目次
- 結社を禁じたフランス革命
- 法人設立を促したアメリカ独立革命
- アメリカの二つの革命
- 「法人」としてのアメリカ国家
- アメリカでも結社は警戒された
- 1819年ダートマス大学最高裁判決で非営利法人が確立
- (参考)ビジネス法人変革の課題
- 人はなぜ団体をつくるか
- 前近代の一般的権力関係としての封建制
- 認知科学から見た封建制
- 中間団体の二面性
- 絶対主義を完成させたフランス革命
- 革命の自己矛盾
- 初期民主主義としての封建制
結社を禁じたフランス革命
フランス革命(1789年)は、自由と平等を実現した近代市民革命の中で、最も典型的かつ徹底した革命だった。したがってそこでは、言論の自由などとともに、結社の自由が高らかに宣言され、徹底した形で導入されただろう。
フランス革命の口火を切ったバスチーユ牢獄襲撃(1789年7月)。作者不詳の挿絵。Wikimedia Commons, CC-BY-SA-2.5
と思うだろうが、逆だ。フランス革命は結社を抑圧した。1789年5月の三部会招集を機にはじまった革命は、7月にバスティーユ牢獄襲撃に発展。8月に封建特権の廃止(農奴制、領主裁判権、教会への十分の一税の廃止、年貢の有償廃止など)、さらに同月末、人権宣言を発するに至る。自由と平等、抵抗権、国民主権、法の支配、権力分立、財産不可侵などを規定した17条からなるこの歴史的宣言に、しかし、「結社の自由」はない。「細部」を省略したからではなく、それを否定していたからだ。フランスにおける結社の自由の歴史をたどった村田は次のように言う。
「一七八九年人権宣言には、結社の自由を明示的に保障する条文はない。通常この沈黙は、黙認ではなく禁止を意味すると解される。第三条が、「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体(corps)、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威を行い得ない」と規定するからだ。アソシアシオンは、ナシオンの統一を攪乱する要因であり、一般意思の確認を妨げるから、あってはならないものと考えられ、また同業組合(corporation)は多数を犠牲にして一部の特権を保護し、個人の自由を不当に制限するものと考えられた。」(pp.55-56)
その後、革命が進展する中で、1791年3月のグラルド法が営業の自由を保障しながら宣誓ギルドを禁じ、同6月のルシャプリエ法があらゆる同業者組合(労働組合も含まれる)を禁じた。宗教でさえ教会財産を国有化し、聖職者の公務員化、選挙による選出などの措置がとられた。ロベスピエールのジャコバン派独裁時には、「分派」は厳しく禁じられ、王党派や穏健派のジロンド派はもちろん、ジャコバン派内のわずかに意見を異にする人々もギロチンにかけられる。やがて革命が終わり、次世紀半ば、1848年の二月革命がフランス史上初めて「アソシアシオンと集会の自由」をうたうが、翌年には停止。19世紀を通じて株式会社など営利企業の「結社」は徐々に整備されていくのに対して、あらゆる団体(アソシアシオン)について設立の自由が認められたのは20世紀になってからだ(1901年7月1日法、ただしこのときも宗教団体は除外)。
フランス革命といえば、ジャコバン・クラブなど様々な党派、そしてカフェでの人々の活発な議論などがイメージされるが、実際には結社を敵視した。アンシャン・レジームを支える封建制が教会、ギルドなど中間団体を通じた支配だったとの認識から、結社そのものを敵視する倒錯があったと思われる。だが、これを、国民主権の国家の前に市民が完全に自立した個人として現れる近代社会を実現した、と好意的にとらえる見方もある。
法人設立を促したアメリカ独立革命
ほぼ同時代に起こったアメリカ革命(1776年独立宣言、1788年合衆国憲法制定)では、結社について逆の事態が起こっていた。革命期の米国史い詳しいポーリン・メイヤーは、論文「独立革命期におけるアメリカ的法人の革命的起源」で、「アメリカ独立革命に関する重要な未解決問題の一つは、なぜ1780年代に諸州の州議会が記録的な数の法人を創出しはじめたのか、という問題である」と問い、考察を始めている。
アメリカ独立革命(1776年)のきっかけとなった「ボストン虐殺事件」(1770年)が起こった場所。繰り出した民衆に英国軍隊が発砲し、5人が死亡した。1713年築の米国最古の公共建築物で、長らくマサチューセッツ州会議事堂として使われていた。
フランス革命とは逆の道だったことを彼女は知っている。独立して、法人化の権限はイギリス国王から州議会に移ったが、「その権限を行使しようという州議会の意欲は、今もって不可解なものである。というのも、法人はかなりのところ、旧秩序の一部分を構成するものと考えられていたからである。フランス革命期の1791年に、フランスはそうした法人を完全に法的に無効にした」(p.162)と書いている。
英仏法と大陸法の違いというわけでもない。イギリスでも法人の設立は抑制された。「実際,イギリスは1720年の泡沫法成立とそれから105年後のその撤回までの間,実業ないし利潤追求の目的のために法人を発展させることを中止していた。そこでは,〔法人格を有しない〕合名会社partnershipが,産業革命を特徴づける法的装置となった」のである。
米統計協会誌の1916年論文によると、米国の植民地時代の法人設立が7件(チャーター数)だったのに対し、1781~1790年が33件、1791~1800年には295件に達した。特に活発だったのがマサチューセッツなどニューイングランド地域で、全米人口の23%を占める同地域が6割の法人設立を記録した。当時の法人は州政府(植民地時代はイギリス国王)が設立する公的性格の強い団体だったが、その内容をみると、1800年までの計335法人のうち、金融関連(銀行、保険)67、交通関連(内水路、橋、道路などの建設)219、地方公共(水道、港湾)36、ビジネス(製造業、鉱業、農業、土地開発、商業)18だった。その他1800年までに32大学、約140都市が設立され、集計は明らかでないが宗教的、慈善的法人の設立も進行した。
アメリカの二つの革命
別の論者は次のように言う。法人と国家の関係についてユニークな論を展開しているデービッド・チャプリ―だ。
「米国の連邦共和国のチャーター(憲章、憲法)とその再編された州のチャーターを署名したインクが乾く間もなく、これら州の議会はさらなるチャーターに署名し始めた。法人設立のためだ。教会、自治体、大学、図書館、病院、慈善団体など公共的性格を帯びた団体(アソーシエーション)を法人化するチャーターを発布し、市民社会を拡大しそれに恒久性とよき統治を与えようとした。さらに、橋・運河・道路事業、水道事業、消防事業、銀行・保険事業を法人化し、経済発展を目指した社会の物理的・金融的インフラ構築を目指した。最後に、最初はわずかだが徐々に膨張する製造業法人のチャーターが現れる。私的分野で手が付けられていなかった産業からはじめ、イギリスからの経済的自立を進めた。」(p.490)
19世紀を通じて法人設立は加速し、1857年には、イリノイ州のある法律家が「イリノイ州議会の今会期で、今世紀初頭までに全文明世界に存在していたよりも多くの法人が設立された」と証言する状況になった。そして、
「リベラルな法人チャーター発布は市民社会とビジネスの信じがたい拡大をもたらし、それは市民社会の庇護とその目標達成に至るまで、多くの点でアメリカの民主主義を強化した。しかしそれはまた、非民主的、ことによると反民主的な組織的ポケットと社会的勢力も生み出した。結局、アメリカの独立は、一つでなく二つの革命をもたらしたのだ。民主革命と法人革命の二つは、以後並行して発展し、相互補完と対立の関係を変化させながら世界中にこだましていくことになる。」(p.491)
「法人」としてのアメリカ国家
アメリカ革命に「二つの革命」を見たシープリーは、さらに一歩進んで、新しく設立されたアメリカ国家が実は法人だった、という論を展開している。別の”Is the U.S. Government a Corporation?”という論文で彼は「前世紀ではビジネス企業の法人形態が学問的関心の中心だったが、近代国家の法人としての形態がもつインパクトについては、今日ほとんど認識されていない」と言い。しかしその影響は「深く、かつ持続的で」「西洋世界で形成された国家に特徴的」なものだとしている(p.1)。
フィラデルフィアにあるインデペンダント・ホール(独立記念館)。独立革命前後に頻繁に州代表が集まる場所となり、1776年の独立宣言もここで発せられた。ワシントンDCが首都になる前の1790~1800年、フィラデルフィアが米国首都で、この建物が連邦議会議事堂だった。合衆国憲法も1787年ここで採択された。
国家を説明する理論として古くから「社会契約説」が用いられてきた。国民と国家の間の契約というメタファーで国家の存在を説明し、国民は国家と契約を結んで一定の制限に従う代わりに安全保障、治安その他便益を受ける、とした。中世君主国家では、だからその統治下で国民は義務に従わなければならない、ということに重点がおかれ、ロックやルソーなどの社会契約論では、だから国家が約束された便益を与えなければ取り換えてもいい、つまり革命の権利を示唆する理論ともなった。
しかし、アメリ革命が直面した課題は支配者の代替ではなかった。イギリスから独立して東部13州がまったく新しい連邦を形成する。そこには、契約を結ぶべき王家などは存在せず、社会契約論はあてはめにくい。そしてそのとき、連邦国家を構成すべき州state(当時としては「邦」)がそもそも法人だった。当時イギリスは、東インド会社をはじめ、植民地支配を行う「外郭団体」のような機構をつくっていた。国王が憲章(チャーター)、特許状(パテント)与え、ギルドのような法人を設置していた(Philip J. Stern, Empire, Incorporated: The Corporations That Built British Colonialism, 2023, Harvard University Press参照)。マサチューセッツ州はマサチューセッツ湾会社、バージニア植民地はバージニア会社など。
米国建国の父たちがつくろうとした国家は、契約のメタファーで語るより、慣れ親しんだ法人のメタファーで語る方がはるかに適切だった。連邦という新機構をつくり、それを設立憲章、つまり「憲法」で権限を限定し国家機能を遂行させる。そしてその憲章(憲法)を設置する権限は国王ではなく、国民自身とした。つまり人民主権の国家が法人設立を認めることとなった。アメリカが史上初めて憲法(成文憲法)をもつ国になったのは、こうした憲章法人の流れを汲むからだとする。
その辺の事情を、より流麗な叙述でシープリーは次のように語る。特にマサチューセッツ植民地での展開に焦点を当て解説している。
「初期のアメリカ植民地は、文字通り国王の法人だった。マサチューセッツ湾植民地はマサチューセッツ湾会社、バージニア植民地はバージニア会社だった。それらは「規制された会社」、つまり海外貿易や植民活動のために設立された商人ギルドで、各メンバーは規則制定と会社統治者を選ぶため投票できた。この統治方法はしたがって中世諸都市のそれに近い。当初、そのメンバーは植民者でなく投資者だったが、マサチューセッツは、清教徒投資者たちが法人のマジョリティコントロールを得て、清教徒のガバナー[法人代表]であるジョン・ウィンスロップが、善良で教会に通うすべての男性世帯主 ―成人男性人口の大多数― に法人メンバーを開放したとき、古くからの都市メンバー法人に近づいた。つまり、彼らは法人のメンバー総会(General Court)に参加し、ガバナーと補佐役 ―実質的な植民地プレジデント(大統領)とセネター(上院)― を選び、法人規約を可決し立法機能を果たした。言葉を変えると、この単純な成員拡大で、この商人ギルドの統治は、(教会に通う人々の)共和国の統治に転換された。チャーター(憲章)は憲法文書として機能した。アメリカ人は、この経験から、新しく制定した憲法が何であるかを理解した。それは政府の設立と限定を示した法的文書、つまり憲章であった。これはギリシャやローマ、あるいは英国の理解とも異なっていた。それは法人統治下に生きてきた経験から生まれた。…偉大なアメリカの憲法的イノベーションは法人憲章発布を人民主権(popular sovereignty)と結びつけたことだ。主権者たる王がチャーターを発布して法的に限定された(憲章で限定された)範囲で統治体を設立できるのと同様に、主権者たる人民もそれができるとした。合衆国憲法は、広く言われているような「社会的契約」ではなく、人民によって発布された法人チャーター、つまり「憲法的チャーター」だった。」(p.498)
以上のようにアメリカでは、ヨーロッパとは対照的に、法人に積極的な意味が見いだされ、革命を機に活発な結社活動が行われた、と一般的には言える。しかし、単純にそう見るのは危険だとの意見もある。革命期のアメリカにも結社に対する警戒や敵意は存在した、という研究もなされている。
アメリカでも結社は警戒された
強靭な非営利セクターの存在は、アメリカ民主主義の骨格と言ってもいい。政府から独立した市民の組織が法人化され、独自に構想する公共的活動を自主的に行う。ときに融通の利かない政府の公共を補完し、またその問題を指摘してオルターナティブを示す。そしてこうした非営利セクターの人々の典型的な考え方は次のようなものだと、『アメリカ非営利セクターの歴史』の著者モーデカイ・リーは言う。
「建国の初めから、合衆国憲法が機能するためNPOが市民社会の建築ブロックになる必要があった。それが建国の父たちが求めることだった。…それ以外に何があるというのか。これに疑いをはさむことは非アメリカ的だ。我々はアメリカ的創造性の輝かしい事例だ。そう、我々こそアメリカだ。」(p.2)
そして建国当時の活発な市民活動を示すものとして、初期米国の豊かな市民活動の展開を叙述したトクビルを示すのが常套手段で、そこには当時の活発な市民活動と団体の設立状況が次の通り活写されている。
「アメリカ人は年齢、境遇、考え方の如何を問わず、誰もが絶えず団体をつくる。商工業の団体に誰もが属しているだけではない。ありとあらゆる結社が他にある。宗教団体や道徳向上のための結社、真面目な結社もあればふざけたものもあり、非常に一般的なものもごく特殊なものも、巨大な結社もあれば、ちっぽけな結社もある。アメリカ人は祭りの実施や神学校の創設のために結社をつくり、旅籠を建設し、教会を建立し、書物を頒布するため、また僻遠の地に宣教師を派遣するために結社をつくる。病院や刑務所や学校もまた同じようにしてつくられる。ついには一つの真理を顕彰し、偉大な手本を示してある感情を世間に広めたいときにも、彼らは結社をつくる。新たな事業の先頭に立つのは、フランスならいつでも政府であり、イギリスならつねに大領主だが、合衆国ではどんな場合にも間違いなくそこに結社の姿が見出される。/私はアメリカで正直なところそれまで想ってもみなかったような結社に出会い、合衆国の住民が手段を尽くして共通の目標の下に多数の人々の努力を集め、しかも誰もを自発的に目標の達成に向かわせる、その工夫にしばしば賛嘆の声を上げた。」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』松本礼二訳、岩波文庫、2008年(原著1840年)、第2巻上、pp.188-189)
「政治的目的で結社をつくる無制限の自由が日々行使されている国は地上に一つしかない。この国はまた市民が結社の権利を市民生活の中で持続的に行使することを思い立ち、それによって文明の提供しうるあらゆる恩恵を手にすることに成功した世界でただ一つの国でもある。」(同書、p.202)
日本流に言えば、「これが見えぬか葵の御門」だ。これほどまで建国以来活発なNPOがあった国はあるか! ―それでだいたい議論は終わる。人々は「ハハー」とひれ伏す。しかし、それでいいのか、とリーは問う。実際には、アメリカ建国当時、フランス革命の中であったと同じような市民的中間団体に対する疑いがあり、建国の父たちも、これを共有していた、と論を進めている。例えばジョージ・ワシントンは1796年の大統領退任演説で次のような意見を表明している。
「いかにまともそうなものであれ、憲法上権限ある機関の議論、行為を方向づけ、支配し、対抗し、威圧する意図をもったあらゆる法執行への妨害、あらゆる連合体や団体は、憲法的原理を破壊し致命的方向性を導くものである。それらは分派を形成し、そこに人工的で特別な力を付与する。委任された国家の意思の代わりに特定党派、しばしば社会の才覚ある能動的少数者の意思を代表する。」(p.3)
1787年9月17日、フィラデルフィア憲法制定会議で合衆国憲法が署名された。演壇の上に立つのがジョージ・ワシントン.。Painting: Howard Chandler Christy, Wikimedia Commons, Public Domain
当時の法人は、すべて州議会が設立する団体で、公的な機構の一部とされた。限られた組織的資源で初期のアメリカ社会を建設していくため民間の努力を活発に導入しようとしたが、あくまでそれは政府活動の一部となることが求められた。革命期に主導権を握ったフェデラリストたちの考え方をリーは次のように解説する。
「いかなる団体も国家の延長でなければならなかった。だから、たとえばハーバード大学は、マサチューセッツ州政府からの監督者による理事会で運営される公的組織だった。議会が出す法人設立チャーターについても同じで、たとえ事業目的(道路や橋の建設・資金調達など)でも、今日言うところの非営利団体でも、すべて同様の前提のもとに置かれた。当時の米国の政治経済は政府セクターによってのみ構成されていた。」(p.4)
ここにあるのはこの時代の西洋世界に広く見られた単一民主国家に対する幻想とも言える強い期待だ。民主主義が民意を国家に反映する。その民意、ルソーの言葉を使えば「一般意思」が国政に反映される。それが民主国家であって、したがってそれとは別に「私的な」団体をつくって活動することは民主主義に反するとする。十分に啓蒙された国民は単一の意思を国家に反映させるはず、というのは単なる期待にすぎないし、それを理想形と考え、国家とは別に出てくる「私的」な意思は抑圧する、という発想は全体主義につながる。フランスでは実際これがジャコパン派の恐怖政治や、最終的な皇帝ナポレオンの独裁にも至るが、中世封建社会中間団体の悪い見本がなかったはずのアメリカの革命でも、こうした中間団体への反感があった。当初、すべて法人は政府からの憲章認可を得て「国家の延長」になる他なかった。
例えば、ニューヨーク州は1784年に「すべての慈善、教育、宗教、専門職組織」を規制する州機関Regents of the University of the State of New Yorkを設置し、1820年代には、団体基本財産額と遺言で遺贈できる額を限定する州法を可決した。1792年にバージニア州は慈善基金を設立する英国法を廃止し、英国国教会系教会への寄贈財産を没収した。1818年にはバージニア州が私立大学を忌避して州立大学を設立し、南部・西部諸州がこれに続いた(Historical Perspectives on Nonprofit Organizations in the United States, p.7)。
つまりアメリカ革命は、当初から結社への自由をもろ手を挙げて推進したわけではなく、ヨーロッパと同様にそれへの疑念があったにもかかわらず、それに抗して法人形成が進んだ、ととらえることができる。
1819年ダートマス大学最高裁判決で非営利法人が確立
アメリカの公益的な市民法人が、政府の一部でなく独立した私的団体と認められたのは、1819年の連邦最高裁ダートマス大学判決(Trustees of Dartmouth College v. Woodward)が出てからだ。ダートマス大学は革命前の1769年に英国王から憲章を得て設立されている。しかし、1816年になってニューハンプシャー州議会がこの憲章を変え、大学がより明確に州政府の一部になるような措置をとった。州議会が、退官した学長を復職させ、理事会を任命する権限を州知事に移し、理事選出に拒否権をもつ州の監督委員会を新たに設置した。大学理事会はこの州政府措置が連邦憲法違反だとして訴えた(州認可の新大学理事長Woodwardを訴える形)。訴訟は連邦最高裁まで行き、1819年2月に原告勝訴判決がおりた。
米国憲法第6章第1項には、「この憲法成立前に契約されたすべての債務および締結されたすべての約定は、この憲法の下においても、連合規約の下におけると同様に、合衆国に対して有効である。」との規定がある。したがって革命前に英国王から発布された法人憲章も有効で、州政府が勝手に変えられないものと判断された。米国では私有財産や契約の権利は社会を成り立たせる基本原理として最大限に保護される。これを州政府が安易に改変してしまうことは許されない。例えば、憲章に基づいて設置された大学に寄贈・遺贈を行なったのに、後にこの憲章が変えられ別の性格の法人になっっては、寄贈・遺贈者の契約の権利が侵害される。確かに法人は州政府(かつては国王)からの憲章で設立されるが、設立された後は、州政府はこれにみだりに介入できない。非営利団体はその意味では決して公的団体でなく私的な団体だ、といった内容をもつ判決だった。
このダートマス大学判決は画期的で、これで米国に特徴的なNPOセクターの発展が可能になったとされる。「公共的目的で活動する私的な非営利団体」という法人形態が名実ともに基礎づけられた。トクヴィルの見たアメリカも、この判決が出た後のアメリカだった(1831年)。また、橋、道路建設、金融、製造業など事業を行う営利法人にとっても、公的政府の一翼を担うのでなく、私的法人として自由に活動することを可能にし、米国において法人の役割が劇的に拡大する基礎を与えた。
(参考)ビジネス法人変革の課題
法人を基軸に歴史をとらえなおす前述シープリーの議論は、アメリカ国家さえ法人をモデルにつくられたと主張したが、その他にも様々な面で斬新な観点を提示している。本稿の文脈とはずれるが、ひとつだけ例を出すと、法人史の流れで対極に位置するビジネス法人の位置づけだ。この営利を目的とした法人は、19世紀から巨大な発展を遂げ、現在では法人と言えばほとんどビジネス法人のことと思われている。国民国家を超える多国籍企業も出現し、現代世界の経済を支配している。立憲民主国家と「共通の起源から共通の法的構造」をもって生まれたこの「双子の兄弟」(p.499)は、しかし、異なる統治構造をもつまったく別々の方向に発展したとする。一方は「共和主義的」に、他方は「寡頭的・権威主義的」に。
「アメリカ革命で形成されたラジカルな民主主義的気運は、州議会がビジネス法人を寡頭的・権威主義的で恣意的なものから共和主義的なものに復元すると思われたかも知れない。法人化された都市ではこの企図が実現する。多数存在した小規模非営利団体(慈善団体、地域改良団体、相互基金など)でも、トクビルが賞賛した通り、これが起こった。しかし、大学やビジネス法人など財産を基本にした法人ではこれが起こらなかった。/各州に「共和主義的形態の政府を保証する」(第4条2項)とした連邦憲法の下で、州政府がこれに背を向け州民を恣意的で権威主義的な法人統治の下に置いたことには困惑させられる。ビジネス法人に関してこれが起こったのは部分的には、株主がビジネス法人の所有者だというドグマをこれまでだれも問題にしなかったためである。」(p.500)
法人内の権威主義的統治が残った原因の一つは、ビジネス法人が財産を基軸にした法人で投資者をメンバーとしたことだ。株主を社員とし、株主民主主義を強化するため小株主の権利を保護するなどの努力は払われたが、その法人で働く従業員はメンバーとされず、民主主義の枠外に置かれた。「法人の理事会は彼らが統治する人々(従業員)によって選ばれず、それに責任ももたず、その福祉は理事会の目的とするところではなかった」のである(p.497)。チャプリ―は結論部分で、現在の民主主義勢力が「権威主義的な法人統治を、より生産的で平等があり、民主主義とより適合したオルタナティブに変えていく力があるかどうか」見ていきたい、と控えめに示唆している(p.512)。
人はなぜ団体をつくるか
人間がなぜ団体をつくるのかについて深い論証は必要ないかも知れない。動物も集団をつくる。まずは繁殖のため、一時的か恒常的かはともかく、つがいや家族をつくる。草食動物などは外敵に備えて群れる。集団で居た方が襲われにくく、多くの目で危険をすばやく察知できる。肉食動物は、集団行動を組織して狩りの効果を上げる。だからヒトも出現の当初から集団・部族を成し、定住すれば集落、村をつくった。社会が発展すれば、共同体的な集団だけでなく、特定目的の能動的団体もつくった。消防組織、自衛組織、若者組のリクリエーション・研鑽組織、同業者組織、宗教団体、救貧活動組織など。同じ目的をもった者が集団を組んだ方が目的を達成しやすい。
オウサマペンギンの群れ。南極に近い南大西洋のサウス・ジョージア島で。写真:Pismire, CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons
中世ヨーロッパ封建制の見取り図。Figure: Simeon Netchev, CC BY-NC-ND
前近代の一般的権力関係としての封建制
統治が広域に及ぶようになる際も、そこに現れる合理的な組織構造は推測しやすい。今日のような交通・通信手段が発達していない社会では、各地に統治単位ができ、そこがある程度自治的に機能しながら、単位間を結ぶ広域統治体ができるだろう。それをまとめる権力者、領主や王が現れる。一般に「封建制」と言われるような社会構造が、ごく自然に生まれただろう。「封建制」は古代奴隷制の次に生まれた中世の社会体制であって云々、と難しく言う向きもあるが、近代以前の社会ではごく一般的な体制だった。
古代の「奴隷制社会」などという方がむしろ不自然だ。今日的な交通・通信・データベース技術もない時代に、大多数の臣民を厳しく管理された奴隷状態で働かせるなどは考えにくい。ピラミッドも、意外と職にあぶれた農民に仕事を与えるための公共事業だったとの見方がある。古代ローマでも、奴隷を使った荘園は、戦争捕虜を用いてごく限定的な局面に現われるだけだった(拙著『多民族社会の到来』<御茶の水書房、1990年>第4章)。アジア古代の専制国家は「総体的奴隷制」などと言われるが、実際には社会内部に多くの自立的共同体的組織がはらまれ、だからこそ、活発な農民一揆が各所から起こった。直接支配の域外には「柵封体制」という、諸国が独立を保ったまま中華に献納する裾野が広がっていた。日本では国家管理型の律令体制(7世紀頃から)はすぐに崩れ、三世一身の法(723年)、墾田永年私財法(743年)など、早くから荘園制度が生まれた。そこから新しい勢力、武士も台頭してくる。網野が広く研究した寺院など相対的に独立した「アジール」空間が、ヨーロッパと同じように、中世日本に見られた(網野善彦『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』平凡社、1978年)。最も専制化が進んだとみられる今日の中国共産国家の中でも、その支配の底には、もちろん体制支配の末端としての性格が強いが、居民委員会、村民委員会などの団体が活動している(例えば拙著『市民団体としての自治体』<御茶の水書房、2009年>第7章)。
認知科学から見た封建制
封建制について最も説得的な説明は、私の見た限り、おそらく歴史は専門外と思われる認知科学者・戸田正直による議論だった。彼はまさにその認知科学的な観点から、「個人の感情システムに対する負荷が最小で済む社会制度」として封建制が生まれたことを説明する(p.191)。動物でも縄張りという棲み分け社会をもつ。それが侵犯されるとき、怒りに基づく防衛的攻撃をするが、いちいちそうなっては無駄な争い、社会的コストが大きい。そこで人の社会では、領主や王のような上層の封主が出現して権力による調停を行う。「王という上層者を持つことによって,封建制の重層縄張りシステムは通常の縄張りシステムに較べてより高い安定性を持ち得ることになる」(p.191)わけだ。
縄張りグループ構造は大きすぎない。狼やチンパンジーなどに比べ人間の場合は、認知能力が高さからこれが大きくなるが、それでもこの「直接の感情的相互作用の可能人数」は多くても数十人だという。封建制はこの限定を踏まえて広域支配を可能にする。ピラミッド型の上層封主を通じて多数を抱合する広域的安全保障が得られるが、個別関係を見ると、関係者数は限られる。
「まず自分の封主がいる。その同じ封主に仕える自分とほぼ同身分の、多分にライバル的な同僚たちがいるだろう。それから自分に直接仕える封臣たちがいる。それに自分の家族(の恐らく一部)を加えても、上記の数十人の限界値以内にほぼ一般に収まるだろう。…それを重層的に加えていくと、全体としては相当膨大な人口を持った社会の形成、維持ができることになる。」(p.191)
「大多数の人が社会のことなど心配しなくても社会がなりたっていく」といううまくできた仕組みだが、広域社会をまとめるには当たり前すぎるシステムで、「やや定義を緩めた類封建制なら恐らく人類史上もっともポピュラーな政治社会制度であると言えるだろう」とも指摘している。
戸田は別に、中世社会に典型的に現れた封建制を正面から分析しているわけでなく、学界に存在する「重層的縄張りシステム」を解読するための予備作業として封建制を検討しているのだが、なかなか鋭い。単にピラミッド構造があるだけではだめで、「封主による封臣の庇護、封臣の封主に対する忠誠」といった双務性、あるいは封主が封臣の封臣に命令を下すなど階層を飛び越えた関係を避けるなどそれなりの社会規範が生まれることもきちんとおさえている。こうして上から下まで「封土を媒介にしてどの層を切っても封土分与を伴う封主封臣関係が成立するという封建主義社会特有のフラクタル構造ができあがる」と述べ、フラクタル理論による封建制分析の姿勢も示唆する。
そしてこの封建制は、こうした領土的支配の分野に限られず、「比較的大人口を有する部分社会ならば、例えば、ギルド的職業集団、宗教教団、官僚組織、大企業など、どこでも機能する」として、今日の学界に封建制が生まれる必然性の分析に進んでいくわけだが、その先の議論は、本稿の文脈では割愛していいだろう。
中間団体の二面性
その団体が自治的なものか、支配体制の一部か、どちらかに〇をつけるような見方は意味がない。一般に歴史の中に登場する中間団体は、どれもある意味自治的であり、他面で支配体制に組み込まれている。どちらの傾向が強いかの違いはあっても、そうした二面性をもつのが中間団体だった。
ヨーロッパの中世都市は、自治的であったが、同時に国王から憲章、特許状を得て、形式的には支配体制に組み込まれた。都市住民はその中で自治を得たし、王はそれで自分の支配体領域を拡大したし、総体的には無用な衝突を排し、社会の安定がはかられた。王は領主と封建的主従関係を結び、領主の領土を「安堵」するが、常に外敵の侵攻に備えなければならない中世社会で、これは個別領主にとっては安全保障の確保となり、王にとっては自分の支配領域の拡大となる。領主はまた下部の農民世帯と同じような主従関係を結び、支配するとともに、安全保障提供の義務を負う。江戸幕府は全国に多くの藩をかかえこれを支配したが、藩には一定の独立があり、領内で独自の法律が施行され、貨幣の発行もなされた。藩は江戸幕府の下部機構だったが、結局これを倒したもの薩長など西南部諸藩だった。
歴史の中に広く見られる中間団体は、すべてこのように両面を見る必要がある。フランス革命は、これをアンシャン・レジームの支配機構として一律に拒否し、結社を禁じた。福祉を含めたすべてを人民主権の国家が提供するとし、それ以外の「部分社会」がつくられることを認めなかった。宗教さえも国家に直属させた。それほどまでに、生まれ出ようとしていた近代国家が輝いてみえたか。それがすべてを解決すると思えたか。近代国家は間違いなく人民主権を体現する機構であり、市民団体などが果たすそれへのチェック機能などを考慮する必要はなかったのか。
絶対主義を完成させたフランス革命
フランス革命は、ある意味、その前史の絶対王政の課題を完遂した。確かに封建的諸特権を廃絶したが、絶対君主が求めた中央集権はフランス革命によって完成した。それまでの分権的な封建社会は、強力・強烈な革命の情熱で集権国家に一本化された。ナポレオンの帝政が敷かれ、その失脚後にブルボン朝の王政が復活した。
姿を現しつつある「国民国家」は輝いていた。現在、例えば(私などもそうだが)非営利団体(NPO)という制度に新しい可能性を期待すると同じように、あるいはそれ以上に、中央に統合された人民主権の国民国家はバラ色にとらえられた。ルソーの「一般意思」は来るべき人民主権の国家に実現されるものだった。
ナポレオンによる国民統合は人々に熱狂的に迎えられ、史上初となる国民軍に子どもまでも呼応し、フランス革命の防衛という大義を得て、その軍隊は、ヨーロッパ中に侵攻した。確かにそこで「自由・平等」の革命理念はヨーロッパ中にもたらされ、各地の封建権力も打倒された。しかし、同時にこの侵略に対抗する国民意識が各地に芽生え、国民国家の体制が全欧に拡大した。フランスにはじまった民衆の爆発は、ナポレオン体制を通じて、いい面、悪い面も含めてヨーロッパ中にもたらされた。
革命の自己矛盾
今日的視点から見れば、結社の自由や、法人設立が自由であることなどは民主主義社会の基本だ。しかし、中世的特権支配が残り、それを撤廃する民主主義的かつ集権的な国民国家を目指した18世紀から19世紀前半にかけてはそうではなかった。フランス革命時を含めて、結社が、中間団体が厳しく禁じられた。
だが、フランス革命のきっかけとなったのは三部会招集は、まさに封建制度の中から生まれた制度(身分制議会)ではなかったか。イギリスではこの身分制議会が革命の拠点に転化し近代議会制度に受け継がれた。アメリカでは、植民地時代からの中世的法人制度が、前述の通り市民の活発な団体設立の基礎となっていった。フランス革命でも、ジャコバン・クラブその他多くの団体、党派が生まれた。なのに、急進派ロベスピエールらの「恐怖政治」(1793年6月~94年7月)下で党派が厳しく禁じられた。彼らジャコバン派自体が党派ではないか、という批判にも激しく反論したという。例えば、ロベスピエールの片腕として恐怖政治を推進したサン・ジェストは、「共和制度がすべての政党を永遠に廃止し「人間の誇りを公共の自由」と「正義の独裁制のもと」におくであろう日を待望している。「党派が消滅し、自由だけが残る」ことをかれは熱心に祈った。「善良な市民が自国のため捧げる心からの祈り、寛容な国民がその徳性から引き出しうる最大の善行は、党派の滅亡没落である」と書き残している(J・L・タルモン『フランス革命と左翼全体主義の源流』、p.132)
目標の共和制が訪れれば党派は消滅するし、「正義の独裁制」だけが残るというのは、プロレタリア独裁の発想と似て、愕然とするものがある。ロベスピエールも同じだ。その手帳に次のように書いているという。
「単一意志だけがあるべきである。」「国が共和制であるために、われわれは共和主義的大臣と、共和主義的新聞と、共和主義的議員と、共和主義的政府を欲する。」「単一意志だけがあるべきである。」「国が共和制であるために、われわれは共和主義的大臣と、共和主義的新聞と、共和主義的議員と、共和主義的政府を欲する。」「党派は一般善に対抗する私的利益の連合体である。」「自由の味方の協調、被抑圧者の苦情、理性の自然的優越、世論の力は党派を成さない。」(同書、p.132)
だから彼は、ジロンド党、エベール派、ダントン派などをことごとくギロチンにかけて撲滅した後も、「新しい不和や対立」が出てくるのを見て驚き、「まだ意見の相違や分裂が残っていることをみて当惑した」(p.132)。そこからどう進むか。さらなる粛清か。実際そう進んだのだろうが、やがて「テルミドールの反動」(1791年7月)で彼自身が、サン・ジェストもろともギロチンで処刑され、悪サイクルは終わった(あるいは別方向の悪サイクルに変わった)。
初期民主主義としての封建制
封建制は民主主義の反対語のように言われるが、実は封建制の中から民主主義が生まれている。封建制は民主主義の初期形態だった。権力が集中せず、分散的分権的な封建社会で多様な活動主体が現れ、それらの間の調整メカニズムとして民主主義が萌芽した。例えば中世にはじまる身分制議会は、近代革命の舞台となっただけでなく、その後の民主主義の中心を担う機構にも発展した。次のように言ってさしつかえないだろう。
「議会(Parliament)は、中世の機構的イノベーションの一つであり、今日ますます強固になっている制度である。ラテン西欧では、多様な社会階層 ―通常は教会、貴族、都市― を代表するこの機構は、中世期には、君主の行為を制限する最も重要な制度と言えた。議会が選出される方法はフランス革命後大きく変わったが、行政を監視し立法過程に中心的役割を果たすそのような機構をもつことは、19世紀半ば以降、ほぼすべての国で標準となった。」(p.2)
テムズ川河畔の英国議会議事堂(ウェストミンスター宮殿)。中世以来、王の宮殿で、1295年、初のイングランド議会「模範議会」もこの宮殿内で開催された。建物は1834年の大火の後、1860年までに再建されたもの。
1789年にベルサイユ宮殿で開かれたフランス三部会。Painting: Isidore-Stanislaus Helman & Charles Monnet, Wikimedia Commons, public domain
1295年にはじまるイギリスの模範議会(Model Parliament)、1302年にはじまるフランスの三部会、1464年にはじまるオランダのスターテン・ヘネラール(Staten-Generaal)などが有名だが、最初の議会は1188年に現スペイン地域の王国レオンで開催された「コルテス」(Cortes、原意は「宮廷」)だとする見解もある。コルテスは、その後の他の多くの中世身分制議会と同様、国王が開催し、聖職者、貴族、都市の代表が入り、都市代表は選挙で選ばれもした。コルテスで国王アルフォンソ4世は、自身も法の下にあることを明言し、「正義を公正に実施し…個人、財産の安全と世帯を侵害しないことを保証する」「私を導く聖職者、貴族、善良な市民との諮問なし開戦、和平、条約署名を行わない」と宣言した(pp.6-7)。
以後全ヨーロッパに普及していった多様な中世議会は、国王が新たな課税をしたり、戦争を開始したり、重要な制限をもたらす法施行などの際に社会各層の了解をとる場だった。これで社会各層の私的財産保護が安定し、それがヨーロッパでの産業・通商発展を促したとの見解もある。
身分制議会の形態は様々であり、権限の弱いものもあれば、開催自体が長年停止される場合もあった。フランスの場合は、1615年以来開かれずにいた三部会が、1789年に170年ぶりに開かれ、それがフランス革命の引き金になった。聖職者、貴族でなく平民たる第三身分が主体になるべきだとして、新たに国民会議を結成し(後の憲法制定国民会議)、これが封建特権の廃止、人権宣言、さらには1791年憲法などを制定していく。
民主主義の一つの起源はギリシャ都市国家だ。しかし、奴隷を所有した経営者が仲間内で集まっていかに自由に議論し町の将来を決めていたとしても、それは民主主義か。それよりも、権力関係がある中で、階層間の利害を調整し、一定の権力制限も行うような制度こそが、民主主義のより本質的な起源にふさわしい。
中世身分制議会には通常、都市代表も入ったが、この都市は法人として組織化されていた。国王から憲章を得て一定の自治を行なう中世自治都市は、日本では古典とも言える羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房、1968年)によく叙述され、同書は当時の反体制運動のバイブル的存在となった。その他職業組合ギルド、貿易・植民団体など多くの組織(中間団体)が、封建秩序の中に法人として存在した。国王から憲章を得て、支配の一端に組み込まれるとともに、一定の自治を得ていた。(詳しくは拙著『サンフランシスコ発:社会変革NPO』<御茶の水書房、2000年>第7章3、同『市民団体としての自治体』<御茶の水書房、2009年>第5章4などにも。)
法人の歴史を分析した前出デイビッド・チャプリ―が面白いことを言っている。現在繁栄を極める企業型のビジネス法人を念頭に置きながら、中世法人の歴史を次のように叙述している。
「今日の我々にとっては驚くべきことだが、中世から近代初期にかけて、法人は、位階制、君主制、さらには「絶対主義」の恣意的支配に覆われていた政治世界で、民主主義的・共和主義的な理念と実践を体現していた。事実、近代初期の共和主義的法人は、近代立憲民主主義の原型を提供した。それなしには、我々が知るところの立憲民主制は決して形成されなかったろう。しかし、近現代において法人は、正式には政治的市民的平等と共和主義的自由を目指す立憲民主制のもとで、位階制、君主制と恣意的支配を主要に内包する存在となった。」つまり、「ヨーロッパのいわゆる絶対君主が主に共和主義的法人に憲章を発し、近現代の立憲共和制が圧倒的に権威主義的法人に憲章を出してきたのである。」(p.492)
法人は、封建制の支配機構と親和性のある組織形態だ。すべての個人を強大な国家が直接に統治するような「専制」が困難に時代に、国王が一定領域の領主を「安堵」し、それを支配下に置くとともに対外的な安全保障を与える。その領域内では領主に一定の自立した統治権を認める。その領主は領域内のより小さな領主(荘園領主など)と主従関係を結び、同じように一定の自立を認めるとともに支配下に置いて安全保障を与える。
そういうシステムの中に、台頭してくる都市や大学や同業者組合なども組み込まれてくる。法人はそういう関係を反映した組織だった。支配(安堵)と自立(自治)の錯綜する権力関係の中で、確かに関係が既得権化してくることもあるし、特定階層が著しい不利益の中に置かれる状況も出てくる。だから、関係は常に革新されていかねばならない。フランス革命はそれを爆発的に行ったが、着地点をうまく見つけられなかったようだ。