ダルエスサラームで焼きトウモロコシを食う 中国バックパッカーと

ダルエスサラーム雑踏の屋台で焼きトウモロコシを買い、民家だか店だかの軒先階段に腰かけて食べた。

*Dar es Salaamは現地ではダレスサラームのようになめらからに発音しているようだ。ダル・エス・サラームと発音して通じなかったのでダレスサラームと書きたいところだが、ここは日本語での通常の表記に従う。

この雑踏でトウモロコシを食べた。翌日のモンバサ行きバス切符を買いに行ったすぐ近くのにぎやかな裏通りだったのだが、もう少し行けば有名な庶民市場のカリアコ市場があったはずだった。

すると隣にアジア系の若者が座っているのに気付いた。彼は食べ終わったとこだった。中国語で話しかけてきた。俺はジーベンレンだ、と返すと、そうか日本人かと言って、いろいろ話が弾んだ。きのうモンバサからバスでダルエスサラームに来たところだという。

ケニアで日本人にいろいろ会ったが、皆グループだったと不満げだった。やっと一人旅行の日本人に会った、と。

日本人しっかりしてくれよ。きのうまでも、ザンビアからの列車、バスで一緒だった旅行者集団の中に、中国人が一人居た(あとはザンビア、ガーナなどアフリカ人)。中国人はもともと、ビジネスチャンスを求めて海外に飛び出してきた人たちだ。旅も個人旅行が得意かもしれない。

ザンビアでいっしょになった中国人若者のX君。まずタンザニアの地方都市で知り合いのコンビニ店営業を手伝うと言っていた。どうしてアフリカに来たのか、という私の問いに、彼は私の顔をまじまじと見て、
「中国にはどれくらいの人口がいるか知ってるか。」
と聞いてきた。

ちょっと前までは、中国人観光客というと、旗振りの後を付いてくる「農協さん型」観光で、ちょっとみっともないなあ、と思っていた。日本人も何十年も前はそうだったのだが、中国人もそのうち変わるのを期待する、と思っていたものだ。

もう変わったのかも知れない。個人旅行をする若者が中国でも増えたか。そして相変わらずグループでしか旅行できない日本人をなげいて下さるようになってきた。

いいだろう、これから世界を席巻するアジア系バックパッカーは中国の若者だ。華僑が東南アジア、北米、世界に進出していったように、彼らを地球の至る所で見ることになるだろう。それで中国社会に新しい文化の潮流が流れるようになればなお好ましい。権威主義的な社会体制への変革の芽が育つかも知れない。日本の若者は、何をするにも便利で安全な日本だ、そこそこ楽しく暮らしていくことになるだろう。

焼きトウモロコシは硬く味もなく、まずかった。中国の雑踏で食べた焼きトウモロコシと同じだ。単独旅行をする世代の伝統を私たちは次の世代に伝えてきたか。反省しながらトウモロコシをかみしめる。

ダルエスサラームは、アフリカでもイスラム圏の影響が強く、カイロまで帰ってきたかのようだ。湿気も強く、これまで居たアフリカ・サバンナとまるで異なっている。

ダルエスサラームの雑踏。
イスラム圏を感じさせる古い街並み。インド洋岸のダルエスサラーム(人口540万人)は、1866年、対岸のザンジバル島を拠点にしたザンジバル・スルタン国のスルタン、マージド・ビン・サイードにより建設された。古来から東アフリカはインド洋交易圏の中に含まれ、その要衝にあったオマーン(アラビア半島東端)などの強い影響下にあった。19世紀前半、オマーンは、上記マージッドの父サイイド・サイードの治世下で、ソマリアからタンザニアに至る広大なオマーン海洋帝国が築いた。ザンジバルを首都にし、その後分裂したが、その36人の子の一人マージッドがダルエスサラームを築いたというわけだ。
ダルエスサラーム港。港を中心にこの街が発展した。
中心部の高層ビル。左の双子ビルは国の中央銀行「タンザニア銀行」。右の古い建物は、ドイツ治世下1902年に建てられた聖ジョセフ大聖堂。ドイツは19世紀末にこの地域に進出し、1895年にダルエスサラームをドイツ領東アフリカの首都に定めた。第一次世界大戦でドイツが敗れると、同領はイギリスの委任統治領に移行し(タンガニーカ)、ダルエスサラームはその中心都市として栄えた。
ヒンズー教寺院もある。インド洋交易圏の中で、インド人も古くから東アフリカに来ていたが、タンザニア地域がイギリス領になってからその植民地だったインドからの移民も急増。ピーク時にはタンザニアのインド人は11万人に達したが、タンザニア独立後、多くが去り、現在は5万5000人程度(人口の0.1%)。
専用線を走る市バス、BRTも導入されている。バス・ラピッド・システム(バス高速輸送システム)は地下鉄建設よりも安く、途上国の大都市交通システムとして期待されている。ダルエスサラームのBRTは、2016年に稼働した東アフリカ最初のシステム。
6~9月は乾季のはずなのだが、土砂降りの雨が降り、湿気も相当なものだった。雨の後は、街路がこのように洪水のようになる。
タンザニア国立博物館に行った。中庭の大木が見事だった。
印象的な絵画。これがタンザニアの人々の「原風景」なのだな、と思った。バオバブが生い茂る伝統的な村に土の道が通る。日本で言えば、黄金の稲田に赤とんぼ、藁ぶき屋根の村に柿の木の赤い実、といったものに相当するのだろう。
インド洋交易圏の他地域とのつながり。私たちは、シルクロードが東洋と西洋、例えば唐とローマ帝国を結びつけていたなどと考えがちだが、実は中東を経て東アフリカにもつながっていたことを教えられた。
タンザニアからは多くの古人類化石が出ている。人類発祥の地の一つだ。館内に多くの化石レプリカが展示されている。しかし、どこの博物館でも感じるが、化石やそのレプリカは学術的に貴重としても、そこに大きく描かれている当時の想像図が素晴らしい。だれが書いたか記されていないが、化石という石ころの向こうに確実にあった人々の暮らしに想いを馳せることができる。