
保全区は住民組織でありながら、政府からの認定を受け半ば公的な役割を果たす自治組織だ。国の政策としてトップダウン的に自然保護を行うのでなく、また、単に自然保護のみを目指すのでなく、住民参加型で、その生業活動にも配慮しながら、サステナブルな自然との共存を目指すアプローチと言える。
こうした住民参加型の「コミュニティを基礎とした自然資源管理」(CBNRM、Community-Based Natural Resource Management)は当時、自然保護の世界的潮流となっており、豊かな野生生物資源を持つアフリカ地域でもこの種の法制度を整える国が増えていた。ツムクェの先住民運動もこの流れの中で、その時代に特徴的な法的枠組みを活用して先住民の権利拡大を図ったということができる。
コミュニティ森林区
同様のコンセプトに基づき、ニャエニャエ保全区地域は2013年、新たに法制化された農業水森林省管轄下の「地域森林区」(Community Forest)の指定も取った。森林区の法的枠組みは森林の産物、放牧についての管轄権も住民に与え、自治権を拡大する効果がある。両者を合わせて「ニャエニャエ保全区・地域森林区」(NNCCF Nyae Nyae Conservancy and Community Forest)と称し、その事務所をツムクェ集落中心部においている。
保全区の功罪
法律支援センター(LAC)の説明によると、「保全区は、1996年自然保全改正法(Nature Conservation Amendment Act of 1996)で法制化されたコミュニティーを基礎とした組織であり、環境観光省(Ministry of Environment and Tourism 、MET)に登録して、その領域内での野生動物と観光業を管理し、狩猟その他観光業活動などで収入その他便益を得ることができる。」(資料1、p.94)
こうした形での自治権拡大に批判がないとは言えなかった。特に、農業や牧畜を通してサン族の自立を目指す方針をとっていた立場からは、自然保護を優先することでそれらへの道が閉ざされるとが憂慮された。資料3は次のように述べている。
「(前述サン族支援の先駆者)マーシャルにとって、農牧業の重視は、ジュホアン人たちが自らの土地で生産的になることを意味したのであって、観光客やレジャー狩猟者のための伝統的「ブッシュマン」の役割を演じることに矮小化されるものではなかった。しかし、皮肉なことに今日、ニャエニャエ保全区は住民一人当たり年平均600Nドルというナミビアで最も高い収益をあげる保全区であり、その95%はレジャー狩猟許諾料、5%が観光業からの収入だ。同保全区の収入すべてを、美しいカラハリ地域を管理し、その観光、レジャー狩猟、バードウォッチング、そして「ブッシュマンを見ること」から生み出していることになる。」(資料3、p.13)
自然保護運動からも批判
他方で、自然保護を重視する立場からも批判がある。保全区など「コミュニティを基礎とした自然資源管理」(CBNRM)方式の自然保護は、たとえ地域住民による利用であっても、人間による一定の自然利用を認めている点が批判の対象となる。ナミビアやボツワナなど南部アフリカ諸国はこうした形の保全策の急先鋒で、例えば2016 年、ハワイで開かれた国際自然保護連合(IUCN)の総会で、象の密漁を防ぐため象牙の国内市場閉鎖、国内取引禁止勧告が決議されたが、ナミビアはこれに反対した。他のアフリカ諸国は密猟対策として在庫象牙を焼却しているが、ナミビアは象牙も犀角も燃やさない方針をとった(以下資料4参照)。その他ライオン、チーターを含め野生動物の保護に関してナミビアなど南部アフリカ諸国は「サステナブルな利用」を基本におく立場をとり、国際的自然保護運動からは批判を浴びることが多い。
利用を認めて実効ある保護
しかし、皮肉なことに、こうした住民参加による「サステナブルな利用」による自然保護を行う諸国で、野生動物の維持または増大が見られ、全面的な利用禁止を行なういわば自然保護「原理主義」の国で深刻な野生動物の減少と絶滅の危機が生じている。利用を全面的に禁じてしまうと、住民は自然地域を経済的利益のある農牧地に転換する他なく、かえって野生動物の生息地を狭め、家畜保護のための密猟を含めた野生動物駆除が広がる。しかし、適正な利用を認めれば、その経済的価値を守ろうとして、自然域で一定の野生動物保護を行うインセンティブが高まる、といった事情が指摘されている。
例えばチーターは、かつてアフリカに広範囲に分布していたが、2014年時点で、推定6,590頭が分散的に残るのみとなり、その6割は南部アフリカに生息する。キリンは、北部アフリカ・東部アフリカの亜種G. c. camelopardalis が1980年前後の20,577頭から2016年の650頭への激減するなど多地域で減少したが、南部アフリカでは10,000頭から17,551頭へと増加した。ライオンは、アフリカ全体では2016年までの21年間に43%減少し、現個体数23,000~39,000頭と推定されるが、詳細に見ると南部アフリカのボツワナ、ナミビア、南アフリカ、ジンバブエでは12%増加しており、これらの国以外で60%が減少している。クロサイ、アフリカゾウなどでも同じ傾向が見られ、この問題を調査した金子は「ナミビアをはじめとするこうした国々がワシントン条約会議などの野生生物関連国際会議で批判の対象となっているのは、決して公正なことではない。」と結論づけている(資料4、pp.25-26)。
ツムクェ地区のニャエニャエ保全区では、管理と利用をまかされた地域住民がサン族だ。この法的枠組みの中でサン族は自らの自治行使として昔ながらの伝統的狩猟を行なうことができ、先住民の狩猟権保証の観点からも貴重な事例となっている。
先住民の狩猟権
先住民の狩猟権については、次のような状況だ。
「サンにとって深刻な問題は、狩猟を犯罪とする政府の政策であった。植民地時代には、多くの南部アフリカ諸国で、生業狩猟を違法とする法律がつくられていた。現在、これの唯一の例外は、北東部ナミビアのニャエニャエ保全区だ。ジュホアン人サンが伝統的な武器(弓矢、槍、こん棒)で一定の野生動物を狩る権利を保持している。他地域のサンは、狩りをしているのが捕まれば、拘禁され罰金を科されている。これらのサンが動物の肉を得る唯一の方法は、彼らの地域で活動するサファリ・ハンティング企業から寄付される肉をもらうことだ。」(資料6)
先住民の言語教育
ナミビアは多民族・多言語国家だ。人口の約50%がバンツー系のオバンボ人50%だが、その他同じくバンツー系のカバンゴ人9%、ヘレロ人7%、ダマラ人7%、カプリヴィアン人4%などがおり、コイコイ系のナマ人が5%、サン人が3%となっている。サン人の推計人口は諸説あるが、27,000~38,000人で、その中にJu|’hoansi, !Xun, Hai||om, Naro, Khwe or !Xoonなどの部族がある。
インドと同じで、これらのうちから一つのみを公用語にすることができず、皆にとって必ずしも母語でない英語を公用語としている。初等教育の最初の3年間には母語での教育も行われるが、以後は英語での教育となる。
ツムクェ地区の教育の現状は、下記のようなものだ。
「ニャエニャエのジュホアン人は、村学校のおかげで、南部アフリカで唯一3年間、母語で教育を受けられるサン族だ。1992年にNNDFNの手動で開始された村学校事業は、ニャエニャエの村々に学校を設立しはじめ、現在では6校が存在している。これらは、ノルウェー・ナンビア協会(NAMAS)の支援で政府が運営を行う。1~3学年時にジュホアン語での教育が行われ、その後はツムクェにある公立小学校に入ることになっている。」(資料1、p.121)
しかし、そのような体制があっても、サン族に十分な教育が保証されているとは言い難い。全国的な数字だが、教育省の2010年統計では、小学校低学年(1~3学年)の就学率は67%、同高学年(4~7学年)で22%、中学校(8~9学年)で6%、そして高校(11~12学年)では1%以下に過ぎない(資料1、p.527)。
ナミビアはアフリカでも最も先進的な教育政策をとる国の一つとされ、憲法第9条で人々の文化的権利、第3条で英語以外の言語を使用した教育への権利をうたう。1991年に採択された基本教育スポーツ文化省(Ministry of Basic Education, Sport and Culture)の「ナミビアの学校における言語政策」(Language Policy for Schools in Namibia)は初等教育の最初の3年間は学習者の母語で教育し、その後は英語に移行しながらも、母語を教科として教えることを定めている(資料1、p.526)。そして、2003年の同省文書でも、この政策の基本として、例えば「話者数、言語の発達レベルに関係なく民族言語が平等であること」「言語は、文化と文化的アイデンティティを伝える手段であること」「学習者が母語を通じて学ぶこと、とりわけ読み書きと考え方の基本を取得する学校教育の初期においてそうすることが教育学的に理想であること」などを指摘している。
先住民の権利を正面からは取り上げていない
以上見るように、ナミビアは先住民に対して比較的に先進的な政策を採っていると言えるが、重要なことは、それらは必ずしも正式に「先住民」と認識した上での権利擁護措置ではないことだ。自然保護など別途方向からの政策措置により、結果的にサン族ら先住民の権利がある程度保証される形になっている。法律支援センター(LAC)の報告書は、ナミビアの法的枠組みの中における先住民の位置づけを次のようにまとめている。
「ナミビア憲法は、民族的部族的所属に基づいた差別を禁じているが、取り立てて先住民族やマイノリティの権利を認知しているわけではない。政府は「先住」より「マージナライズされた」(周辺に疎外された)コミュニティとして語ることを好んでいる。「先住」はヨーロッパ植民地主義に関連するものととらえ、ナミビア人の大多数は実際「先住」であることを示唆している。/したがって、ナミビア自体には先住民族を直接に扱う立法はないが、特に土地、伝統的統治、自然資源管理などで先住民族に一定の権利を保証する多くの関連議会立法が存在することになる。例えば、2002年共有土地改革法、2000年伝統的権威法、1996年自然保全修正法などである。」(資料1、p.20)
政府は「先住民族の権利宣言」にも批判的だった
この背景には、アフリカ諸国において、先住民族に特別の権利を認めることに対する根強い警戒と反対の姿勢がある。ナミビアは、先住民族の権利章典とも言える「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年10月、国連総会で採択)に結果的には賛成したが、審議の最終段階で他のアフリカ諸国とともに、原案に異議を唱え、修正を迫るとともに決議の延期を訴えた。特にナミビアは、2007年10月に総会第三委員会に提出した採択延期案の代表となるなど、大きな役割を果たしている(この辺の事情については(小坂田、資料5)が詳しい)。
先住民族の権利に関する国連宣言は、アフリカ諸国の求めにある程度妥協した形に修正されてから採択された。例えば、「主権独立国家の領土保全や政治的統一を全部又は一部を分割しあるいは毀損するいかなる行為をも、承認し又は奨励するものと解釈されてはならない」 という断り書き的な一文が入っている(第46条1項)。またナミビアは、賛成票を投じた後も、同宣言は先住民族に新たな分離権を付与するとは解釈されないことを念入りに確認する立場表明を行っている。
宣言第46条2項は「本宣言で明言された権利の行使にあたっては、すべての者の人権と基本的自由が尊重される。本宣言に定める権利の行使は、法律によって定められかつ国際人権上の義務に従った制限にのみ従う」としているが、ナミビア政府はこの「法律によって定められ」を「国家の国内法」のことだと理解し、「宣言に規定される権利の行使は、国家の憲法枠組み及び他の国内法に服するものと理解する」と勝手な解釈を後追い表明した。この項は人権的考慮からの制限を受けるだけだとのよくある注釈を示しただけなのものなのは明らかで、「ナミビアが主張するような国内法を理由とする義務の不遵守を容認する趣旨ではない。ナミビアは,賛成票は投じたものの、国連宣言を受けて先住民族に権利を認める意図がないことは明らかであった。」と小坂田は批判する(p.13)
国家統合上の懸念
先住民の自決権に反対が起こる最大の理由は、国家形成途上のアフリカ諸国において、特定民族集団に自決の権利を認めることが、国家統合上深刻なリスクとなりうるとする懸念だった。アフリカ諸国は、ヨーロッパ列強が引いた恣意的な国境線を受け継いでいる。民族が国境で分断され、現実にも様々な民族紛争、国境紛争が起こっている。先住民族の自決権をうたうことは、こうした問題に火に油を注ぐ形になることを懸念した。
米加豪モデルとの違い
無理のない懸念だったとも言え、深刻な現実的リスクがあったのも事実だろう。だが、ここでは、先住民族の概念ともかかわるより原理的な問題を考えてみる。もともと先住民という概念は、米国、カナダ、オーストラリアなどヨーロッパ人が「新大陸」を植民地化して、その住民を少数化・周辺化した国の状況を基本にしている。それを杓子定規的に外に拡大するとうまくいかない側面がある。それは例えば小坂田が次のように指摘する事象と関係する。
「アフリカ及びアジアの政府代表の中には, 先住民族問題はヨーロッパ諸国の植民地主義の産物であり、自国には関係ないと主張する者や、ヨーロッパ諸国に植民地化された歴史のある国の場合には自国のほぼすべての人が先住民族であると主張する者もあった。」(p.6)
ヨーロッパ植民地主義は、「新大陸」ばかりでなく、すでに強固な伝統農耕社会を形成していたアジア、アフリカ諸国も支配下においた。こちらでは多くの場合、植民者は多数化しなかった。米加豪では、植民者が多数化し、現地住民が少数化されてマージナルな存在になった。
例えばアフリカでは、黒人人口が膨大な数を占め、虐殺もあったが、北米ほど感染症で壊滅的打撃を受けることもなく、後に独立を達成し国家を形成した時点で圧倒的な多数派を占めることができた。米加豪モデルで言えば、先住民が多数派として国家を形成したことになる。そこにおいて「先住民」とはだれになるのか。皆先住民だとも言える。あるいは、その中で少しでも先に住んでいた人たちを先住民というのか。コイサン族などは「少し」どころか人類の起源に近い太古から先住民だ。
米加豪モデルでは、ヨーロッパ植民者に征服された現地住民はすべて先住民と理解されているだろう。その中で、より古くから居た人と、比較的新しく来た人を区別するなどということはない。例えばカナダ北部のイヌイットは約1000年前にユーラシアから移動してきて、古くから居た古エスキモーにほぼとってかわったが、双方とも先住民とみなされるだろう。新旧で区別することはない。何万年も前からオーストラリアとその周辺に居たアボリジニと、9~10世紀以降にニュージーランドにやってきたマオリの人々を区別する考え方もないだろう。
この考え方で行くと、アフリカではどうなるのか。植民地支配を受けた黒人すべてが分け隔てなく先住民として権利保護を受けなければならないとなるのか。確かに、コイサン族など典型的な先住民的立場の人々の状況はかなり厳しいが、一般黒人も例えば長いアパルトヘイト下の抑圧の歴史などで厳しい状況にある。特定民族・部族だけに特別の権利・保護を与えることで問題が起こらないかという懸念もわからないではない。
先住民をどうとらえるか
米加豪では、クリアカットな先住民規定をして権利擁護を行うことができるが、アフリカではそのままの概念では、あいまいな部分が残る。程度の差こそあれ、アジアでも同じだろう。植民地支配を克服して独立した民族が、その中で特にマージナル化された先住民的な人々をどう規定し権利擁護していくか、明確な線引きをすることに困難を来たす事例が多いと思われる。
だから、ナミビアのように、特別に先住民としての認知なしに、地域を基礎にした環境保全・管理の法的枠組みで、先住民の実質的権利保障を目指すというのは一つのやり方ではある。さらに伝統的統治の承認、人種・民族による差別の禁止といった、すべての人に適用される権利擁護の枠組みがこれを補完する。
と同時に、現在、古い歴史をもつマージナル化された先住民的集団が、「新大陸」ばかりでなく、アジア・アフリカの広い地域で覚醒し、自らの権利を訴え始めていることの意義も無視できない。こうした人々がつくりだす新しい社会的枠組みの可能性も、あらゆる地域で追求される価値がある。その辺の複雑な構図を解きほぐすのは難しいが、そうした複雑さを抱えながら現在のグローバル市民社会が動いていることを確認しておくのは無駄ではない。その中で、法的支援センターの次のような指摘が最低限理解されるべき視点と思われる。
「重要なことは、先住民族の権利に関する国際的な法枠組みは、先住民族に特別な権利を付与しようとしているのではないことだ。そうではなくて、先住民族が基本的な人権を享受しておらず、公共サービス(医療、教育など)が国民的平均をかなり下回っていることを確認している。したがって、先住民族の権利の構造は、すべての普遍的な人権規約に示された平等の原則を再確認するものであり、特別な権利を付与するのでなく、基本的な人権を確保するための特別な措置を定めたのだ。オンブズマン局が言う通り“社会経済的な格差をなくすため先住民族の特別な諸事情を考慮に入れようとしている”。」(資料1、p.17)
資料
1. Legal Assistance Centre and Desert Research Foundation of Namibia, Scraping the Pot, San in Namibia, Two Decades After Independence, 2014, edited by Ute Dieckmann, Maarit Thiem, Erik Dirkx, and Jennifer Hays
2. Legal Assistance Centre, Our land they took: San land rights under threat in Namibia, 2006
3. Nyae Nyae Development Foundation of Namibia, “Water, Land and a Voice,” 2018,
4. 金子与止「ナミビアの野生生物法と政策」『総合政策』22巻(2021)、pp.13-28
5. 小坂田裕子「アフリカにおける 「先住民族の権利に関する国連宣言」 の受容と抵抗」『中京法学』45巻1・2号(2020年)
6.John Grobler, “It pays, but does it stay? Hunting in Namibia’s community conservation system,” Mongabay, 26 February 2019