3月28日、ミャンマー(旧ビルマ)中央部マンダレー付近を震源とするM7.7の大地震が発生した。1000キロ離れたタイ・バンコクでも建設中の高層ビルが倒壊するなど大きな被害が出ている。国軍が支配し、反政府・民主勢力との戦闘が続くミャンマーの被害状況はあまり入って来ない。外国メディアも入るのが困難なのだろうが、相当の被害が出ている可能性がある。
13年前の2012年8月、私はミャンマーを旅している。マンダレーにも入った。地震被害情報がない中では、どんなところか知ってもらうためだけにも、その記録を出しておく意味があるだろう、と下記に『アジア奥の細道』(KDP電子版、2017年)の一部を転載しておく。
(ミャンマー、マンダレーは個人的に思い入れのあるところだ。退職してからミャンマーに行くつもりだった。退職前の下記旅行の頃、ミャンマーでは民主化運動が高まっていた。国民投票で新憲法が可決され、アウンサンスーチーさんの軟禁が解かれ、彼女の政党、国民民主連盟(NLD)政党も政党登録ができるようになっていた。(その後、2015年11月に自由選挙が行われ、NLDが政権に付き、半世紀に及ぶ軍事政権が一旦は終わった)。
退職後の人生、世の中のため、世界のためになるところで貢献したい、と思っていた。第1候補がミャンマーだった。スーチーさんらの新しい国で何らかのお役に立ちたい。だが、ぐずぐずしているうちに、民主政権下でも西部のロヒンギャの人たちに対する抑圧が深刻との報道が徐々に出てきた。やがて2021年2月にクーデターが起こり、ミャンマーは再び軍事政権になってしまった。スーチーさんはとらえられ、民主勢力への弾圧が強まる。
ミャンマーに行ったら、一番気に入った町マンダレーで暮らそうと思っていた。がそれはやめる他なくなった。代わりに縁あってベトナム・ハノイで働くことになり、さらに「モンゴルからニューギニアまで」アジア各地を放浪し、南米に行き、息子夫婦の居たニューヨークに暮らし、ヨーロッパを放浪し、第二の故郷サンフランシスコ圏で暮らし、さらに戦争のはじまったウクライナ周辺を旅し、昨年はアフリカに行き、定住できない人間の不安定人生が続くことになった。
そして、マンダレーを震源とする大地震だ。旅の記録をアップするぐらいのことしかできない。ここに出てくる多くのパゴダ、王宮、大学、市街地が、破壊されているに違いない。震源は、下記写真にあるイラワジ川の対岸地域だ。軍事政権下での人々の苦しみも含めて、最低限、ミャンマーに関心をもち続けねば。)
ミャンマーの古都マンダレー、バガンの旅(2012年8月)
『アジア奥の細道』(KDP電子版、2017年)より

未明のマンダレー
「マンダレーだ」。
男にたたき起こされる。何が何だかわからないうちにバスから降ろされると、外には私のトランクが置かれ、人力車が待っていた。まだ夜だ。
「ここは中央駅だよ」と、下りていく私にバス・ドライバーが声をかける。待っている力車に乗る他ない。「どこに行くのだ」と力車マンが聞く。わからない、これから決めるんだ、まずは安いホテルを探す…。
英語がよく通じない。「ほれ、あの明るい所でホテルの予約書類でも調べろ」とでも現地語で言っているようだ、街灯の下に力車を止めて私が調べるのを待つ。予約はしていない。適当に、ガイドブックに載っているホテルのひとつを言う。「ETホテルだ!」。
力車が再び走り出し、夜のマンダレーの街がゆっくりと動き出した。
「何をしているのだ、俺は。」
まだ頭がもうろうとしている。眠い。時計を見ると夜中の2時半。マンダレーのバス・ステーションから街中までは10キロ以上あると聞いた。しかしここは街中のようだぞ。とにかくどこかの宿に入らなければならないが・・・しかし、こんな時間に宿に入ったら今晩分の宿代も取られてしまうぞ、などとケチな心配も始める。
8月7日未明。街外れのバス・ステーションでなく、街中心部の鉄道駅前に降ろされたのは、バス・ドライバーの特別サービスだったらしい。力車は15分も漕ぐうち、玄関の閉まった「ETホテル」に着いた。中から出てきた男があと5、6時間しないとチェックインできない、と言う(コミュニケーションは片言英語を私が意味を直感して理解している)。
いや、それでちょうどいい、荷物を置いてもらって街を歩ける。宿代も今夜分は取られない。隣の茶店が暗いうちからもうあいているので、そこでしばらく休んで、東の空が白み始めてから街を歩き始めた。朝の中央市場を見た後、ずっと西に歩いてイラワジ(エーヤワディー)川河岸に行った。中流なのに実に広大な川面だ。途中に段差のあるメコン川と違って、そうとう内陸まで船の航行が可能という。






イスラム教徒も多い
イスラム教徒は大変だ。朝4時起きしてモスクに祈りに行く。あちこちからあの物悲しいモスクのスピーカー音楽が流れてくる。
そう、ミャンマーにはかなりのイスラム教徒がいるのだ。インド系の顔立ちも多い。ヒンズー寺院もある。中央アジアと同じように、ビルマは東アジアと西(南)アジアが混交する世界だ。(公式統計によると、ミャンマーは90%が上座部仏教。キリスト教4%、イスラム教4%、ヒンズー教0.5%などとなっている)。
仏教徒も負けてはいない。パゴダからイスラムに似たスピーカー音楽が流れる。紅紫の袈裟を来たお坊さんたちが朝の托鉢に出かける。僧列にかなりの数の少年僧が混じる。タイやラオスでも見た光景だが、かつて近代教育の普及以前、寺での修行が青少年教育の場だったに違いない。
多民族社会
ミャンマーは多民族、多宗教の社会だ。山岳地帯はともかく、少なくとも街では、そうした多様な人々が平穏に暮らしている。インド的な多様な文化・宗教秩序を感じる。
第2次大戦時、日本はこんな遠くまでよく攻め込んできたもんだ、と思う。その野望に驚くが、しかし、にわかづくりの「大東亜共栄圏」「八紘一宇」ではこんな多元社会は到底、統治できなかったのではないか。ビルマの少数民族は人口の3割とされるが、実際は半数に迫るとも言われる。今でも山岳部の少数民族諸州には戦火が絶えない。スーチーさんの最大の課題も民族融和だ。西部のインド(ベンガル)系のイスラム教徒・ロヒンギャ族の苦難の記事を読んだ。
しかし、イスラム教徒はマイノリティのはずなのに、モスクから朝4時、5時に大音響のスピーカーで祈りを流しまくっている。よく周辺から苦情が来ないものだ。
街中を一通り歩き、ホテルに戻ってくると、無事チェックインできた。宿のオーナーは中国人のおばさんだった。「あなたがET(地球外生命体)なのか」とジョークを飛ばすと、にっこりとうなずく。実際は、中国系の名前の頭文字をとってETホテルと命名したらしい。外国人バックパッカーも多く泊まるホテル。Wi-Fiもある。入った3階の部屋はトイレも含め清潔で、眺めもいい。床が完全にタイルなのがいい。これなら湿度が高くても衛生を保てる。







マンダレー王宮
一眠りしてから再び街に出る。
ミャンマー第2の都市マンダレー(人口100万、都市圏全体で250万)は古都で、日本で言えば京都だ。ミャンマー仏教文化の中心都市であり、7000の寺院があり、人口の3分の1が僧、尼僧だという。
最後のビルマ王朝(コンバウン朝)の王宮「マンダレー王宮」が街の北東部にある。立派なお堀を張りめぐらした約2キロ四方の王宮。1885年、南部から徐々にビルマを植民地化していったイギリスによりに陥落させられた。王はインドに追放され、大量の財宝がイギリスに持ち去られた。以後、英軍の要塞に使われた。第2次世界大戦でビルマを占領した日本軍も、この王宮跡を兵站基地に使った。マンダレーの東70キロ、高原の避暑地メイミョーに日本軍司令部を置き、インパール作戦など戦争末期の日本軍の無謀な戦いの拠点となった。
(復元されたマンダレー王宮。背景にマンダレー丘が見える。)

(王宮のまわりは城壁と壕に囲まれている。1辺約2キロの正方形。)
マンダレーヒル
次いで、マンダレーの北東にそびえる聖地マンダレーヒルへ。標高236メートルの頂上から見る景色はすばらしかった。マンダレー市街が一望できるだけでなく、東には少数民族の故郷であるシャン高原が望める。避暑地メイミョーのある高地もよく見える。そして西には大河イラワジ川。氾濫して広大な水田地帯が湖のようになっている。熱帯の大河は、毎年恒例のように洪水を起こし、水が低地帯をおおうようだ。

(頂上からは360度の眺望。右手に避暑地メイミョーのある高原方向も望める。)
(イラワジ川の方向は雨期のため水域が拡大し、一面洪水のようだ。)


エキゾチズムの古都
「マンダレー」。この言葉には独特の憧れやエキゾチズムがある。遠い異郷の地への夢。日本人でも、マンダレーと言えば何がしか遠い古都のイメージがある。マンダラ(仏教の悟りの世界を表す図)との関連でも反応するのかも知れない。
イギリスにとってもマンダレーはエキゾチズムの象徴だった。ビルマは、香港などの海港を除くと、英アジア植民地のほぼ最前線だった。かの遠いインドのそのまた先。アジア大陸の奥地に連なる。マンダレーなどビルマ北部はビルマの中でも最も遅く19世紀半ばに植民地化された。だから英語圏の人にとってマンダレーはアジアのエキゾチズムの象徴のような街だ。「マンダレーへの道」という有名な映画もあった。
伝統産業が残る
翌18日も市内見学。古都マンダレーには様々な伝統産業が残っている。織物、木彫り、石工、金・銀細工、金箔、陶器などの手工業だ。そのいくつかを見学。
マハムニ・パゴダ付近に展開する大理石工房。路上にはみ出しながら、仏像などを彫り刻んでいる。電動グラインダーで削り取られる白い岩石細粉が舞い上がる。確かに音やほこりで周辺の環境にはよくない。市政府は住民からの苦情でこれら工房を移転させる方針という。しかし代替地が確保されていない。大理石工房はマンダレーの歴史とともに古く(19世紀半ばから)、約1000人の石工が働いているという。
次いで王宮の東側一帯の織物工房地帯へ。しかし、織物産業はすたれてきたのだろうか、なかなか工房を見つけることができなかった。やっと「Aoek Lun Yar Oyaw絹織物工房」を発見。見学させてもらう。若い女性たちが古い織機をつかってロンジー(ビルマ・スカート)などを織っていた。



マンダレー大学
ミャンマーでは、外国人は大学内に入れない。不穏分子との交流が生じるのを警戒している。それはわかっていたが、一応、マンダレー大学に行ってみた。さほど大きくない大学だが、夏休みで閉鎖されていた。正門ドアの所まで歩み寄ると、警備の男が来て、ダメダメというような身振りをした。横に抜けるようなそぶりをしてこっそり写真を撮る。ミャンマーの大学はキャンパスの中に寮があって、そこに住むようになっているらしい。学生や教職員の宿舎らしき建物の敷地は通れたので、道の外れまで歩いて行った。いずれも簡素な建物。寮では学生たち元気よく騒いでいるようだった。
駅の東側で再開発
マンダレー駅に行ってみる。鉄道駅は監視が厳しく、撮影禁止になっている。そう言われると益々行ってみたくなるものだ。が、隠すほどでもないだろう、閑散とした田舎風の駅だった。
駅の東側の新商店街を歩いてみる。きのう行かなかったあたりだ。立派なショッピングセンターがあったのにびっくりした。フロアーはピカピカで、外の泥と埃の街路とは大違い。ファッション店などの他、大きなスーパーもあった。輸入食品もたくさん並んでいる。ミャンマーにも部分的にはミドルクラスが生まれているようだ。昨日は古い街ばかり見てきたが、やはり、街はいろんな所に行かないとわからないものだ。
新聞によると、来週にはさらに大きなショッピングモールDiamond Plazaがオープニングするとのこと。すぐ近くだったので外から確認。なるほど立派な建物だ。
乾燥の大地
濡れきったビルマ南部低地から来ると、乾燥したマンダレーの大気が実に心地よい。ホテルの部屋も乾燥して清潔だし、洗濯物もすぐ乾く。特に今年は、雨季にもかかわらず、雨の降らない日がかなり続いていたという。
平年でも年間降雨量は、ヤンゴン2876mmに対してマンダレー897mm。ベンガル湾からの南西モンスーンは、西部のアラカン山脈にぶつかり大量の雨を降らせ、その先のビルマ内陸平原には乾いた熱風が吹く。
この乾燥は快適なのだが、環境の激変が旅人にはこたえる。たちまち喉をやられ気管支がおかしい。そして下痢も。いくら日本でスポーツで鍛えても、旅の体力というのはスポーツ体力とは異なるようだ。環境の激変や長い乗り物の旅で、旅の初期には必ずどこかやられる。
不快指数は高いが、やはりあの湿り切ったヤンゴンに帰らないと体調は取り戻せないのか、などと贅沢にも考える。早めにホテルに戻り、休む。
勉強も旅の一部
マンダレーからどこに向かうか。翌9日は午前中いろいろ文献を読み、ネットを検索し、計画を練る。それがまた楽しい。土地の歴史や社会状況について勉強し、それが旅ルート選定につながる。「おお、そうなのか。それじゃあ、ぜひあそこに行ってみよう」てな具合に。
旅先でホテルにこもって勉強するというのは、一見時間の浪費のように見えるが大切なことだ。日本に居るときからすべてを調べつくすことはできない。ガイドブックを読んでも問題意識的に頭に入らない。どうしても現地に入ってから、現場を経験し、時には困りながら、いろいろ勉強する形になる。旅先でしか吸収できないような知識を得、旅先でしか出てこないような思想や考えも出てくる。旅先での勉強は旅体験の一部なのだ。
中緬国境貿易
希望としては、北上してビルマ東部の山岳地帯に入り、ラショーから国境の街・ムセに行き、中国の瑞麗との国境貿易の現状を視察したい。
かつて日中戦争中、米英が蒋介石の中華民国を軍事支援するためにつくった援蒋ルートのひとつ「ビルマルート」でもある。この輸送ルートを断つために日本がビルマに侵攻した。これが、現在、中緬(中国・ミャンマー)貿易の主要交通路となっている。国際社会からの経済制裁を受けているミャンマーは、中国との貿易が生命線だ。少数民族の支配地となっている国境ルートが多い中で、このラショー・ルートは、ミャンマー政府が直接掌握し、特に重要な交易路として重視されている。
ミャンマーと中国の国境ゲートは、その2000キロに及ぶ長い国境線に11か所あるが、貿易額の5割以上がムセ・瑞麗国境ゲートを通る。国境地帯で経済特区をつくり互いに投資、関税、出入国に便宜を与えている。国と国との正面からの「国際貿易」が停滞する中、辺境であるこの国境地帯で活発な「国境貿易」が行われる。産業立地も進み、辺境が先進経済化するという奇妙な現象が生まれている。(私は後に、この国境地帯に中国側から入っている。『アジア奥の細道』第3章(5)参照。)
ある意味、マンダレーが中緬貿易のミャンマー側拠点だ。中国企業がマンダレーにたくさん入っている。街を歩いても中国語の看板を掲げるビルが目に付く。きちんとした統計がとられていないが、中国人人口も急増していると言われる。現に私の宿泊したETホテルも中国人経営だった。
非常に興味のあるラショー・ルートなのだが、しかし、行くのが難しい。マンダレーからラショーまででも1日かかるし、そこから先は特別許可がないと行けない。2週間待って許可が出ても、ガイド付きのツアーでしか行けず、料金も高い。
カチン族
「ラショー・ルート」はシャン州の北部を通る。そのさらに北、カチン州の山岳部に行くことも調査旅行として考えられる。カチン族は、人口50万の少数民族。1962年の軍事クーデター以後、カチン独立機構(KIO)の下にカチン独立軍(KIA)を組織して戦ってきた。1994年に停戦合意がなされるが、KIO派の国政選挙立候補が禁じられるなどに反発して、2011年6月に停戦合意を破棄。武力対立が再開するとともに5000人と言われる難民が中国側に脱出している。
しかし、カチン州はさらに遠い。州都のミッチーナまでの鉄道は1日かかるか2、3日かかるかわからない状態だ。バス便はない。比較的安定しているイラワジ川の船便でも4日から6日かかる。これも無理だ。
もうひとつの古都、バガン(マンダレーの西南160キロ)に向かう以外にないだろう、という結論になった。ミャンマー政府に提出した旅行計画書にどれくらい従うべきかわからないが、計画通りということになる。すでにマンダレーでは計画外のホテルに泊まってしまった。
街の南部にあるバス・ステーションに行き、バガン行きの長距離バスに乗る。これも、日本からの中古バスのようであった。
気候はサバンナ
マンダレーを出て驚いた。イーヤワディー(イラワジ)川から離れるにつれて、サバンナのような風景が広がってきた。水田はなくなり、畑もまばら。潅木が所々はえる荒れた大地に草原が広がる。来る時は真夜中で気がつかなかったが、乾燥したこの地はアフリカの草原地帯のように見える。確かに、地図帳の気候図もこの地域をサバンナ気候に分類している。
(ミャンマー中部平原はサバンナの植生。)
中国人、フランス人旅行者
バガン行きのバスには外国人が3人乗ってきた。中国人のカップルとフランス人の男性。中国人は何と2人とも日本語を話した。天津から。女性は日本語を勉強中。男性は東工大に留学していて5年程度の対日経験があると言う。中国に帰って日系企業に就職したが、最近辞めて、この機会にと外国旅行に出たという。そういえば昨日、お互い「ETホテル」に泊まっていましたね、ということでお近づきになった。
私の隣の座席に座ったのはフランス人青年だった。フランス人にしては英語がうまく、そうとは気づかなかった。互いに旅の経験を話し合う。彼は、北部のラショーまで行ってきたという。行きは乗り合いタクシー。帰りは鉄道で帰ってきたが、ものすごく揺れて大変だったという。
前年のベトナム、ラオスの旅でもフランス人の旅行者が多かった。もともとフランスの植民地だった関係だと思っていた。が、今回ミャンマー(元イギリス植民地)に来ても、フランス人の旅行者が多い。なぜなのか。
「たぶん、アウンサンスーチーさんの映画のせいだよ。」
というのが彼の説だった。最近封切られたスーチーさんの自伝的ラブストーリー「The Lady」は英語の映画だが、制作は、監督(Luc Besson)を含めフランスが中心になっている。それでフランス人がミャンマーに興味をもったという。そうかな。確かにいい映画だったが。
彼は、フランス語版のLonely Planetを持っていた。英語版が翻訳され、ヨーロッパの若者たちに広く利用されているらしい。私の『地球の歩き方』にも興味をもった。カラーの写真が多いので、こういうのもいいな、と珍しがっていた。
やがて途中で、イギリス人とデンマーク人の青年が乗り込んできた。何とこのフランス青年の知り合いだという。ラショーでいっしょにトレッキングをした。その後別々に旅してきたが、またここで偶然落ち合った、と盛り上がっていた。
(バスの中。)
(バスが停まると食べ物を売る人たちが集まってくる。)
(バスは右手に山岳信仰の山、ポパ山(1518メートル)を見ながら、バガンに進む。))
熱が出て寝込む
バガンでは、マンダレーのETホテルで紹介されたホテルを予約していた。ETホテルが気に入っていたので、その系列なら安心だろう、と思った。
実際そうで、バガン(正確には北隣の村ニャウンウー)に着くと、無料の力車が迎えに来ていて、ホテルまで送ってくれた。新着地でのホテル探しとそこへの移動の苦労がなくなった。ホテル自体もまあまあだった。1階の陽のあたらない暗い部屋に入れられて、最初むっとしたが、誤解だった。この乾燥した灼熱の地では、陽のあたらない暗い部屋は特等席なのだ。涼しくて暑さがしのげた。トイレ・シャワーよし。Wi-Fiあり。
下痢はたいしたことなかった。パイナップルを丸1個食べて便が柔らかくなっただけのようだ。しかし、乾燥による喉の不調は深刻だった。症状の進行が極めて早い。バスの中で、ちょっとセキがでるな、と思っていたら、バガンに着く頃には熱も出てきた。食料、水を買いあさり寝込む準備をする。日本の麦わら帽子のような大きなつば付きの帽子も買った。太陽が照りつけ、夕方でも肌が焦がされるようだ。
乾燥で肺がやられた。一刻も早くあの雨ばかりのヤンゴンに戻らなければだめか・・・そう思いながら7時に寝こみ、12時間ぐっすり寝た。翌8月10日、起きると何となく体調がいい。セキとタンは出るが、こういうのは風邪の最終期に現れるものだ。そのまま昼頃まで、オリンピックでの「なでしこJapan」の戦いをネットで調べたりしていると、外に出たい欲求が高まってきた。
世界三大仏教遺跡
バガンはカンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつ。10キロ四方の原野に3000を越す大小様々なパゴダが林立する。11世紀から13世紀のバガン朝の頃に建造された。十分に世界遺産に値する遺跡だが、ミャンマー政府が勝手な修復をしたり、ゴルフコースや61メートルの展望タワーをつくったりして、世界遺産申請が拒否されたままになっている。
広いので、私お得意の自転車でまわるに絶好の場所だ。しかし、炎天下で自転車を漕ぐのは相当の肉体労働。本調子でない肺で大丈夫か。
が、何という天のめぐみ。昼頃出かけるまさにその時、土砂降りの夕立が来た。その後もぱらぱらと時折にわか雨の降る天気。ミャンマー北部に来て4日目、初めて見る雨だ。実際、現地の人にとっても久しぶりに降った雨だったらしい。空気は一挙に湿度を高め、痛みきった私の肺が蘇生させられるようだった。
4時間ほど、広いバガンを快適にサイクリングした。ひときわ高いシュエサンドー・パゴダは登れるようになっている。高い所から、大平原に林立する寺院群を見て大いに感じるところがあった。
(10キロ四方の原野に3000以上のパゴダが建つバガン。11世紀から13世紀にかけて、最初のビルマ統一王朝であるパガン朝が多数の仏塔、寺院を建設した。)
(バガンでもひときわ高くそびえるシュエサンドー・パゴダ。1057年、アノーヤター王が建立。ここは上に登れるので、夕日の絶景を見る場所などとして有名。)
(急な階段を登っていくと、下記のような絶景が。)
(シュエサンドー・パゴダからのバガンの眺望。)
(同上。)
(同上。)
(同上。)
(北西方向には、バガンで最も高いタビニュ寺院(61メートル)が見える。その背景にイラワジ川の水面がかすかに見える。)
(タビニュ寺院。12世紀半ば、パガン王朝のアラウンシードゥー王が建立。)
(バガン沿いを流れるエーヤワディー(イラワジ)川。)
(イラワジ川河畔に立つ丸い鐘楼のようなブーパヤー・パゴダ。1975年の地震で川に崩落。原物に忠実でない形で復元されたとされる。)
(アーナンダ―寺院。1105年建立。バガンで最も均整がとれた美しい寺院とされる。)
(子どもたちはこんな「バス」で見学に来る。)
(こんな「ひまわり・バス」も。)
(前から人が乗るこの「後のり」バスも使われていた。どこかで見たバスだ。)
(古バガンの城門。バガンは基本的にパガン王国の首都で、5万~20万の人々が暮らしていた。壁に囲まれた城壁都市だった。パゴダはこの城壁の内部だけでなく、多くはこの城門外の広大な平原に建設された。)
(古バガンの城壁跡。)
(バガンでは放牧も行われていた。)
パンク修理はいくらか
パゴダ群からの帰り、自転車のタイヤがパンクした。食堂やみやげ物屋で直してくれるらしいので、そこに向かって自転車を押していた。すると、バイクで男がやってきて、パンクを直してあげるという。半信半疑だが、小雨も降ってきたことだし、寺院の軒先でパンク修理をしてもらう。修理道具一式をもって広いバガンを巡回しているようだ。自転車で回る外国人観光客が多いので、このような商売が成り立つのだろう。なかなかの腕前で、修理に見とれた。いくらか、と聞くと、
「もらわなくてもいい。あなたの気持ち次第だ。」
とお坊さんのようなことを言う。
うーむ、困った、あまり高い料金(チップ)を払ってもいけないし・・・。頭で計算する。日本でパンク修理は1000円程度で安い食堂での外食は500円程度。ここミャンマーで食事は500チャット(50円)程度だから1000チャット払えばよいか、と考え、若干感謝を込めて2000チャットを出す。
後でホテルの人に聞くと、パンク修理の相場は200チャット(20円)程度だという。10倍の料金を払ってしまったことになる。相場が安すぎるとも言えるんじゃないか。ミャンマーに居ると本当に値段の感覚がわからなくなる。日常の物価は極端に安く、それに比べて外国人料金がかなり高い。パンク修理20円は食事代と比べても安い。一般にサービス労働の価値がまだ低く見られているのか。とにかく、あの外国人向け流しパンク修理屋さんはとてもおいしい稼ぎをしたことになる。料金をはっきり請求するより、外国人の「好意」に任せた方が、ずっと実入りがいいことを彼は知るようになったのだろう。