「那須国の都」物語① まぼろしの古代国

栃木県北東部

栃木県北東部の桃源郷、旧小川町(東隣の旧馬頭町と合併して現那珂川町)をご存じか。かつて古代那須国の中枢部にして多くの古墳があり、中世には弓の名手、那須与一を生んだ土地。現在の地盤低下は争えないが、関東一の清流・那珂川が流れ、その東部・八溝山地は「首都圏に最も近い秘境」とも言われる理想郷だ。

ついでに言うと、この旧小川町は私の生まれた里でもある。歳をとると、望郷の念が一段と高まる。田舎を拒否し東京に出て、東京も飽きてサンフランシスコに飛び、老いてなお世界中を放浪するこのような人間でもそれは同じだ。そゞろ神の物につき、道祖神の招きにあいて、いつしか那須国への想いに沈溺せり。

「消滅可能性のある自治体」

民間有識者グループ「人口戦略会議」の2024年調査によると、この那珂川町は栃木県内で2番目に「消滅可能性のある自治体」という。「2050年までの30年間で、若年女性人口が半数以下に」なり、「その後、人口が急減し、最終的に消滅する可能性がある」。

天下の関東地方の一角にしてこれだ。他の地方にはさらに厳しくなっているところが多数あるだろう。その過疎化、少子化の問題を徹底的に追究したい、とは思うが、今回はそこまでは行かない。この旧那須国地域にかつてあった栄光の歴史を紐解き、消滅に抗してまず観念の上で文化圏再生をはかる試み。

那珂川町を紹介する素敵な動画があったので下記にリンクを張ります。”Piecesのまちおこし”さん、ありがとうございます。

古代那須国の位置図

卑弥呼の時代から飛鳥時代にかけて存在した那須国の領域(緑のライン内)。Map:  Wikimedia Commons, CC0 1.0。大ざっぱな境界で申し訳ないが、当時の「領域感覚」も大ざっぱだったようだ。関東最北の那須岳(標高1917m)地域が観光地として名高いが、そこから流れ出る那珂川が無数の支流群を集め、南部の那須烏山、茨城県境界付近までを含む広域がかつての那須国だった。その都は主要支流・箒川が那珂川に合流する地域、旧小川町(現那珂川町)と旧湯津上村(現大田原市)にまたがる付近だ。日本三古碑の一つにして水戸光圀(黄門)による日本史上初の本格的考古学調査のきっかけになった那須国造碑によると、那須国造だった那須直韋提(なすのあたいいで)が689年にヤマト王権の評(後の郡司)をたまわったとあり、それまで独立的な那須国が存在していたことを示した。

古代世界を見る場合注意しなければならないのは、当時の人々にとって住みよい地域は、氾濫を繰り返す大河川の河口平野ではなく、内陸の盆地、河岸段丘などだったことだ(飛鳥、奈良の都を想起)。そして交通も、陸路よりも河川交通が主力。陸路がつくられても、大水で渡河できなくなる大河川河口域でなく内陸山地を通る例えば東山道がメインとなった。それら交通の結節点にして東北への玄関口となったのが那須国中枢部だった。

東国最古級にして最大級(当時)、卑弥呼時代の古墳

私が通っていた栃木県那須郡小川中学校のすぐそばに駒形大塚古墳という前方後方墳(墳墓長64m)がある。そのまわりでよく駅伝クラブの練習をしていた。田舎によくあるごく平凡な古墳としか思っていなかったが、その後1974年12月に発掘調査が行われ、栃木県最古の古墳であることがわかった。それどころか、東国(東日本)でも最古級。少なくとも築造時点では関東最大の古墳ということも判明した。2002年に、那須小川古墳群の一つとして国指定史跡に指定。

駒形大塚古墳(前方後方墳)。「前方部」のある西側からの展望。すぐ近くに民家がある。かつては墳丘上に相撲土俵や公民館があった。Photo:Saigen Jiro, Wikimedia Commons, CC0 1.0

この古墳の築造年代については、後で詳述するが3世紀後半が有力で、270年頃とする見解がある。『三国志』魏志倭人伝によると、邪馬台国の女王・卑弥呼が238年(または239年)に、中国の魏国皇帝に使者を送った。倭国は2世紀後半に大乱状態に陥ったが、卑弥呼の擁立によりこれを収めた。卑弥呼の死は247年または248年が有力だ。駒形大塚古墳が270年頃につくられたとすると、卑弥呼の時代に有力な豪族または王がこの地を治めていたことになる。

同古墳に隣接する後述「三輪仲町遺跡」の南側には1辺10~18mの同時期の方墳8基が確認されており、その中には、大規模な駒形大塚古墳に先立つものが存在する可能性もある。

日本で古墳時代がはじまるのはやはり3世紀。現在のところ、奈良盆地南東部の纏向(まきむく)石塚古墳(全長93m)が200年頃の築造で最古とされる。弥生時代の墳丘墓的様相を残すいわゆる「纒向型前方後円墳」だ。その近くにある箸墓古墳(はしはかこふん、墳丘長278m)は3世紀半ばから後期につくられた典型的な前方後円墳で、かつてはこれが最古の古墳とされていた。卑弥呼の墓だったという説もある大規模古墳だ。

270年頃築造の那須国・駒形大塚古墳はこれらに近い。つまり後年の大和朝廷のおひざ元で古墳がつくられるのとほぼ同時期に、関東の片田舎で、当時にして関東最大(おそらく関東以北最大)の古墳がつくられたことになる。郷土の歴史としては誇らしいが、謎だ。いったい何んだこの那須国というのは。

中国鏡が出土した

駒形大塚古墳からは中国製の青銅鏡「画文帯龍虎四獣鏡」(一般に、画文帯四獣鏡、がもんたいしじゅうきょう)が出土した。その時の状況を、発掘を率いた三木文雄は次のように記す。

「主体の東寄りの位置から、背面を上にして出土したこの鏡は、黒々とした土の下からのぞかせたみずみずしいエメラルドグリーン、それが竹箆(へら)の先が動くにつれて、小さな円弧を描き始めた時は、思わず涙してしまったと、発掘にあたった一女子学生の言葉につきる。見事な緑青に包まれた鏡背には朱をかむり、緊張と興奮に包まれた状況の中でのあざやかな色彩は、心にやけつく思いであった。そして鏡をとりあげた後に、円弧を描いて真っ赤な朱との対称は、言葉につくしがたいものであった。」(三木文雄『那須駒形大塚』吉川弘文館、1986年、p.31)

駒形大塚古墳から出土した画文帯四獣鏡。那珂川町なす風土記の丘資料館展示。写真:Saigen Jiro、Wikimedia Commons, public domain

この画文帯四獣鏡は、中国の後漢が滅亡した後三国時代を経て中国を再統一する西晋の鏡だった。西晋は265年に司馬炎が魏帝から帝位禅譲の形で建国し、280年に呉を滅ぼして中国を再統一した(すぐ弱体化し305年から五胡十六国の混乱期に入る)。三国時代には、栄光の漢の時代の鏡(神獣鏡)の模倣がはやった。画文帯四獣鏡もそのような模倣鏡の一つだった。

中国鏡が、関東の辺境(ではなかったかも知れないが)の古墳から出る。不思議だ。青銅を磨いてつくった鏡である銅鏡は弥生・古墳時代の日本国内遺跡から6000面以上出土している(下垣仁志『鏡の古墳時代』吉川弘文館、2022年、p.23)。その中で最も有名なものは約580面に上る三角縁神獣鏡で(岩本崇『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』六一書房、2020年、p.1)、近畿地方に多い。ヤマト王権が各地の服属する豪族に権力関係のあかしとして分配された。だがこれは中国製でなく国内で量産されたものでは、という議論がある。そうした中でれっきとした中国製が那須国から出たのだ。画文帯四獣鏡は他に 京都府城陽市久津川箱塚古墳出土鏡、中国・浙江省紹興での出土例がある。「東国の古代史」サイトによると、三国西晋鏡でかつ漢代神獣鏡の模倣鏡というくくりでは日本国内7件の出土例があり、畿内5基、出雲1基の古墳から出ているという。東国では駒形大塚古墳だけだ。これは何を意味するのか。

隣接古墳から夔鳳鏡、斜縁神獣鏡も出土

旧小川町地域では、3世紀後半の駒形大塚古墳に続き、4世紀前半の後述那須八幡塚古墳(前方後方墳、68m)で同じく中国鏡の夔鳳(きほう)鏡、那珂川支流・箒川をはさんだ旧湯津上村地域の下侍塚古墳(4世紀半ば、前方後方墳、84m)からも別の中国鏡、斜縁神獣鏡が出ている。夔鳳鏡は2世紀以降の漢代につくられたもので、日本では北九州を中心に27古墳で出土している。東国では岐阜県2面、長野県1面で、那須八幡塚古墳は東限だ。下侍塚古墳の斜縁神獣鏡は三角縁神獣鏡類似の鏡で日本では40面以上が確認されている。研究が遅れているようだが、3世紀の中国製であることは確かだ。これら3基を含め那須6基の大型古墳は直系の首長たちの墓と見られ、これらについては次のような指摘がなされている。

「このように、東国古墳に中国鏡が三代にわたって保有されるのは特筆される現象である。また、首長系列が前方後円墳ないし円墳に転換しないことも注意され、前方後方墳を築造する外来集団の「本流」を担うような集団の出自を想定させる。」(若狭徹『前方後円墳と東国社会』吉川弘文館、2017年、p.37)。「同地域の 前方後方墳に特異な中国鏡が集中する現象は、同地域が内陸における東北経略のための重要な拠点であったからと見られ、このような特殊地域であったからこそ、中国鏡が配布されたものと思われる。」(『栃木県史 通史1』1981年、p.364)

古墳の年代特定は不確か

日本には16万基もの古墳がある。しかし、年代順に並べた古墳リストはない。ウェブ上に大きい順のリスト、都道府県別の数の多い方からのリストなどはあるが、古い順に並べたリストはない。大まかな年代別古墳リストを掲げる場合でも、第1期、2期などと相対的な時代別(編年)によるものだけだ。

その古墳が何年につくられたものかは重要な指標だが、考古学ではまだそれを正確に出せないでいる。年代確定には放射性炭素年代測定や年輪年代学などが用いられているがいずれも欠陥があり、誤差を免れないという(詳しくは、例えば、鷲﨑宏「木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について」(『東アジアの古代文化』136号、2008年。大和書房)参照)。

関東の主要古墳

そうした相対的な編年順に東海から関東地方にかけての主要古墳を、概略実年代含めて記した表が、若狭徹「北西関東における弥生後期の遺跡動態と環境変動」(『国立歴史民俗博物館研究報告 第231集』2022年2月)p.62に示されていたので、これを参照したい。比較的最近の論文なので、実年代もある程度精密になっていると思われる。今後、研究の進展で実年代の異動があっても、古墳の古さについて相対的な前後関係は変わらないだろう。下記の通りだ。

関東地方の古墳時代初期主要古墳リスト

参照:若狭徹「北西関東における弥生後期の遺跡動態と環境変動」『国立歴史民俗博物館研究報告 第231集』2022年2月、pp.61-62を参照した。最初期の0期以外は、主に墳丘長60m以上の主要古墳のみをリストアップしている。那須が下野国の郡になるのは689年なので、下野国とは別に那須国として独立させた。■は関東の初期古墳に多い前方後方墳、〇はヤマト王権下で主流となる前方後円墳を示す。

0期(古墳時代最初期)

〇神門5号墳42m(上総、千葉県市川市)
■高部30号墳34m(上総、千葉県木更津市)

第1期(3 世紀後半)

■駒形大塚古墳64m(那須、那珂川町小川)
〇秋葉山3号墳50m(相模、神奈川県海老名市)

第2期(4世紀初頭)

■元島名将軍塚古墳95m(上野、群馬県高崎市)
■前橋八幡山古墳130m(上野、群馬県前橋市)
■寺山古墳60m(上野、群馬県太田市)
〇星神社古墳90m(常陸、茨城県常陸太田市)
■道祖神裏古墳56m(上総、千葉県君津市)
〇今富塚山古墳110m(上総、千葉県市原市)

第3期(4世紀前半~中頃)

■那須八幡塚古墳68m(那須、那珂川町吉田)
■下侍塚古墳84m(那須、大田原市湯津上)
■藤本観音山古墳117m(下野、栃木県足利市)
■山王寺大桝塚古墳96m(下野、栃木県栃木市)
〇前橋天神山古墳129m(上野、群馬県前橋市)
〇下郷天神塚古墳102m(上野、群馬県高崎市)
〇朝子塚古墳123m(上野、群馬県太田市)
■勅使塚古墳64m(常陸、茨城県行方市)
〇梵天山古墳160m(常陸、茨城県常陸太田市)
〇葦間山古墳141m(常陸、茨城県筑西市)
〇長辺寺山古墳120m(常陸、茨城県桜川市)
■鷺山古墳60m(武蔵、埼玉県本庄市)
〇野本将軍塚古墳120m(武蔵、埼玉県東松山市)
〇宝来山古墳100m(武蔵、東京都大田区)
〇亀甲山古墳104m(武蔵、東京都大田区)
〇長柄桜山2号墳80m(相模、神奈川県逗子市)
〇浅間神社古墳100m(上総、千葉県君津市)
〇姉崎天神山古墳130m(上総、千葉県市原市)
〇飯籠山古墳102m(上総、千葉県君津市)

第4期(4世紀後半)

■上侍塚古墳114m(那須、大田原市湯津上)
〇日下ケ原古墳106m(常陸、茨城県大洗町)
〇木原愛宕塚古墳100m(常陸、茨城県美浦村)
〇浅間山古墳172m(上野、群馬県高崎市)
〇大鶴巻古墳123m(上野、群馬県高崎市)
〇八幡山古墳84m(上野、群馬県太田市)
〇白山古墳87m(武蔵、神奈川県川崎市)
〇観音松古墳90m(武蔵、 神奈川県横浜市)
〇芝丸山古墳110m(武蔵、東京都港区)
〇長柄桜山1号墳90m(相模、神奈川県逗子市)
〇釈迦山古墳93m(上総、千葉県市原市)
〇白山神社古墳89m(上総、千葉県君津市)
〇油殿古墳93m(上総、千葉県長南町)
〇柏熊杓子塚古墳72m(上総、千葉県多古町)

当時で東国最大級

上記で見る通り、関東地方で最も古い古墳は、千葉県市原市にある神門(ごうど)古墳群内の5号墳だ。3世紀半ばもしくは前半につくられたと見られる墳丘全長42mの纒向型前方後円墳だ。前述の通り、前の時代の「弥生墳丘墓」の形状をある程度残す過渡期の墳墓だ。

これと比べると那須国の駒形大塚古墳は、数十年あとの築造になるが、全長64mで当時としては関東最大。かつ、前方後円墳ではなく前方後方墳で、その後4世紀後半までこの地で前方後方墳の築造が継続するなど、独自の文化圏が推定される。(駒形大塚古墳は、前方部分がかなり破壊されており、正確な墳丘長については異論があり、文献によっては60.5mとなっている。)

上記若狭論文の表では、伊勢以東の東海地方の主要古墳もリストアップされているが、第1期(3世紀後半)の築造で駒形大塚古墳(64m)の規模を越えるのは神明山1号墳(前方後円墳、69m、静岡市清水区)だけだ。そこから遠くない沼津市には250年頃の築造と考えられる高尾山古墳があり、これは前方後方墳で墳丘長が62mだ。上述表に信濃は含まれていないが、1974年に発見された松本市の弘法山古墳も3世紀後半の前方後方墳で墳丘長が66mある。高尾山古墳からは漢代の中国もしくは楽浪郡でつくられたとみられる「六像式の上方作系浮彫式獣帯鏡」(破鏡)が、弘法山古墳からは同じく中国鏡の「半三角縁四獣紋鏡」が出土した。中国鏡を伴った同時代の前方後方墳という点で、那須の駒形大塚古墳と通ずるところがある。

一方、那須国の北、東北地方では、福島県会津地方に多数の古墳があり、築造年代も古い。3世紀後半築造の古墳もあり、規模は40m台だ。この地域には日本海側から阿賀野川を通じた文化的影響があったとみられる。いずれにしても、東国全体を見ても、古墳時代初期(3世紀後半)に那須に最大級の古墳があった事実は動かない。

「東国の小大和」

下野国(現栃木県域)の古代文化を調査した塙静夫著・岡崎文喜編『下野国の古代文化』(第一法規出版、1981年)の考古学者らは、この那須地方(旧小川町・旧湯津上村地域)について次のように語っている。

「那珂川の浸食で形成された河成段丘、そして北から南に連なる八溝山脈に囲まれた盆地の中心が小川町である。この那珂川上流の那須郡小川町、隣接する馬頭町・湯津上村には数多くの古代遺跡が集中して埋存している。/私たちは遺跡の性格・種類・規模を検討してそれらを東国の小大和とよんでいる。小川を中心とする盆地は、大和三山に囲まれた盆地と、その盆地のなかを流れる飛鳥川の大和地方の地形的環境に類似する。すなわち八溝山脈とそれに連なる山々に囲まれた盆地、そして中央を流れる那珂川のたたずまいの環境は、大和地方の地理的環境にひじょうに類似しているのである。/また遺跡も富士山古墳・那須八幡塚・駒形大塚・上・下侍塚をはじめとする大小の古墳、那須官衙跡それに東国武士団を形成した那須氏の居城の神田城、国造碑を祭った笠石神社、この国造碑は古代金石文としてはひじょうに価値の高いものである。/そのような歴史的な経過を物語る遺跡が、それも日本古代史研究の上で多数の貴重な資料を提供している点において、それが一つのまとまった地域内に形成されている点において、また日本の古代史の展開を物語る奈良大和地方と歴史的環境が似ていることから、私たちは東国の小大和とよんでいるわけである。/大和の古墳文化、飛鳥京をはじめとする藤原京までの歴史的変遷の展開をたどる遺跡を多数もつ奈良大和地方とそれは、規模の上において質的な面でも比べるすべもない。しかし山の辺の道を歩いた人ならば小川町の周辺を歩くと、奈良大和地方の雰囲気に似た小盆地の環境にいくらかでも納得されるのではなかろうか。」(塙静夫著・岡崎文喜編『下野国の古代文化』第一法規出版、1981年、p.319)

那珂川町付近を流れる那珂川。

 

那須国地域には、3世紀後半の上記駒形大塚古墳以降、次のような大型古墳がつくられている。

    • 吉田温泉(ゆぜん)神社古墳(方墳、3世紀後半、50m) ―駒形大塚の南、旧小川町の那珂川を見下ろす河岸段丘上にある。後世に墳頂に温泉神社が立てられた。古墳脇に供献用の土器と竪穴建物が出土。葬送用の殯屋か。国指定史跡・那須小川古墳群の一部。
    • 那須八幡塚古墳(前方後方墳、4世紀前半、61m) ―同上の立地。中国鏡の夔鳳鏡が出土。那須小川古墳群の一部。
    • 下侍塚古墳(前方後方墳、4世紀前半、84m) ―箒川をはさんだ旧湯津上村側。同じく那珂川の河岸段丘上。「日本で一番美しい古墳」の評価。斜縁神獣鏡が出土。江戸時代に水戸光圀が発掘。国指定史跡。
    • 上侍塚北古墳(前方後方墳、4世紀前半、48m) ―同上の立地。
    • 上侍塚古墳(前方後方墳、4世紀後半、114m) ―同上の立地。那須国古墳として最大規模。水戸光圀が発掘。国指定史跡。

古墳位置図

本稿に出てくる主要遺跡の位置を表示。■は主要6前方後方墳。より完全な遺跡リストは例えば栃木県埋蔵文化財調査報告書第366集(2014年)の第6図(pp.12-14)を参照。旧小川町と旧馬頭町は現那珂川町。旧湯津上村は現大田原市へ。
那珂川(右)と権津川の合流地点から北方に旧小川町市街を望む。この合流地点段丘上には、中小の古墳跡がほぼ切れ目なく続いている。権津川上流(左手)付近に駒形大塚古墳や三輪仲町遺跡がある。写真出典:文化庁「那須小川古墳群」『国指定文化財データベース』

大規模集落「三輪仲町遺跡」

東国最古級古墳(駒形大塚古墳)の周辺には大規模な遺跡集落「三輪仲町遺跡」がある。この地は昔から人の住みやすい環境条件だったらしく、1万4000年前の旧石器時代末期から縄文、古墳時代、そして中世までの集落遺跡が出土している(むろん、現在も集落が継続している ―那珂川町小川地区三輪)。特に縄文時代中後期(約5000年前~3000年前)と古墳時代には大規模な集落があり、竪穴住居跡70軒、袋状土坑994基が確認されている。発掘調査は、1953年から計17回行われ、遺跡の範囲は10万㎡(10ヘクタール)に及ぶ(「なかがわ文化財探訪29 県内有数の集落跡・三輪仲町遺跡」『広報なかがわ』2024年10月、p.22、菊池悠子「那珂川町の文化財シリーズ:三輪仲町遺跡の方墳群」『広報なかがわ』2009年3月、p.19)。

日本の縄文時代遺跡として有名な青森県の三内丸山遺跡もほぼ同時期、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)に存在した。面積40万㎡と、三輪仲町遺跡の4倍。だが、こちらは約1700年間存続して。気候寒冷化のため4200年前に忽然と消えた。より南の那須国では幸いなことに居住が続いたようだ。むろん、三輪仲町遺跡の集落も途切れがなかったかわけではないだろうが、周辺の遺跡群を含めると、何等かに継続してきた可能性が高い。

当時の列島の人口は70万人程度

古い時代の集落をみる際、当時の人口規模も考える必要がある。西暦200年当時の日本地域の人口は研究者にもよるが、50万人~70万人だ。現在の200分の1。東国はもっと過疎だったはずで、1キロ四方で1人、10キロ四方で100人程度だったろう。大規模古墳をつくるような集落は特別な場所だった。

三輪仲町集落が繁栄した縄文中期は、温暖な気候で縄文時代の人口が「狩猟・採集経済社会としては発展の極限」に達した。それでも、日本列島全体の人口は25万人程度。縄文期は東日本の方が人口密度が高かったが、そこでも100人/100km2程度だったという。さらに1万年以上前の旧石器時代後期の人口となると、研究者の推計にばらつきがあるものの、概ね列島全体で1万人前後と推定されている。10キロ四方で0.03人、100キロ四方で3人の計算だ。遺跡が残るだけで相当な居住適地だったと言える。参考までに、縄文人が最初に列島に渡ってきた2万年~1万5000年前、彼らの集団は1000人程度だったとの古代DNA学の研究もある。

4世紀に関東の先進地域となる毛野の国(現群馬県)

さて、4世紀になると、那須国の西隣、毛野(けぬ)の国(現群馬県と栃木県南部)で大規模な古墳の築造がはじまる。4世紀初頭の将軍塚古墳(前方後方墳、95m)、前橋八幡山古墳(同、130m)、4世紀前半から中盤にかけての藤本観音山古墳(同、117m)、前橋天神山古墳(以降からはすべて前方後円墳、127m)、下郷天神塚古墳(102m)、朝子塚古墳(123m)、4世紀後半の浅間山古墳(172m)、大鶴巻古墳(123m)など多数の大規模古墳が見られる。(後代になるが、5世紀になるとさらに大型の前方後円墳がつくられ、5世紀中頃の太田天神山古墳は210mと東日本最大、全国でも30位以内の大型古墳だ。)

毛野の国(現群馬県と栃木県南部)は、当時東京湾に注いでいた巨大河川・利根川(荒川も利根川に流入)、独立して同じく東京湾に注いでいた渡良瀬川などによる河川交通の便がよく、かつその上流部として集住に適したことから、当時の関東における中枢的地域となった。関東特有の前方後方墳から早期(上記前橋天神山古墳以降)に前方後円墳に移行したことからヤマト王権の強い影響(もしくはそれとの拮抗関係)が認められる。後代の東国への幹線路・東山道も中部山岳地帯を抜けてこの地から関東に入る。毛野の国の東部、つまり下毛野(しもつけの、後に下野)が7世紀後半に那須国を併合し、現在の栃木県域にあたる下野の国として律令体制の中に入った。

上毛野国(後の上野国、群馬県)は、東京湾に至る大河川の内陸寄りという絶好の立地で、当時の関東地方で中心的な繁栄を遂げた。那須国の東隣の常陸国(現茨城県)も、当時の古代東海道の終端で、かつ海路、久慈川、那珂川を経た東北への前線基地として重要な位置にあった。東京や江戸はなかった。現在では魅力度ランキングで常に最下位を争う茨城、栃木、群馬の北関東3県だが、古代には輝いていた。

那須国をどう見る

隆盛を極めた毛野の国を主なフィールドとして東国の古墳時代研究で多くの成果を上げている若狭徹には、隣の那須国はどう見えただろう。『古代の東国① 前方古円墳と東国社会』(吉川弘文館、2017年)のあとがきで、その専門からして上毛野地域以外の分析が浅くなるのは避けられないと断りながら、那須地方について次のように言及している。

「特に下毛野は顕著な前方後円墳優位の地域であるが、なかでも那須地域(栃木県北東部で、7世紀末までは那須国として独立していた地域)は注目される。福島県と栃木県の県境に発し、八溝山地を貫通して太平洋に流れる那珂川。その上流部に位置する狭隘な盆地地形の那須地域には、弥生時代の遺跡が皆無である。しかし、古墳時代を迎えると突如、大型の前方後方墳が出現し、累々と築かれたのである。墓域は2エリアに分かれ、南域(那珂川町)では駒形大塚古墳(3世紀後半、61m)→吉田温泉神社古墳(47m)→那須八幡塚古墳(4世紀前半、61m)、北域(大田原市)では上侍塚北古墳(4世紀前半、48m)→下侍塚古墳(84m)→上侍塚古墳(4世紀後半、114m)と6基の大型・中型前方後方墳が継続し、東国では他に例をみない。/このうち、駒形大塚古墳には画文帯四獣鏡(三国西晋鏡)、 那須八幡塚古墳には菱鳳(きほう)鏡、下侍塚古墳には斜縁神獣鏡(いずれも漢鏡6・7期鏡)といった中国鏡が副葬されていた(上野2014)。このように、東国古墳に中国鏡が三代にわたって保有されるのは特筆される現象である。また、首長系列が前方後円墳ないし円墳に転換しないことも注意され、前方後方墳を築造する外来集団の「本流」を担うような集団の出自を想定させる。太平洋岸から那珂川を遡上した独立盆地に、中国鏡複数を保持する優勢な外部集団が組織的に移住・定着し、その技術で一気に地域開発を行ったとしか考えられないであろう(北條2013)。」(pp.35-37)

上毛野国のように、前方後方墳から前方後円墳、しかもその大型化、そしてヤマト王権との連携といった古墳時代の王道を行く流れから見ると、那須国は、かなり特異な道を歩んだ地域と映るようだ。

開発も発掘も、現代の都市域が中心

全国で年間7,000~8,000件の発掘調査が行われているが、その99%が開発や工事に伴う「緊急発掘調査」「行政発掘調査」だ。結果として都市部や近郊での発掘が多くなる。縄文遺跡で名高い三丸山遺跡は青森市郊外で、県営野球場をつくるのを契機に発掘され発見された(野球場建設は中止)。弥生期の吉野ヶ里遺跡(佐賀県)も、工場団地建設を契機に本格調査され大規模な環濠集落であることがわかった。那須国の三輪仲町遺跡も、この地域としては珍しく開発(国道293号線のバイパス建設工事)が行われる際に発掘され、大規模集落跡であることがわかった。弥生文化の中心でも何でもなくむしろ辺境だった東京湾岸(現東京都文京区弥生)から出た土器に準じて「弥生時代」が命名されたりする。那須国中枢部のように、かつて繁栄したが現在は辺境化しているやや珍しい地域では、発掘と発見が相対的に少ない。

例えば私の生家のすぐ西に小川小学校下の河岸段丘があり、そこに「猿井戸」と呼ばれる湧水箇所がある。かつてはその一帯に湖沼が形成されていた。人間の居住に適し、掘れば何か出てくるだろう、とかつて教育委員会で発掘に携わっていた郷土史家が言っていた。実に面白い。私の生家の下を掘ればざっくざっくと遺跡が…。しかし、この辺で発掘が行われた形跡はない。

奈良も弥生後期遺跡が貧弱

何を隠そう、天下の奈良盆地でも、強大なヤマト王権が形成されるにもかかわらず、その前代の弥生後期の遺跡が貧弱という問題があり、研究者を困らせている。弥生中期に比べて集落は減少しているし、鉄器の出土も少なく、吉備、出雲、丹後にあったような弥生型大型墳丘墓もない。だから、この地は何か「外的要因」で突然発展したのではないか、という議論も出てくる。例えば吉備から入った外来豪族がヤマト王権をつくった、など。これでは邪馬台国畿内説も危うくなってくる。

これに対し、発掘調査が十分に行われていないからだという反論もある。「河内平野では遺構面が深く大規模開発でなければ調査が及ばず、奈良盆地の場合は調査の契機となる開発事業はこれまで少なく、いずれにしても十分明らかになっていない」という(岸本尚文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」『国立歴史民俗博物館研究報告 』第185集、pp.380-381)

かの河内平野(大阪平野)、奈良盆地にしてこれだ。那須国の現況は推して知るべし。そうした中で古墳という存在は、地面を掘り返さなくても、そのままで、そこに何かがあったことを明瞭に語ってくれる。「あり得ない」地域に確かに何かがあったことを、まがうことなく、祖先たちが後世の私たちに伝えてくれている、と思う。

那珂川下流域とのつながり

この地域では確かに弥生遺跡の確認例は少ないが、今のところ「発掘調査例もほとんど無い」のだ( 栃木県埋蔵文化財調査報告書第366集(2014年) 、pp.8-9)。少ない発掘の中での出土例としては、例えば、栃木県指定史跡第1号の栄誉に預かった吉田富士山古墳(30x28mの方墳)の周溝発掘調査を行った際(1971年)、周辺2件の古墳時代住居跡と弥生式土器が出土した。弥生期後半の十王台式に分類される土器で、那珂川下流部や茨城県北東部に広く分布する形状の土器だった(栃木県教育委員会『吉田富士山古墳』1971年、p.9)。本シリーズ③で紹介する通り、那珂川河口域の磯浜古墳群近くに大規模な弥生後期集落が見つかっており(茨城県大洗町)、これとの関連も考えられる(後述)。発掘は吉田富士山古墳の周溝調査であったため、それ以上の調査はなされなかったが、北隣の那須八幡塚古墳にかけてさらに集落が広がっている可能性が指摘されている(同上書、p.6)。

また、上述・私の生家近くでも、(発掘でなく)表面採集からであるが、弥生期十王台式土器の完形品が見つかっている(すでに消滅した旧小川町上河原の宮内遺跡)。これら弥生土器が見つかった場所は、私の生家地域も含めて、「上河原面」と呼ばれる那珂川の最低段丘面に相当し、「水田耕作をともなう(弥生)後期後半の文化が那珂川を遡上して、この地に侵入していることを示唆」するという(同上書、p.9)。

大型古墳時代の終わり.

古墳時代は7世紀頃に終了する。大化2年(646年)に発布された「薄葬令」の影響もあり、全国的に大規模な古墳はつくられなくなった。那須国の場合には、それに先駆け、4世紀後半の上侍塚古墳(114m)を最後に大規模古墳の築造は終了している。前述・上野国など東国他地域では大規模古墳の築造はある程度継続する。なぜ那須国が早々と大規模古墳路線を止めたのかは究明課題だが、一つには那珂川をのぼってくる外来勢力に当地の威を示す必要が薄くなったという要因を見る。那須国の大規模古墳は、最初期の駒形大塚古墳を除き、いずれも那珂川に面する段丘高台に立っている。那珂川水上交通を利用する者たちへの示威効果があった。後述のように、当時ヤマト王権は東国蝦夷への侵攻のため、那珂川水運で東北に向かい、那須国はその前線拠点として利用されたはずだ。大規模古墳は一般にその地の権勢を誇示するシンボルとしてつくられたが、この場合でも、押し寄せるヤマト王権へのけん制の狙いがあったと思われる。しかし、4世紀が過ぎると、対蝦夷侵攻の前線は東北南部から仙台平野北隣の方まで北上し、那須国を前線基地とする必要は減じた。海路を通じて直接仙台平野に向かった方がよい。ヤマト軍の那珂川北上は減少し、那須国としても大規模古墳で威を示す必要が減じた。

狭い日本そんなに古墳つくってどこに住む

もう一つは、土地の狭さだ。隣の上野国、あるいはヤマト地域などに比べて那須国の平野は狭い(関東平野からやや離れている)。人間の集落同様、古墳も洪水のない場所、かつ水利と水上交通に至便で、行きかう舟を見下ろすような河岸段丘の上につくる必要がある。そのような場所が無限にあるわけではない(例えば、下記の古墳密集地の地図参照)。

那須国の那珂川・権津川合流域の古墳密集状況。出典:栃木県小川町教育委員会『那須小川古墳群』2003年、p.27

奈良盆地でも、纒向古墳など初期の有力古墳が集中する盆地東南部の「大和・柳本古墳群」は5世紀末には限界に達し、4世紀後半から5世紀前半にかけて、当時茫漠たる荒野だった盆地北西部の佐紀地域での古墳築造に移行する(「佐紀古墳群」)。さらに5世紀後半には奈良盆地を越えて大阪平野側に築造の中心が移る(世界遺産ともなった「百舌鳥・古市古墳群」)。ここには日本最大の古墳、大仙古墳(仁徳天皇陵の可能性、525m)など、墳長100mを越える古墳が15基ある。ヤマト王権の地は、それだけ周囲に土地があった。それでも限界があり、646年の「薄葬令」に至ったと理解する。平城京建設(710年)では、平城天皇の墓とされる巨大古墳・市庭古墳(250m)をはじめ多数の古墳が破壊され、その上に新しい都が造営されている(広瀬和雄「前方後円墳とは何か」『講座日本の考古学7』青木書店、2011年、p.48)。

(古墳築造の停止の背景には、仏教流入により、古墳よりも仏教寺院の建造を重視する価値の転換もあったことも指摘されている。)

大規模古墳以降

土地の狭い那須国では、4世紀後半で大規模古墳の築造は終了した。以後は周辺地域で身の丈にあった小規模な古墳や横穴墓がつくられる時代となる。例えば箒川左岸の蛭田富士山古墳(帆立貝式前方後円墳、墳長40m、5世紀末から6世紀前半)、旧小川町三輪の首長原古墳(円墳、17m、6世紀後半)、旧馬頭町久那瀬の川崎古墳(前方後円墳、6世紀後半から7世紀初頭)、黒羽に近い那珂川右岸・小船渡の観音塚古墳(円墳、40m、6世紀後半)、二ツ室塚古墳(前方後円墳、46m、6世紀末から7世紀初頭)などなど。さすがにこの地でも6世紀になると、前方後円墳がつくられるようになる。

また、中央政府の薄葬令(646年)以降、全国で増えた横穴墓が多いのもこの地域の特色だ。例えば旧馬頭町の那珂川左岸斜面に「北向田・和見横穴墓群」が分布し、そのうち唐御所横穴は国指定史跡になっている。