54年後の韓国

南山から見たソウル市街。

韓国への本格的な旅は54年ぶりと言っていい。途中、出張や航空機乗り継ぎで短期間ソウルに来たことはあるが、じっくりこの国を見るのは1970年、20歳のとき以来だ。

思い出深い旅だった。私にとっては最初の海外一人旅。そこでの体験が私に何かしら啓示を与え、その後の人生の端緒を開いた。次のように書いたことがある

「1970年7月に韓国の旅。議政府という街で病に伏した。何の病だったか、下痢だったようにも思うが、熱が出て、宿のベッドに横たわっていた。大きく開け放たれた窓から、空が見えた。日本は梅雨末期の大雨だったが、朝鮮半島中部まで来ると、雲は晴れ、乾いた大陸の空が広がっていた。…病にうなされながら、芭蕉の句を思い出したかどうかは忘れたが、窓の空を見ながら、旅したいという気持ちに強くとらえられた。国境を越えて来ただけで、 空が、空気がこんなに変わってしまう。違う空間が確実にある。あの窓のむこうにあった空に私は永遠を見たのではないか。それに魅せられ以後の人生をずっと歩いてきた。」

今回、ソウル南の南山に登り、そこでも当時につながるデジャブを感じた。あの時、梅雨末期の土砂降りの日本を抜け出し、ソウルのこの南山に登ると、乾いた空気が満ち、周囲からの優しい風が身体をなでていった。違う世界がある、違う人生を生きられる、という感覚をその時得た。今もまた、日本は熱暑の中だが、ソウルまで来ると少しは涼しく、南山にはやはり54年前の優しい風が吹いていた。(と、比較的涼しかったこの日、そして風が吹く山頂という場でそう感じたのだが……)

Nソウルタワー(旧南山タワー、塔の高さ237メートル)。漢江近くの中央博物館から北に見る。南山(標高243メートル)はもちろん、都ソウルの南にある山だ。ソウルの中心部から見ると、南に南山があり、その南にソウルを横切る大河、漢江があり、さらにその南に新開地の江南などがあるという構図。しかし、ソウルの南への都市拡大により、この南山を北に見る住人たちも増えたのではないか。今では南山はソウル都市圏のほぼ中央に位置する。中央博物館は漢江の北岸だが、南山よりは南で、南山とそのタワーは北に見ることになる。

 

標高243メートルの南山には涼しい風が吹いていた。タワーに上らなくとも、ソウル中心部がよく見える。 

光化門広場から景福宮へ

ソウルのシンボルとなるのが、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮だった景福宮(キョンボクン)。朝鮮王朝を築いた李成桂(太宗)が1394年、王都をそれまでの開城(現北朝鮮南部)から漢陽(ハンニャン、漢城、現ソウル)に移した。翌1395年から景福宮が正宮となり、豊臣秀吉による侵攻(文禄の役、1592年)まで約200年間続いた(以後、離宮の昌徳宮が正殿に)。近代になっての日本の植民地時代には、このど真ん中に壮大堅固な朝鮮総督府庁舎が建てられた(独立後に解体)。

景福宮の南門となる光化門(クァンファムン)。この場所にかつて日本の朝鮮総督府があった。
この辺一帯は「光化門広場」になっており、市民のデモ・集会などもここでよく行われる。
光化門の前には、朝鮮王朝きっての名君とされる4代目王、世宗(セジョン)の象。世宗は、朝鮮文字、ハングルをつくったことで知られる。
光化門を入っていくとまず現れる興礼門。韓国の宮殿には中国・北京の紫禁城などに似た建築様式があり、宮城敷地の中に多数の宮殿、門が配置されている。背景の山は北岳山(プガクサン、標高342メートル。白岳山とも)。景福宮の裏山で、ソウルを囲む城壁 (漢陽都城))の起点となっている。
勤政門。景福宮の正殿である勤政殿の前にある門だが、正殿本体と同じくらい立派な建築物だ。景福宮内には、朝鮮王朝時代の衣装を貸し出すサービスがあり、着飾った男女の観光客を多く見る。
景福宮の正殿、勤政殿。

景福宮の隅にこのような五重塔が建っていた。何かと思ったら民俗博物館だった。人々の実際の生活がわかる展示がいろいろあり面白かった。

昌徳宮、宗廟、北村韓国村

朝鮮王朝の離宮、昌徳宮(チャンドックン)の正門、敦化門。景福宮の離宮として1405年に創建され、秀吉の朝鮮侵攻(文禄の役、1592年)時に景福宮とともに焼失したが、その後、放置されたままの景福宮に代わる正宮として再建されていった。1997年に世界遺産(文化遺産)に登録。特にこの正門、敦化門は1412年に建てられたたままの建築として貴重。
仁政門。その裏にある正殿、仁政殿の前門だ。
昌徳宮の中心的な宮殿である仁政殿。公式行事が執り行われた。
同上。昌徳宮は景福宮とともにソウル市北部に並んで位置し、市街構造の骨格を成している。
朝鮮(李氏朝鮮)歴代国王とその位牌が祭られている宗廟。昌徳宮の前(南)に位置する。あいにく改修中だった。宗廟は昌徳宮などより観光客が少なく、都会の中にあって、静寂に満ちた森の中のたたずまい。
毎年5月初旬、王の末裔にあたる李氏一族が集まり、先祖を弔う儀式を行う(解説板の中の写真)。ここで奏でられる祭礼楽は、宗廟本体ともども世界遺産に登録されている。
景福宮と昌徳宮の間の地域は北村韓屋村と言われ、朝鮮王朝時代の古い街並みが残る。王族や両班と呼ばれる高級官僚が住んでいた。
同上。

先進国になっていた

韓国は、53年前に比べ、明らかに先進国になっていた。これは私がアフリカから来たからそう見えるというだけではないだろう。高層ビルが立ち並び、団地の多くが高層化していることもあり、ソウルはビルばかりに見える。漢江の橋も増え、道路も広がり整備されている。53年前は、直線で構成された日本の都市に対して、やや崩れかかった曲線が目立つ韓国の街、というイメージをもったが、今では、韓国の方こそビルの直線ばかりで構成された景観が目立つ。

ソウルの街の変貌を示す展示。今はビルばかりになっている。ソウル歴史博物館で。
至る所にこうした高層マンションが立ち並ぶ。マンションというより、普通の団地がすべて高層化していると見た方がいい。それくらい多いしそれが普通になっている。街を歩くと、この圧倒的な建築群の中から、ブルドーザーが大地をえぐる物凄い騒音・振動、そして建築活況の槌音が聞こえてくる思いだ。確かに、高度経済成長の時代にはそうした激動の改変が至る所で進行したに違いない。しかし、それはもう終わった。巨大なマンション群が今は静かにたたずみ、人々がその周囲で安らかに暮らしている。

かつて韓国の街には、ダサいおじさんやおばさんがたくさん居たが、今は皆スマートな風情に変わっている。若者はもちろんだが、おじさん、おばさんも意外と「あか抜けて」いる。さすがに私らと同じ団塊の世代だ^^。

アフリカ諸国と違って、東アジアの民は、会う人ごとに明るく挨拶しあうという習慣がない。目を合わせず、知らんぷりして通り過ぎる。日本もそうだが、韓国、少なくともソウルはなおのことそうだ。アフリカの風習に慣れた身として最初は違和感をもった。熱く挨拶を交わしたい、しかし、ツンと澄まして通り過ぎる、お高くとまる、人情の機微をあまり感じない、など。特に韓国人は、プライバシーを破って熱く内部に入り込んでくるというイメージ(ステレオタイプ?)があったので、日本よりもむしろクールな態度は意外だった。

が、これも都市化のせいだろう。アフリカでも大都市になれば熱く挨拶してくる人は少なくなる。人口密度の高い東アジア、そしてソウルという大都市で人々のクールな態度が磨かれてきたのだ。まあ、慣れてくればこれも気楽でいい。いちいち言葉を交わす気遣いもせず、平静な心で人の多い界隈を歩き回れる。そして、言葉さえ発しなければ、ここで私は現地人だ。

地下鉄は、どの駅もすべて可動式ホーム柵が設置されていた(設置率100%という)。ソウルの地下鉄は、総延長322キロに達し、東京(304キロ)を上回った。(ただし、日本では、地下鉄中心の韓国と異なり、JRや私鉄の地上鉄道が、輸送のかなりを担っていると思われる。)

日本でよく見るような小型車(ボックスカー)はほとんどなく、中大型車が多い。韓国も狭い路地はあるのに、これで不便ではないのか。車が単なる移動手段でなくステータスシンボルで、大きいのが求められるという。であれば、この点はまだ先進国とは言えない。

物価はかつて日本の5分の1から、ものによっては10分の1程度だった。しかし、今は明らかに韓国の方が高い。日本の1.2倍程度ではないか。贅沢をしたわけではない。つつましい日常生活で、野菜や果物、飲食料品、日用雑貨、外食などでそう感じた。(ただし地下鉄運賃など交通費は安い。博物館など入場無料のところが多い。シニア無料、割引なども外国人でも適用してくれるところが多く、良心的だ。)

50年の間に韓国は明らかに高度経済成長を遂げた。頻繁に行っていた中国は、そうした活況と都市改造の経緯を継続的に見てきたが、韓国は、その過程を見ることなく、突如先進国として私の目の前に現れた。ビルも何もかも新しい。高度経済成長が日本より近年だった分、すべてのものが真新しく感じる。

中国も高度成長して先進国のようになったが、路地裏など生活に密着した場で地が出る。「神は細部に宿る」。都市中心部の繁華街、大通り、ショッピングモール、空港、駅、そうした目立つところは、日本にも増して壮大な景観を呈するが、路地裏ではゴミが多かったり崩れた景観が多く、途上国を感じる。日本はそういうところも行き届き、そこに中国との差が表れる。韓国の場合は、そういう細かい所でも「先進国」で、これは本物だ。

例えば公園のトイレ。バスケコートのある小公園でトイレに入ったら、きちんと紙が置いてあるのはもちろんだが、その堅固なトイレ建物の内部にモーツアルトが流れていた(将軍峰(ジャングンブン)近隣公園)。日本でも最近は児童公園のトイレに紙が置かれるようになったが、音楽までは流れていないだろう。団地の中にあるごく普通の児童公園的な公園のトイレだ。これぞ先進国、と感じ入った。

ところが、その上があった。国会議事堂のある汝矣島(ヨイド)の汝矣島公園で、やはりバスケコート近くのトイレに入ったら、トイレ全体に冷房が効いていたのには驚いた。その中に身障者用のトイレはもちろん、子ども用の楽しい絵柄のトイレも設置されていた。

汝矣島公園バスケコート近くのトイレ。まず構造から堅固な建物で、中は冷房が効いていた。
子ども用トイレまで設置されているのには驚いた。
公園に水飲み場が少ない。これはちょっとよくない、と思ったが、あるところにはきちんと頑強な水飲み場が設置されている。そうか、日本の公園の水飲み場のようなちゃちなものでは、朝鮮半島の冬の寒さで簡単に水道管破裂してしまうのだ。だからつくるなら、頑丈なものをきちんとつくらねばならない。
あるいは、ごく普通の横断歩道脇に設置されていた待機用のベンチ。しかもその座席面がきれいに磨かれている。こういう何気ないところに、韓国の底力を感じる。神は細部に宿る。日本にもないこうした余力がいったいどこから来ているか。韓国はそれほどまでに経済力をつけたか。

若者が多い

韓国は世界で最も急激な少子化と高齢化に見舞われている。どんなに老人が多いのか、と思って観察すると、意外と若者が多い。ソウルの街に若者があふれている。ソウルだからか。日本でも全国的な少子高齢化にかかわらず、東京には若者があふれている。

が、そのうちわかってきた。韓国はまだ日本より老人が少ない。少子高齢化の「速度」は日本にも増して急激だが、今のところ、韓国の高齢化率(65歳以上の割合)は19・2%で、日本の29・3%よりずっと低い。2040年頃には日本を追い抜く予測だが、今のところ、まだ日本より若者が多いと感じても不思議はない。

韓国は日本と似たような文化の中で高度経済成長をし、似た条件の中で様々に異なる文化的・社会的発展を実現してきている。東アジアの可能性の幅を拡大する意味からも韓国の発展には大いに期待している。しかし、そこに垂れ下がった急速な少子高齢化は深刻な問題だ。何とか解決策を見出してほしい。(むろん、日本も見出さなければならないが。)

地下鉄に妊婦さん専用の席があってびっくりした。高齢者、身障者などのための優先席は別にある。少子化対策にどれだけ力を入れているかの証左。しかし、それでも効果を上げていないというのは深刻だ。

旅の難易度は高い

韓国は日本に近く文化も似ているのだが、ある面で旅の難易度は高い。まず、街に氾濫するハングルが読めない。若い頃は発音くらいはできるようになったものだが、今はもうだめだ。中国のように漢字が出ていれば、字体が多少違ってもおおよその意味はわかり、動きやすい。

例えばソウルで東大門に行きたいとする。しかし、通常、漢字表記はない。ハングルはわからないし、比較的よく出ているアルファベットでもDongdaemunで、これが東大門であることは勉強しないとわからない。「東大門はどこですか」と聞こうとしても、普通我々は「とうだいもん」としか頭に入っていないので聞けない。

地下鉄駅など要所要所で英語、中国語、日本語が併記されているが、常に、というわけでない。この駅で降りなければ、と思っていても、ハングルの地下鉄地図では何という駅だかわからないし、発音できないから聞けない。着いた駅がどこであるか瞬時に判断する必要があっても、普通はハングル表示しか見えないのでわからずじまいのうちにドアが閉まってしまう。英語の地下鉄地図を見ると、発音はわかるが、漢字はわからない。普通我々は漢字で地名が頭に入っている。漢字と現地発音を共に知っているのは明洞(ミョンドン)、江南(カンナム)など限られた地名だけだ。

地図にしても看板にしても、常にハングル+英語+日本語の3点セットで出てないと完璧には理解でない、ということになる。何はなくともハングルが出ていれば(たとえ読めなくても)形を解読して、ああ、これだこれだ、と特定できる。英語(または日本語カタカナ)が出ていれば読み方、発音がわかる。日本語の漢字(または中国語)が出ていれば漢字がわかる。その3つがそろって初めて、동대문はDongdaemun(トンデムン)と読み東大門のことだ、とわかる。

すべての駅を親切にも「チェンムロ」「イテウォン」「カンドン」などとカタカナ(とハングル)で書いてくれている日本人向け地図もあるが、これだと返ってわかりにくい。地名を無意識のうちに漢字で頭に入れてしまっているからだ。「忠武路」「梨泰院」「江東」とも書いてあるとわかりやすい。そもそも、カタカナばかりの地図を見せられると、日本語であるにもかかわらず、非常にわかりにくい、読みにくい。ハングルだけで書かれる韓国語というのもこんな感じなのだろうか。読みにくくないのか。

ただし、韓国もアラビア数字(1,2,3…)を使っており、値札やバスの番号などはわかるので助かる。数字までも私たちの読めないインド数字を使っている現アラビア語諸国、ビルマ数字を使うミャンマーなどほどの困難ではない。また豊かになった韓国では、外国語での観光案内や地名表示も充実してきているので、その点、困難が軽減される。

「嫌韓」に見る民族的活力の衰退

日本による植民地支配という過去の行き方を真摯に反省し、新しい諸国間の連携・共栄の方途を探っていかなければならない。むろん、韓国の中にも、反日を極端に強調しようとする人々は居る。反日を、それを民族的発展の情熱にしてきたような側面もあるだろう。しかし韓国にも良識派はおり、歴史を理解した上で未来を志向する人々が居る。私たちも彼らにこそ真摯に呼応したい。私は日本人なので日本のことを考えるが、心配なのは、日本の国内に、とにかく韓国を嫌い、韓国のことなら何でもケチをつけて批判する人たちが居ることだ。特に若い層にそうした心情を見ることがあり将来を案じる。

例えばK-POPや韓ドラが世界的な興隆を見せれば、何かとそれにケチをつけようとする暗い情熱にかられる。そうではなくて、韓国が特技を発揮するなら我々は何ができるか。アニメかカラオケか、和食かおもてなしか、メジャー級野球か「お家芸」スケボーか、ノーベル賞級先端理論か安価な打上げロケットか。とにかくこの地域に多様で豊かな発展を共に生み出していく積極姿勢が求められる。そうした方向を向く活力が減退してはいないか。若者たちよ、がんばれ。君らにはそれができるはずだ。韓国はよくも悪くも日本のライバルとなっているし、今後ますますそうなっていくだろう。そして、私たちは成長するためにライバルが必要だ。互いに相手の発展を糧に成長していきたい。

東大門周辺

正直のところ、遠いアフリカの旅は、懸命に報告する気になるが、近くの韓国だと報告欲が特に高まるわけではない。名古屋から観光レポートを送っても日本の皆様はあまり読まないだろう、というのと同じだ。韓国は日本からの旅行者も多く、優れたレポートが多数出ている。今更私がのこのこと書き出しても…と思う。しかし、というかだからこそ、久しぶりの息抜きと割り切り、かみさんと観光名所を気楽にぶらついた。

宿近くの東大門(トンデムン)。正式には興仁之門(フンインジムン)という。ソウル(かつての漢城)は城壁で囲まれており、その四方に城門がある。東大門が興仁之門、南大門が崇礼門。他に西の敦義門、北の粛靖門がある。
他の四大門もそうだが、東大門も、今ではビルに囲まれてしまっている。
東大門周辺は衣料関係の市場が多く、多数の大きなビルの中にファッション関係の店が入っている。東大門近くを清渓川(チョンゲチョン)が流れるが、その周囲もそうしたビルが林立する。
この清渓川(チョンゲチョン)は、水辺の保全・再開発事業としても有名だ。子どもたちが遊び、若い男女のデートコースともなっているこの川が、かつてはどぶ川で、しかもその後高速道路建設で暗渠化されていたとはなかなか想像できない。2003年7月から2005年9月にかけ高架道路撤去と河川復元工事が行われ(全長5.8キロ)、市民の憩いの場に変わった。
東大門から東へ1キロ、我らの宿からも近いところに、在来的市場のソウル中央市場があった。名前ほどには大規模市場ではないが、食料品から生活雑貨まで約900のお店が並び、散策すると楽しい。
何だこれは。東大門に隣接して巨大な宇宙船を思わせる不思議な建物があった。イギリスの著名建築家ザハ・ハディドの設計による「東大門デザインプラザ」(DDP)だ。展示会場やショッピングモールが入り、文化センターの役割を果たす。2014年に完成した「世界最大規模の3次元非定型建築物」とのこと。この土地には、朝鮮王朝時代に治安担当の下都監や訓錬都監が置かれ、日本統治下の1925年に朝鮮初の総合競技場である京城運動場がつくられた。戦後それがソウル運動場、さらに東大門運動場となりプロ野球などに使われた。2007年にそれが撤去され、公園(東大門歴史文化公園)とこのDDPがつくられた。
その文化公園の一角に小さな博物館があった。運動場の解体と、公園、DDP建設の過程で出てきた遺物を展示する東大門歴史館だ。玄関表示もはっきりしない小さい施設だが、印象に残る博物館だった。
東大門の近くだ、掘ればいろんなものが出てくる。治安関係の官庁や軍事施設、軍兵装備、鉄器生産遺跡、漢陽都城の城郭の一部などなど。学術的に特別に貴重というわけではなかろうが、これら運動場に埋没されてしまったものを丁寧に掘り起こし、その伝統を確認・展示していく姿勢に感服した。これほどまでに歴史を大切にし、自分たちの過去を残していこうとしている。誇り高い民族だ、と思った。

明洞、南大門

ソウル随一の繁華街、明洞(ミョンドン)。若い人が多い。日本で言えば銀座+原宿か。
明洞から比較的近いところにある南大門(崇礼門)。南の入り口となる四大門の一つだ。
南大門近く(東側)も巨大な市場エリアになっている。食品から衣料、日用品、土産店まで何でもあり、1万件近い店がひしめく。

漢江エリア

明洞、南大門の南に冒頭紹介の南山が隆起し、それを越えると、龍山(ヨンサン)区など漢江北岸エリアとなる。この地域は、北方から攻めてきたモンゴルが兵站基地にするなど、古くから外国軍の拠点となった。秀吉の朝鮮出兵でもこの地域に陣がはられ、日露戦争時に日本軍がここに兵営を置いた。植民地時代には日本陸軍の駐屯地となり、朝鮮軍司令部も置かれた。第二次大戦後は米軍がこれを引き継ぎ、在韓米軍司令部を置いた(龍山基地)。ソウル駅から数キロしか離れていなかったこの米軍基地は、2018年までに、南方80キロの平沢市内ハンフリーズ基地に移転した。

龍山基地の移転計画に伴い、2005年に、敷地内に国立中央博物館が建てられた。これぞ韓国のザ・博物館だと言わんばかりの壮大な規模の博物館だ。
館内は広々として、韓国の文化、歴史の展示など。最上階には世界の文物も展示し、日本文化についても基本を押さえた展示をしていた。
伝統的陶器の展示。
中央博物館の南には漢江が流れ、多数の橋がかかる。対岸を江南(カンナム)といい、ソウルは江南地域に急速に拡大している。写真は中央博物館にも近い銅雀(ドンジャク)大橋。私も後日、この橋の対岸、銅雀区内に安宿を見つけることになる
銅雀大橋の(北から渡って)左手に、繁栄する(狭義の)江南(カンナム)地域が見える。江南区を中心に富裕層が住み、商業・文化の新しい中心になりつつ地域だ。PSY「カンナム・スタイル」の発祥地。
江南(カンナム)の中心となる地下鉄江南駅界隈。江南は、古くからの「江北」(元来のソウル中心部)に比べて、比較的平地が多く、広い道路が碁盤の目のように並び車交通も多い。歩きまわると、ロサンゼルスや日本の地方大都市(名古屋もそうだが)のように感じる。
江南の歓楽街。なかなか盛況ようで。朝鮮王朝第9代国王、成宗らの墓がある三陵(選定陵、世界遺産)のすぐ近くなんですが。

収まらない熱暑

何だこの暑さは。福岡、そしてソウルに着いたときからずっと攻められている。確かにソウルは日本から比べれば2、3度は気温が低いだろう。しかし、昨今の東アジアの猛暑は、その程度の差は帳消しにしてしまう。8月末になっても(いや、その後9月中旬になっても)、恐ろしい暑さが続く。

涼しいアフリカが恋しい。本当だ。アフリカはそんなに暑くない。ダルエスサラーム、モンバサなど海岸部は日本と同じく蒸し暑かった。しかし、それ以外は、地中海気候の南アを始め、ナミビア、ザンビア、そしてケニアと涼しかった。アフリカは台地で、多くの居住地が内陸の高原地帯にある。サバンナの乾いた気候なので、多少暑い日でもしのぎやすい。

ソウルの暑さは独特だ。日本の場合は、荒々しい太平洋から熱暑が豪快に押し寄せる。ソウルも黄海からの湿った暑さに覆われるが、比較的静かな黄海からと考えるからか、攻撃的な熱暑とは異なり、内側からじとじと暑さに体をむしばまれる感じだ。

当初は、地方を含め韓国内をまわって53年ぶりのこの国をまんべんなく見たいと思った。しかし、止まない熱暑攻勢でその気が失せた。特に、日本に近い南の方には行きたくない。結局、ソウルの郊外、水原までが今回の韓国旅行の「南限」となった。

水原華城

ソウルの南40キロにある水原(スウォン)市。ここに朝鮮王朝22代世祖(チョンジョ、別名イ・サン、1752~1800年)が建てた水原華城(スフォンファソン)がある。

世祖(チョンジョ、イ・サン)は、朝鮮王朝史の中で第4代王世宗(セジョン)と並んで愛される賢君。テレビドラマ『イ・サン』(MBC、2007~2008年、監督イ・ビョンフン)で取り上げられ人気を博した。封建特権を排し王権を強化するため政治・経済改革を行い、能力ある者を積極的に登用したとされる。政争で悲劇的死を遂げた父(荘献世子)を敬い、その墓を安置する城郭として水原華城をつくった。行宮(仮宮殿)もつくり、華城への遷都も検討していたが、自身の死により実現しなかった。

5.7キロに及ぶ城壁が自然と溶け込み、城門や華城行宮などが朝鮮王朝時代の建築美を今に伝える。1997年に世界遺産に登録。人気テレビドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』(MBC、2003~2004年)など韓流ドラマのロケ地としても知られる。

起伏の多い丘陵に沿い5.7キロの城郭がめぐる。華城の内外に街があり、現在の水原(人口120万)は華城と一体化している。同市はソウルの郊外都市で若年人口が多く、サムスン電子、斗山ロボティクスなどの本社もある。ソウル駅などから地下鉄1号線直通で行ける。水原駅からバス。歩いても南門にあたる八達門まで1.5キロ程度。
水原華城の北側一帯が景観がよさそうだ。城壁が続く。
北端近くにある東将台。 兵士が訓練した所で、錬武台とも呼ばれる。
水原華城の真ん中を南北に流れる水原川。ソウル、あるいは京都や奈良でも同じだが、東アジアの都には川(大災害を起こさない程度の中規模の川)が不可欠だ。風水上の理由もあるが、生活用水として、そして何より廃水により都市を浄化する機能が重要だったと思われる。
水原華城の中ほどにある華城行宮。王などが水原に来たとき泊まる仮りの宮殿。ここに遷都する計画もあったが、世祖の死去により実現しなかった。
華城行宮の内部。『チャングムの誓い』に出てきたか。
宮殿の内部が復元されている。

「北」との境界、38度線近くまで 臨津閣

ソウルのすぐ北には北朝鮮との国境が横たわる。ソウルに来たからにはそこまで行かないわけには行かないだろう。とりあえず臨津江(イムジンガン、イムジン河)に面した臨津閣(イムジンガク)まで行くことにした。ソウルから簡単に行ける。まずソウル駅から出ている地下鉄・京義中央線で終点の汶山(ムンサン)まで行く。列車は頻繁に出ており、約1時間の旅で運賃は200円程度。その先の臨津江駅まで直接行く列車は平日だと朝夕2本だけで、9時20分に出てしまっていた。バス便も時間が合わなかったのでそこからタクシーで行った。2000円かからなかったと記憶する。

南北国境(非武装地帯)の近くなので、緊張して行ったが、あっけないほど簡単だった。さらに意外だったのは、臨津江に面したこの臨津閣。こんな風に言うとお叱りを受けるかも知れないが、人気のテーマパークだった。臨津江やその先の非武装地帯を展望できる立派な建物があり、各種モニュメントの他、レストランやファストフード店、売店も完備。子ども向けに遊園地まである。ここから板門店や非武装地帯各所へのツアーも出る(板門店ツアーは現在は休止)。臨津江を下に見てこれを渡るロープウェイまであり、迷わずこれに乗った。

南北離散の悲惨を味わった人たちが北を望む拠点になっているのだが、そういう人たちより、明らかに私らのような物見高い観光客が主体だ。南北対立という困難なテーマをテーマパークにし、観光収入をあげる。いや、決して批判する気はない。そのしたたかさ、肩ひじ張らない姿勢を賞賛する。すばらしいことではないか。各種博物館もあり、気楽に来た人たちもいろいろ勉強になる。

ロープウェイで臨津江(イムジンガン)を渡った。1960年代に日本のグループ、フォーク・クルーセイダーズが歌った名曲「イムジン河」のあのイムジンガンだ(北朝鮮の発音ではリムジンガン)。♪イムジン河、水清く、とうとうと流る、水鳥自由にむらがり飛びかうよ♪ 原曲は北朝鮮の高宗漢作曲。複雑な事情からクルーセイダーズの1968年のレコード発売は自粛の憂き目を見るが、その後も2002年発売のシングルCD版がオリコンシングルチャート最高14位を記録する(売り上げ10万枚以上)など根強い支持を得ている。原曲は必ずしも北朝鮮のプロパガンダではなく、スターリン批判の時代にわずかに芽生えた抒情的な音楽潮流を示すもので、北朝鮮では長らく曲が禁止または政治的に忘却されていた、との背景分析がある(小島亮「夭折のエストラーダ : 北朝鮮歌謡「リムジンガン」再考」、中部大学国際人間学研究所編『アリーナ 』22巻、2019年)
イムジン河にかかる「自由の橋」。ロープウェイで対岸に行く際、左手に見える。もともとソウル(京城)と、中国国境に近い義州を結ぶ京義線の「臨津江鉄橋」だったが、現在、同線は、南北国境の都羅山駅まで限定的な列車が行くだけ。1953年、朝鮮戦争が休戦した後、約1万3000人の捕虜が「自由万歳」と叫びながら橋を渡って南に帰還したことから「自由の橋」と呼ばれるようになった。なお、前の写真の遠方にも橋が見えるが、あれは反対側右手の道路橋「統一大橋」。今はそちらの方が、民間人出入統制区域、板門店へのアクセス路となっている。
ロープウェイで対岸に着いた。全長273キロのイムジン河は、北朝鮮の山岳地帯、江原道法洞郡に発し、中流で韓国領内に流れ込む。この辺も両岸ともに韓国領だが、臨津閣のすぐ北に「民間人出入統制線」(民統線)が引かれており、イムジン河を含め以北は「民間人出入統制区域」となる。入るのが規制され、ロープウェイに乗る際もパスポートチェックがあった。民間人出入統制区域からさらに奥に入ると幅10キロほどの「非武装中立地帯」(DMZ)となり、その真ん中を南北国境、正確には休戦ラインが走る(そこに板門店も位置する)。イムジン河(臨津江)はこの周辺から約30キロ下ったところで、ソウルの方から流れてくる漢江と合流し、大河となって黄海に注ぐ。その合流付近より下流には民間人出入統制区域もDMZもなく、川むこうに直接北朝鮮領内が望める。合流地点韓国側にオドゥサン統一展望台がある。
民間人出入統制区域を恐る恐る歩き出したのだが、少なくとも金網で閉じられているところ以外は自由に歩いてよいようだった。丘の上まで登ると博物館があった。いや、博物館だと思ったのだが、ギャラリー・グリーブズという展示会場で(写真)、この時は「パッセージ」(時の経過)という朝鮮戦争と軍事基地の歴史展示をしていた(この年8月30日から11月16日まで)。この辺の敷地は、朝鮮戦争後、米軍2師団506歩兵大隊が駐屯していた基地「キャンプ・グリーブズ」で、2004年の撤収後、アーティストたちの工房に生まれ変わった。基地のボウリング場がこの展示会場になり、将校宿舎はユースホステルになって一般人も宿泊可能だという。
別の丘に登って、鉄条網の向こうに、イムジン河下流を展望した。まだあの辺は韓国領の民間人出入統制区。北朝鮮領域を望むには、有料のDMZツアーに参加する必要がある。午後遅かったのですでに終了していた。
韓国の他の観光スポットもそうだが、ここ臨津閣でも日本語を含めた外国語観光案内が充実していた。

国立6.25戦争拉北者記念館

朝鮮戦争時に北に連れて行かれた人々に関する博物館が印象に残った。臨津閣のはずれ、臨津江駅に向かう方向にあった。

ソ連が第二次大戦後投降した日本兵捕虜など約57万人をシベリアに抑留し労働力不足を補ったように、北朝鮮は、朝鮮戦争時に推定約10万人の民間人を北に拉致し、労働力不足を補ったとされる。家族が離散し、連絡も取れない悲劇が多数の人々を襲った。展示内容を写真に撮ったと思ったのだが撮れてなかった。上記写真中、「ひとときも忘れたことのない」「会いたくてたまらない人々」のパンフがこの博物館のパンフ。

なお、韓国では朝鮮戦争のことを、1950年の北の侵攻開始日付をとって6.25戦争という。

朝鮮戦争は、今では、北の侵略によって始まったことが明確になっている。当時は、朝中ソをはじめ、日本の左派政党、進歩的知識人の間にも、韓国とアメリカによる北への侵略が戦争の原因とする見方があり、60年代の私も、当時の「アメリカ帝国主義のベトナム侵略」を批判する思潮の中で、朝鮮戦争もこうした勢力が起こしたのだろうと思っていた節がある。しかし、1991年のソ連崩壊により、ソ連邦の公文書・機密文書が開示され、金日成とスターリンの生々しい通信文を含め侵略に至る事情が白日の下のさらされたソ連崩壊後に明らかになった資料で歴史を検証しなおす課題がまだまだいろんな方面で残されていると思われる。

朝鮮戦争では、アメリカ軍が投下した爆弾だけでも66万9000トンにのぼり、第二次世界大戦で日本に投下した16万800トンの4倍となった。戦線はソウルを始め、南は釜山近郊、北は中国国境近くまで移動し、朝鮮半島全体に大きな被害が出た。最終的な民間人の死者は、推計にばらつきがあるものの、全土で200万人は下らないとされ、400万~500万人に及ぶとの見方もある。その上さらに離散家族その他多くの悲劇が起こった。

朝鮮戦争の画像、public domain photos, 詳しくはWikimedia Commons

植民地支配を経て第二次大戦、朝鮮戦争の惨禍を体験し、現在なお分断国家の苦渋と地政学的なリスクを背負う韓国が、民主化を達成し先進国として目覚ましい発展を遂げたのは、驚嘆すべき歴史的経験だ。依然として独裁的体制が支配する東アジアの中にで、この事例のもつ意味、果たす役割は大きい。今後も、その役割にふさわしい発展を進んでいって欲しい。

朝と夕、1日2本の地下鉄直通電車が臨津江駅(臨津閣近く)から出ている。帰りはこれに乗れた。
臨津江駅からの発車時刻表。例えば平日(左)夕刻の列車は臨津江駅を17:25に出て、汶山駅発は17:25という意味。休日(右)は朝夕2本ず」つある。