韓国に寄るという選択
ナイロビから日本に帰るのに、途中、韓国に少々滞在することにした。「親日」に舵を切ったという韓国に興味をもっていたこともあるが、アフリカ旅行から直接、2歳の孫や妊婦が近くに居る(頻繁に往来している)自宅に帰るのを躊躇したためでもある。荒っぽい貧乏旅行でかつ長旅だった。病原菌を抱えている可能性がある。必要以上に恐れるのはよくないが、やはり周りに迷惑をかけない家族的・社会的責任に留意するのは当然。帰国してすぐに会う友人や仕事上の付き合いでも、会うのを恐れられるかも知れない。安全な場所で1ヶ月ほど様子を見るのが順当、と判断した。その点、韓国は日本と同じくらいの衛生状況、いや日本での「人食いバクテリア」蔓延を警戒して訪日に警告が出るくらいだから、もっと安全な所と言うべきか。
ナイロビから韓国に行くのに、最安は福岡経由
で、韓国行きの飛行機を物色したところ、何と最安はまず福岡に入ることだった。trip.comで、ナイロビから福岡まで約7万円で行ける。8月末なのでそうなるが、7月段階では5万6000円のがあった。LCCをつないだ便で、乗り継ぎの保証はなく、途中2都市経由、うち一都市では空港変更、空港泊が2夜、計約50時間という恐るべき便だが、貧乏旅行者には非常にありがたい。福岡に着いてさらにソウル行き便に乗ると、ソウルまで直接行く便と同じ程度の料金になるが、実は日本に1日でも足を踏み入れると、クレジットカード付帯の旅行保険が再び有効になるメリットがある。カード付帯旅行保険の期限は通常3カ月で私はすでにこれが切れていた。旅行途中でも入れる海外の旅行保険に入ったが、これだと70歳代向けのまともな補償で1ヶ月3万円程度かかる。日本(福岡)を経由することによりカード付帯旅行保険が再始動し、別途保険加入の3万円がまるまる浮く計算になる。
ナイロビを去る前日のバスケ
8月21日朝ナイロビ発の切符を買った。その(実質)前日、現地若者との最後のバスケ・トレーニングに出向く。毎日歩いた近所の風景がひときわ美しく見えた。
あの紫色の花をつける木は何だったんだろう。もうこの風景を見るのも最後だ、という思いがよぎる。私の人生では、再びアフリカに来ることはないだろう。少なくともナイロビのこの場所に来ることはない。そう思うと、すべての自然がみずみずしく美しく輝いて見える。
旅は別れ、つまり小さな死の積み重ねでもある。去ることの哀愁を疑似体験する。おそらく死が迫ったことを知った人たちも、それまで周囲を覆っていた何気ない日常風景がたまらなく美しく見えるに違いない。
最後の練習は、ややうまい若者たちとの2対2勝負になった。私は、このかんずっと1対1をたたかってきたラマール君と組んだ。相手は、一人は抜くのがめっぽううまく、もう一人は背が高い。私もディフェンスは負けてはいないのでいい勝負になった。しかし、背の高い方にゴール下でふんばられると防ぎようがない。
延々と一時間くらいやった。終わって、見ていた別の若者に「おぬし、結構やるな」と言われた(英語だが、そんなニュアンスに聞こえた)。きのう私との1対1を11対8で破った身長197センチの若者だ。「きょうが最後だよ。明日日本に帰るんだ」とお別れした。
ナイロビで買ったボールはラマール君にあげた。14歳だがやはり180センチある少年。私といい勝負だった。ほぼ毎日やっていい練習になった。自分のボールを持っていなかったので彼にやることにしていた。あまり喜ばなかったことが不満だが、まあ、ぼろいボールだった。
一期一会
ナイロビの前、キリマンジャロの見えるロイトッキトクを去るときのことを思い出した。ロイトッキトクの村では、バスケというより、子どもたちとの玉入れごっこの遊びをしていた感じだ。結構子どもたちの間で人気者になってしまって面白かった。
村を去るバスの中で、彼等のことがとてもなつかしく思われた。彼らの名前も聞かなかったが、一期一会。それでいいのだ。自分たちの子ども時代、村に日本人がやってきてバスケを教えてくれた、とても楽しかった、という記憶だけは彼らのどこかに残る。だれだったのかはもうわからない。しかし、だれでもいい。日本人、そして体験がどこか脳裏に残れば本望だ。
思えば、大学教員時代も一期一会だった。教育と言えるようなことができたか、はなはだ心もとない。あのときはこうやるべきだったのに、といった悔恨ばかりが記憶に残る。しかし、懸命に学生たちに対して、私の知らないところで彼らに何かを与えていたかも知れない。そんなもんだ。常に1回勝負で、やり直しなし。それでもどこかで互いに影響を与え合え、将来の人生のどこかで生きていく。そうやって皆も私も生きてきた。
2都市経由、空港変えあり、2空港泊、1機内泊、48時間の安便
最終的に買った約6万9000円の切符は、8月21日朝6時40分発、午後ムンバイ(ボンベイ)に着いてそのまま空港で夜明かし、翌22日朝バンコクに飛び、着いたスワンナプーム空港から市内反対側にあるドンムアン空港に移動し、深夜福岡に向けて飛び、翌23日朝7時に福岡に着く、という便だった。計48時間の旅でその後、福岡に1泊してソウルに飛ぶ。ナイロビ発は朝6時40分で、2~3時間前に空港に着いているためには、前夜から空港に泊まり込む必要がある。空港泊が計2泊になる。
ナイロビ空港近くの宿に泊まり、未明に空港に行くという手もあった。しかしこれまで空港に行くのにタクシーを使わない主義の私としてはバスなど交通手段が不安。歩くのは自信があるので、前もって試しに空港近くの宿から歩いてみたが、空港職員に制止された。空港へのアクセス路は歩いてはだめだという。前夜からの空港泊にする以外なかった。
ナイロビ空港
20日の昼頃、翌朝6時40分の飛行機に乗るため、ナイロビ空港に行った。空港の広々とした空間で仕事でもしてようと思ったのだが、お前の便なら入れるのは午後6時過ぎだと言われてしまった。外の涼しいところで待ち、夕方に入った。しかし、ゆったりした出発ロビー空間にはチェックインしてからでないと入れない。狭いチェックインカウンターの空間で待つ。電源が取れないのでパソコンも広げられない。本を読む以外ない。文庫本を持ってきていてよかった。本当に本でも読んでいる他ないという時間は、旅の中には必ずある。
未明にチェックインして、出国手続きを経て中に。いよいよ50時間の飛行機の旅だ。空港で寝たり、チェックイン、荷物検査、乗り換え作業の繰り返し。旅の気分や感傷に浸る余裕はない。航空便で運ばれる荷物になる気持ち。感情を殺し、ただひたすら右から左に受け渡されていく覚悟を決める。
ムンバイ空港
21日午後3時頃、ムンバイ空港に着く。インドと東アフリカをつないだインド洋交易圏を飛行機6時間で飛んできた。ナイロビは曇っていて空から街が見られなかったが、ムンバイの街はよく見えた。高層ビルもあったが、着陸間際、空港近くに大きなスラム地区があるのを確認した。発展しているといっても、インドは依然として過去の貧困を背負っている。
バンコク空港
午後にバンコク着。そのスワンナプーム国際空港も巨大な空港で、それ自体が都市。快適性は合格だ。
私はここで別の空港(市内反対側にあるドンムアン空港)に移動しなければならない。街に出るのはかったるいな、と思っていたが、簡単だった。乗り継ぎ航空券を見せれば、スワンナプーム空港からドンムアン空港まで直通の無料シャトルバスに乗れた。高速道路を走りながら、悠然とバンコクの発展ぶりを観察させていただいた。
福岡、そしてソウル