韓国への本格的な旅は54年ぶりと言っていい。途中、出張や航空機乗り継ぎで短期間ソウルに来たことはあるが、じっくりこの国を見るのは1970年、20歳のとき以来だ。
思い出深い旅だった。私にとっては最初の海外一人旅。そこでの体験が私に何かしら啓示を与え、その後の人生の端緒を開いた。次のように書いたことがある。
「1970年7月に韓国の旅。議政府という街で病に伏した。何の病だったか、下痢だったようにも思うが、熱が出て、宿のベッドに横たわっていた。大きく開け放たれた窓から、空が見えた。日本は梅雨末期の大雨だったが、朝鮮半島中部まで来ると、雲は晴れ、乾いた大陸の空が広がっていた。…病にうなされながら、芭蕉の句を思い出したかどうかは忘れたが、窓の空を見ながら、旅したいという気持ちに強くとらえられた。国境を越えて来ただけで、 空が、空気がこんなに変わってしまう。違う空間が確実にある。あの窓のむこうにあった空に私は永遠を見たのではないか。それに魅せられ以後の人生をずっと歩いてきた。」
今回、ソウル南の南山に登り、そこでも当時につながるデジャブを感じた。あの時、梅雨末期の土砂降りの日本を抜け出し、ソウルのこの南山に登ると、乾いた空気が満ち、周囲からの優しい風が身体をなでていった。違う世界がある、違う人生を生きられる、という感覚をその時得た。今もまた、日本は熱暑の中だが、ソウルまで来ると少しは涼しく、南山にはやはり54年前の優しい風が吹いていた。(と、比較的涼しかったこの日、そして風が吹く山頂という場でそう感じたのだが……)
光化門広場から景福宮へ
ソウルのシンボルとなるのが、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮だった景福宮(キョンボクン)。朝鮮王朝を築いた李成桂(太宗)が1394年、王都をそれまでの開城(現北朝鮮南部)から漢陽(ハンニャン、漢城、現ソウル)に移した。翌1395年から景福宮が正宮となり、豊臣秀吉による侵攻(文禄の役、1592年)まで約200年間続いた(以後、離宮の昌徳宮が正殿に)。近代になっての日本の植民地時代には、このど真ん中に壮大堅固な朝鮮総督府庁舎が建てられた(独立後に解体)。
景福宮の隅にこのような五重塔が建っていた。何かと思ったら民俗博物館だった。人々の実際の生活がわかる展示がいろいろあり面白かった。
昌徳宮、宗廟、北村韓国村
先進国になっていた
韓国は、53年前に比べ、明らかに先進国になっていた。これは私がアフリカから来たからそう見えるというだけではないだろう。高層ビルが立ち並び、団地の多くが高層化していることもあり、ソウルはビルばかりに見える。漢江の橋も増え、道路も広がり整備されている。53年前は、直線で構成された日本の都市に対して、やや崩れかかった曲線が目立つ韓国の街、というイメージをもったが、今では、韓国の方こそビルの直線ばかりで構成された景観が目立つ。
かつて韓国の街には、ダサいおじさんやおばさんがたくさん居たが、今は皆スマートな風情に変わっている。若者はもちろんだが、おじさん、おばさんも意外と「あか抜けて」いる。さすがに私らと同じ団塊の世代だ^^。
アフリカ諸国と違って、東アジアの民は、会う人ごとに明るく挨拶しあうという習慣がない。目を合わせず、知らんぷりして通り過ぎる。日本もそうだが、韓国、少なくともソウルはなおのことそうだ。アフリカの風習に慣れた身として最初は違和感をもった。熱く挨拶を交わしたい、しかし、ツンと澄まして通り過ぎる、お高くとまる、人情の機微をあまり感じない、など。特に韓国人は、プライバシーを破って熱く内部に入り込んでくるというイメージ(ステレオタイプ?)があったので、日本よりもむしろクールな態度は意外だった。
が、これも都市化のせいだろう。アフリカでも大都市になれば熱く挨拶してくる人は少なくなる。人口密度の高い東アジア、そしてソウルという大都市で人々のクールな態度が磨かれてきたのだ。まあ、慣れてくればこれも気楽でいい。いちいち言葉を交わす気遣いもせず、平静な心で人の多い界隈を歩き回れる。そして、言葉さえ発しなければ、ここで私は現地人だ。
地下鉄は、どの駅もすべて可動式ホーム柵が設置されていた(設置率100%という)。ソウルの地下鉄は、総延長322キロに達し、東京(304キロ)を上回った。(ただし、日本では、地下鉄中心の韓国と異なり、JRや私鉄の地上鉄道が、輸送のかなりを担っていると思われる。)
日本でよく見るような小型車(ボックスカー)はほとんどなく、中大型車が多い。韓国も狭い路地はあるのに、これで不便ではないのか。車が単なる移動手段でなくステータスシンボルで、大きいのが求められるという。であれば、この点はまだ先進国とは言えない。
物価はかつて日本の5分の1から、ものによっては10分の1程度だった。しかし、今は明らかに韓国の方が高い。日本の1.2倍程度ではないか。贅沢をしたわけではない。つつましい日常生活で、野菜や果物、飲食料品、日用雑貨、外食などでそう感じた。(ただし地下鉄運賃など交通費は安い。博物館など入場無料のところが多い。シニア無料、割引なども外国人でも適用してくれるところが多く、良心的だ。)
50年の間に韓国は明らかに高度経済成長を遂げた。頻繁に行っていた中国は、そうした活況と都市改造の経緯を継続的に見てきたが、韓国は、その過程を見ることなく、突如先進国として私の目の前に現れた。ビルも何もかも新しい。高度経済成長が日本より近年だった分、すべてのものが真新しく感じる。
中国も高度成長して先進国のようになったが、路地裏など生活に密着した場で地が出る。「神は細部に宿る」。都市中心部の繁華街、大通り、ショッピングモール、空港、駅、そうした目立つところは、日本にも増して壮大な景観を呈するが、路地裏ではゴミが多かったり崩れた景観が多く、途上国を感じる。日本はそういうところも行き届き、そこに中国との差が表れる。韓国の場合は、そういう細かい所でも「先進国」で、これは本物だ。
例えば公園のトイレ。バスケコートのある小公園でトイレに入ったら、きちんと紙が置いてあるのはもちろんだが、その堅固なトイレ建物の内部にモーツアルトが流れていた(将軍峰(ジャングンブン)近隣公園)。日本でも最近は児童公園のトイレに紙が置かれるようになったが、音楽までは流れていないだろう。団地の中にあるごく普通の児童公園的な公園のトイレだ。これぞ先進国、と感じ入った。
ところが、その上があった。国会議事堂のある汝矣島(ヨイド)の汝矣島公園で、やはりバスケコート近くのトイレに入ったら、トイレ全体に冷房が効いていたのには驚いた。その中に身障者用のトイレはもちろん、子ども用の楽しい絵柄のトイレも設置されていた。
若者が多い
韓国は世界で最も急激な少子化と高齢化に見舞われている。どんなに老人が多いのか、と思って観察すると、意外と若者が多い。ソウルの街に若者があふれている。ソウルだからか。日本でも全国的な少子高齢化にかかわらず、東京には若者があふれている。
が、そのうちわかってきた。韓国はまだ日本より老人が少ない。少子高齢化の「速度」は日本にも増して急激だが、今のところ、韓国の高齢化率(65歳以上の割合)は19・2%で、日本の29・3%よりずっと低い。2040年頃には日本を追い抜く予測だが、今のところ、まだ日本より若者が多いと感じても不思議はない。
韓国は日本と似たような文化の中で高度経済成長をし、似た条件の中で様々に異なる文化的・社会的発展を実現してきている。東アジアの可能性の幅を拡大する意味からも韓国の発展には大いに期待している。しかし、そこに垂れ下がった急速な少子高齢化は深刻な問題だ。何とか解決策を見出してほしい。(むろん、日本も見出さなければならないが。)
旅の難易度は高い
韓国は日本に近く文化も似ているのだが、ある面で旅の難易度は高い。まず、街に氾濫するハングルが読めない。若い頃は発音くらいはできるようになったものだが、今はもうだめだ。中国のように漢字が出ていれば、字体が多少違ってもおおよその意味はわかり、動きやすい。
例えばソウルで東大門に行きたいとする。しかし、通常、漢字表記はない。ハングルはわからないし、比較的よく出ているアルファベットでもDongdaemunで、これが東大門であることは勉強しないとわからない。「東大門はどこですか」と聞こうとしても、普通我々は「とうだいもん」としか頭に入っていないので聞けない。
地下鉄駅など要所要所で英語、中国語、日本語が併記されているが、常に、というわけでない。この駅で降りなければ、と思っていても、ハングルの地下鉄地図では何という駅だかわからないし、発音できないから聞けない。着いた駅がどこであるか瞬時に判断する必要があっても、普通はハングル表示しか見えないのでわからずじまいのうちにドアが閉まってしまう。英語の地下鉄地図を見ると、発音はわかるが、漢字はわからない。普通我々は漢字で地名が頭に入っている。漢字と現地発音を共に知っているのは明洞(ミョンドン)、江南(カンナム)など限られた地名だけだ。
地図にしても看板にしても、常にハングル+英語+日本語の3点セットで出てないと完璧には理解でない、ということになる。何はなくともハングルが出ていれば(たとえ読めなくても)形を解読して、ああ、これだこれだ、と特定できる。英語(または日本語カタカナ)が出ていれば読み方、発音がわかる。日本語の漢字(または中国語)が出ていれば漢字がわかる。その3つがそろって初めて、동대문はDongdaemun(トンデムン)と読み東大門のことだ、とわかる。
すべての駅を親切にも「チェンムロ」「イテウォン」「カンドン」などとカタカナ(とハングル)で書いてくれている日本人向け地図もあるが、これだと返ってわかりにくい。地名を無意識のうちに漢字で頭に入れてしまっているからだ。「忠武路」「梨泰院」「江東」とも書いてあるとわかりやすい。そもそも、カタカナばかりの地図を見せられると、日本語であるにもかかわらず、非常にわかりにくい、読みにくい。ハングルだけで書かれる韓国語というのもこんな感じなのだろうか。読みにくくないのか。
ただし、韓国もアラビア数字(1,2,3…)を使っており、値札やバスの番号などはわかるので助かる。数字までも私たちの読めないインド数字を使っている現アラビア語諸国、ビルマ数字を使うミャンマーなどほどの困難ではない。また豊かになった韓国では、外国語での観光案内や地名表示も充実してきているので、その点、困難が軽減される。
「嫌韓」に見る民族的活力の衰退
日本による植民地支配という過去の行き方を真摯に反省し、新しい諸国間の連携・共栄の方途を探っていかなければならない。むろん、韓国の中にも、反日を極端に強調しようとする人々は居る。反日を、それを民族的発展の情熱にしてきたような側面もあるだろう。しかし韓国にも良識派はおり、歴史を理解した上で未来を志向する人々が居る。私たちも彼らにこそ真摯に呼応したい。私は日本人なので日本のことを考えるが、心配なのは、日本の国内に、とにかく韓国を嫌い、韓国のことなら何でもケチをつけて批判する人たちが居ることだ。特に若い層にそうした心情を見ることがあり将来を案じる。
例えばK-POPや韓ドラが世界的な興隆を見せれば、何かとそれにケチをつけようとする暗い情熱にかられる。そうではなくて、韓国が特技を発揮するなら我々は何ができるか。アニメかカラオケか、和食かおもてなしか、メジャー級野球か「お家芸」スケボーか、ノーベル賞級先端理論か安価な打上げロケットか。とにかくこの地域に多様で豊かな発展を共に生み出していく積極姿勢が求められる。そうした方向を向く活力が減退してはいないか。若者たちよ、がんばれ。君らにはそれができるはずだ。韓国はよくも悪くも日本のライバルとなっているし、今後ますますそうなっていくだろう。そして、私たちは成長するためにライバルが必要だ。互いに相手の発展を糧に成長していきたい。
東大門周辺
正直のところ、遠いアフリカの旅は、懸命に報告する気になるが、近くの韓国だと報告欲が特に高まるわけではない。名古屋から観光レポートを送っても日本の皆様はあまり読まないだろう、というのと同じだ。韓国は日本からの旅行者も多く、優れたレポートが多数出ている。今更私がのこのこと書き出しても…と思う。しかし、というかだからこそ、久しぶりの息抜きと割り切り、かみさんと観光名所を気楽にぶらついた。
明洞、南大門
漢江エリア
明洞、南大門の南に冒頭紹介の南山が隆起し、それを越えると、龍山(ヨンサン)区など漢江北岸エリアとなる。この地域は、北方から攻めてきたモンゴルが兵站基地にするなど、古くから外国軍の拠点となった。秀吉の朝鮮出兵でもこの地域に陣がはられ、日露戦争時に日本軍がここに兵営を置いた。植民地時代には日本陸軍の駐屯地となり、朝鮮軍司令部も置かれた。第二次大戦後は米軍がこれを引き継ぎ、在韓米軍司令部を置いた(龍山基地)。ソウル駅から数キロしか離れていなかったこの米軍基地は、2018年までに、南方80キロの平沢市内ハンフリーズ基地に移転した。
収まらない熱暑
何だこの暑さは。福岡、そしてソウルに着いたときからずっと攻められている。確かにソウルは日本から比べれば2、3度は気温が低いだろう。しかし、昨今の東アジアの猛暑は、その程度の差は帳消しにしてしまう。8月末になっても(いや、その後9月中旬になっても)、恐ろしい暑さが続く。
涼しいアフリカが恋しい。本当だ。アフリカはそんなに暑くない。ダルエスサラーム、モンバサなど海岸部は日本と同じく蒸し暑かった。しかし、それ以外は、地中海気候の南アを始め、ナミビア、ザンビア、そしてケニアと涼しかった。アフリカは台地で、多くの居住地が内陸の高原地帯にある。サバンナの乾いた気候なので、多少暑い日でもしのぎやすい。
ソウルの暑さは独特だ。日本の場合は、荒々しい太平洋から熱暑が豪快に押し寄せる。ソウルも黄海からの湿った暑さに覆われるが、比較的静かな黄海からと考えるからか、攻撃的な熱暑とは異なり、内側からじとじと暑さに体をむしばまれる感じだ。
当初は、地方を含め韓国内をまわって53年ぶりのこの国をまんべんなく見たいと思った。しかし、止まない熱暑攻勢でその気が失せた。特に、日本に近い南の方には行きたくない。結局、ソウルの郊外、水原までが今回の韓国旅行の「南限」となった。
水原華城
ソウルの南40キロにある水原(スウォン)市。ここに朝鮮王朝22代世祖(チョンジョ、別名イ・サン、1752~1800年)が建てた水原華城(スフォンファソン)がある。
世祖(チョンジョ、イ・サン)は、朝鮮王朝史の中で第4代王世宗(セジョン)と並んで愛される賢君。テレビドラマ『イ・サン』(MBC、2007~2008年、監督イ・ビョンフン)で取り上げられ人気を博した。封建特権を排し王権を強化するため政治・経済改革を行い、能力ある者を積極的に登用したとされる。政争で悲劇的死を遂げた父(荘献世子)を敬い、その墓を安置する城郭として水原華城をつくった。行宮(仮宮殿)もつくり、華城への遷都も検討していたが、自身の死により実現しなかった。
5.7キロに及ぶ城壁が自然と溶け込み、城門や華城行宮などが朝鮮王朝時代の建築美を今に伝える。1997年に世界遺産に登録。人気テレビドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』(MBC、2003~2004年)など韓流ドラマのロケ地としても知られる。
「北」との境界、38度線近くまで 臨津閣
ソウルのすぐ北には北朝鮮との国境が横たわる。ソウルに来たからにはそこまで行かないわけには行かないだろう。とりあえず臨津江(イムジンガン、イムジン河)に面した臨津閣(イムジンガク)まで行くことにした。ソウルから簡単に行ける。まずソウル駅から出ている地下鉄・京義中央線で終点の汶山(ムンサン)まで行く。列車は頻繁に出ており、約1時間の旅で運賃は200円程度。その先の臨津江駅まで直接行く列車は平日だと朝夕2本だけで、9時20分に出てしまっていた。バス便も時間が合わなかったのでそこからタクシーで行った。2000円かからなかったと記憶する。
南北国境(非武装地帯)の近くなので、緊張して行ったが、あっけないほど簡単だった。さらに意外だったのは、臨津江に面したこの臨津閣。こんな風に言うとお叱りを受けるかも知れないが、人気のテーマパークだった。臨津江やその先の非武装地帯を展望できる立派な建物があり、各種モニュメントの他、レストランやファストフード店、売店も完備。子ども向けに遊園地まである。ここから板門店や非武装地帯各所へのツアーも出る(板門店ツアーは現在は休止)。臨津江を下に見てこれを渡るロープウェイまであり、迷わずこれに乗った。
南北離散の悲惨を味わった人たちが北を望む拠点になっているのだが、そういう人たちより、明らかに私らのような物見高い観光客が主体だ。南北対立という困難なテーマをテーマパークにし、観光収入をあげる。いや、決して批判する気はない。そのしたたかさ、肩ひじ張らない姿勢を賞賛する。すばらしいことではないか。各種博物館もあり、気楽に来た人たちもいろいろ勉強になる。
国立6.25戦争拉北者記念館
朝鮮戦争時に北に連れて行かれた人々に関する博物館が印象に残った。臨津閣のはずれ、臨津江駅に向かう方向にあった。
ソ連が第二次大戦後投降した日本兵捕虜など約57万人をシベリアに抑留し労働力不足を補ったように、北朝鮮は、朝鮮戦争時に推定約10万人の民間人を北に拉致し、労働力不足を補ったとされる。家族が離散し、連絡も取れない悲劇が多数の人々を襲った。展示内容を写真に撮ったと思ったのだが撮れてなかった。上記写真中、「ひとときも忘れたことのない」「会いたくてたまらない人々」のパンフがこの博物館のパンフ。
なお、韓国では朝鮮戦争のことを、1950年の北の侵攻開始日付をとって6.25戦争という。
朝鮮戦争は、今では、北の侵略によって始まったことが明確になっている。当時は、朝中ソをはじめ、日本の左派政党、進歩的知識人の間にも、韓国とアメリカによる北への侵略が戦争の原因とする見方があり、60年代の私も、当時の「アメリカ帝国主義のベトナム侵略」を批判する思潮の中で、朝鮮戦争もこうした勢力が起こしたのだろうと思っていた節がある。しかし、1991年のソ連崩壊により、ソ連邦の公文書・機密文書が開示され、金日成とスターリンの生々しい通信文を含め侵略に至る事情が白日の下のさらされた。ソ連崩壊後に明らかになった資料で歴史を検証しなおす課題がまだまだいろんな方面で残されていると思われる。
朝鮮戦争では、アメリカ軍が投下した爆弾だけでも66万9000トンにのぼり、第二次世界大戦で日本に投下した16万800トンの4倍となった。戦線はソウルを始め、南は釜山近郊、北は中国国境近くまで移動し、朝鮮半島全体に大きな被害が出た。最終的な民間人の死者は、推計にばらつきがあるものの、全土で200万人は下らないとされ、400万~500万人に及ぶとの見方もある。その上さらに離散家族その他多くの悲劇が起こった。
植民地支配を経て第二次大戦、朝鮮戦争の惨禍を体験し、現在なお分断国家の苦渋と地政学的なリスクを背負う韓国が、民主化を達成し先進国として目覚ましい発展を遂げたのは、驚嘆すべき歴史的経験だ。依然として独裁的体制が支配する東アジアの中にで、この事例のもつ意味、果たす役割は大きい。今後も、その役割にふさわしい発展を進んでいって欲しい。